洋楽ロック&ポップス名曲1001:1963, Part.1

The Beatles, ‘Please Please Me’

ビートルズの2枚目のシングルで全英シングルチャートで最高2位を記録し、デビューアルバムのタイトルにもなった。アメリカではほとんど話題にならなかったが、この翌年に「抱きしめたい」がヒットしてから再リリースされ、全米シングルチャートで最高3位を記録した。

当初はジョン・レノンが大ファンであったロイ・オービソン風のバラードだったのだが、プロデューサーのジョージ・マーティンがよりスピードアップすることを提案した結果、現在よく知られているバージョンになった。

印象的なハーモニカのフレーズと「Come on」のかけ合い、エキサイティングなハーモニーなどが特徴的なこの楽曲はリバプールサウンドの典型例でもあり、当時のポップミュージックシーンに衝撃をあたえた。

The Surfaris, ‘Wipe Out’

ザ・サーファリーズによるインストゥルメンタル曲で、全米シングルチャートで最高2位、全英シングルチャートで最高5位を記録した。

インディーレーベルで100枚ほどプレスされたレコードはコレクターズアイテムとなっているが、その後でメジャーからリリースされ大ヒットを記録した。サーフロックを代表する楽曲の1つとして知られる。

1987年にはラップグループのファット・ボーイズがビーチ・ボーイズとコラボレートしたカバーバージョンがリリースされ、全米シングルチャートで最高12位、全英シングルチャートでは最高2位のヒットを記録した。

海外でも評価されていた日本の過激なパフォーマンス集団、電撃ネットワークがテーマソング的に使ってもいた。

The Beach Boys, ‘Surfin’ U.S.A.’

ビーチ・ボーイズのアルバム「サーフィン・U.S.A.」からリードシングルとしてリリースされ、全米シングルチャートでの最高位は3位だったのだが、年間シングルチャートでは1位に輝いた。

チャック・ベリー「スウィート・リトル・シックスティーン」のメロディーに、ブライアン・ウィルソンがサーフスポットの地名やサーフィン関連の歌詞を付けたもので、サーフロックを代表する楽曲の1つとして知られる。

ブライアン・ウィルソンが当時、付き合っていた女性の兄弟がサーファーだったらしく、彼からいろいろな情報をリサーチして、歌詞は書かれたようだ。

The Drifters, ‘On Broadway’

人気ソングライターチームとして知られるジェリー・リーバー=マイク・ストーラーがバリー・マン、シンシア・ワイルドの売れっ子コンビとコラボレートした楽曲をドリフターズが歌い、全米シングルチャートで最高6位を記録した。

ベン・E・キングに代わってドリフターズのリードボーカルを務めていたルディ・ルイスをフィーチャーした最後の楽曲の1つでもある。

リーバー=ストーラーに弟子入りしていたフィル・スペクターがギターソロを弾いている。当初はガールグループが歌うことを想定していて、都会に出てきてスターになることを夢見る少女を題材にしていたのだが、実際にこの曲を最初にレコーディングしたのはザ・クリスタルズであった。

Lesley Gore, ‘It’s My Party’

レスリー・ゴーアのデビューシングルとしてリリースされ、全米シングルチャートで1位に輝いた。「涙のバースデイ・パーティー」の邦題でも知られる。

自分の誕生日パーティーで恋人が他の女の子と仲よくしていてとても悲しいというシチュエーションを通して、ティーンエイジャーの苦悩がカジュアルに歌われている。

クインシー・ジョーンズからレッスンを受けていた当時まだ女子高生のレスリー・ゴーアが、この曲を気に入ってレコーディングしていたのだが、どうやらフィル・スペクターが別のグループでこの曲をレコーディングしたらしいという情報が入り、急いでプレスしてラジオ局に配りまくったようだ。

80年代にはデイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンによるカバーバージョンが話題になり、全英シングル・チャートで1位を記録した。2010年にはこの曲のプロデューサーであるクインシー・ジョーンズも、エイミー・ワインハウスのボーカルでカバーしている。

Johnny Cash, ‘Ring of Fire’

ジューン・カーターがマール・キルゴアと共作し妹のアニタ・カーターが歌っていた楽曲をジョニー・キャッシュがカバーしたバージョンで、全米シングル・チャートで最高17位、カントリーチャートでは7週連続1位を記録した。

燃えるような熱い恋がテーマになっているのだが、この曲を書いたジューン・カーターは当時、ジョニー・キャッシュと付き合っていて、やがて結婚することになった。

ジョニー・キャッシュの最初の妻であるヴィヴィアンの著書によると、この曲の実際の作曲者はジョニー・キャッシュであり、経済的に困窮していたジューン・カーターを支援するために共同作曲者としてクレジットしたということである。

また、タイトルは当初、女性の体の一ある部分をあらわしていたようである。

The Crystals, ‘Da Doo Ron Ron’

フィル・スペクターがプロデュースしたガールグループ、クリスタルズのシングルで、全米シングルチャートで最高3位、全英シングルチャートで最高5位を記録した。当初は「ハイ・ロン・ロン」という邦題もつけられていた。

音を重ね合わせることによって生まれる臨場感が特徴的な「ウォール・オブ・サウンド」の手法が初めて本格的に用いられていて、これはフィル・スペクターの代名詞になるのと共に、その後のポップミュージックにも大きな影響をあたえた。

1977年にはアイドルシンガーのショーン・キャシディによるカバーバージョンが全米シングルチャートで1位に輝いた。

Jan and Dean, ‘Surf City’

ジャンとディーンによる架空のサーフスポットについて歌った楽曲で、全米シングルチャートではサーフロックとしては初となる1位に輝いている。

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンとジャンとディーンのジャン・ベリーによって書かれた楽曲だが、ビーチ・ボーイズのどの曲よりも先に1位になったこの曲について、ブライアン・ウィルソンの父でグループのマネージャーでもあったマレー・ウィルソンはどうしてビーチ・ボーイズで出さなかったのかと激怒していたようである。

「2ガールズ・フォー・エヴリ・ボーイ」という歌詞のわりには、ジャケットではジャンとディーンの2男性2人に対して、女性が1人しか写っていない。