洋楽ロック&ポップス名曲1001:1959

The Flamingos, ‘I Only Have Eyes for You’

作曲家のハリー・ウォーレンと作詞家のアル・デュビンが1934年のミュージカル映画「泥酔夢」のために書いたロマンティックなラブソングをドゥーワップグループのザ・フラミンゴスがカバーしたバージョンで、全米シングルチャートで最高11位を記録した。

シングル「ラヴァーズ・ネヴァー・セイ・グッドバイ」がR&Bチャートを超えてポップチャートでも最高52位まで上がったことによって、今度はポップマーケットをターゲットにしたレコードとしてアルバム「フラミンゴ・セレナーデ」が制作されたのだが、最もレコーディングに苦労したのがこの楽曲だったようである。

グループのメンバーでありながらアレンジも手がけていたテリー・”バリー”・ジョンソンは他のメンバーからこの曲のリフレインでは何かエキゾティックなことをやろうとアドバイスを受けていたのだが、寝ている間にアイデアが思いつき、午前4時頃にメンバーをあつめて、印象的な「ドゥー・バップ・シャ・バップ」というハーモニーを加えたバージョンをレコーディングしたという。

マスタリングの段階でボーカルに強めのエコーをかけたことも、独特の浮遊感をかもしだすことに成功している。

当初はシングル向きではないと考えられ、アルバムのB面に収録されていたが、ラジオのDJがこの曲をよくかけたためシングルカットしたところ、グループにとって最大のヒットを記録することになった。

Ray Charles, ‘What’d I Say’

レイ・チャールズの代表曲の1つで、全米シングルチャートで最高6位を記録した。シングルの片面に収録するには曲が長すぎたため、A面とB面で2つのパートに分けて収録されていた。

1958年の12月に行われたコンサートですべての楽曲を演奏し終えたのだが、時間が少し余っていたため、即興で演奏していたときに生まれた楽曲であり、観客からの反応があまりにも良かったことからリリースすることになったようである。

ゴスペルやルンバからの影響があったり、バックアップシンガーとのコールアンドレスポンスのところには性的なほのめかしがあり、一部で物議をかもしたようなのだが、この曲によってレイ・チャールズはR&Bチャートを超えて、ポップチャートでも初めてのトップ10ヒットを記録した。

The Isley Brothers, ‘Shout (Parts 1 and 2) ’

アイズレー・ブラザーズの最初のヒット曲で、全米シングルチャートで最高47位を記録した。

フィラデルフィアで行われたコンサートをいつものようにジャッキー・ウィルソン「ロンリー・ティアドロップス」のカバーで締めくくったはずのアイズレー・ブラザーズだったが、観客の反応があまりに熱狂的で止む気配がないことから、そのまま即興でパフォーマンスを続けていき、それが結果的にこの曲になった。

レコーディングにあたってはメンバーの友人たちもスタジオに呼んで、パーティー的な雰囲気をつくっていったようである。この曲もレイ・チャールズ「ホワッド・アイ・セイ」などと同様にシングルの片面に収録するには長すぎたため、2つのパートに分けて両面にわたって収録されていた。

1964年にスコットランドのポップシンガー、ルルによるカバーバージョンが全英シングルチャートで最高7位のヒットを記録した。

Barrette Strong, ‘Money (That’s What I Want) ’

モータウンレコードの創始者であるベリー・ゴーディがジェイニー・ブラッドフォードとつくった楽曲をバレット・ストロングが歌って、全米R&Bチャートで最高2位、全米シングルチャートで最高23位を記録した。これがモータウンレコードの最初のヒット曲となった。

この曲はデトロイトのスタジオで行われたベリー・ゴーディとバレット・ストロングによる即興的なセッションから生まれ、他のミュージシャンの演奏も加えられていったのだが、ギターとベースはたまたま通りがかった白人の高校生によるものだといわれている(ギターを弾いているのはユージン・グルーだという説もあるが)。

ビートルズがアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」でカバーしたことによってロックファンにもよく知られているが、1979年にはニューウェイブのフライング・リザーズによるカバーバージョンが全英シングルチャートで最高5位を記録している。

日本ではRCサクセションが1988年のアルバム「カバーズ」において、「金ねーか」といった日本語詞でカバーしていた。