アーケイド・ファイア「ウィ」

アーケイド・ファイアが6作目のアルバム「ウィ」を、2022年5月6日にリリースした。この前のアルバム「エヴリシング・ナウ」から5年ぶりだという。その間にスパイク・ジョーンズ監督の映画「her/世界でひとつの彼女」のオリジナル・スコアが、アーケイド・ファイア&オーウェン・パレットとしてリリースされていた。映画の公開は2013年だったが、サウンドトラックが発売されたのは2021年である。2014年のアカデミー賞で、ベスト・オリジナル・スコアにノミネートされていた。ホアキン・フェニックスが演じる主人公が、人工知能に恋をするという内容が当時、話題にもなっていた。SiriがiPhoneに搭載されてからまだそれほど経っていなかったり、アマゾン・アレクサが発売される少し前の公開である。このようなツールについては、便利に使いこなすかまったく使わないという場合がほとんどだと思われるが、必要以上に恐怖を感じて、敵対心を燃やすというタイプの人たちも一定数はいるような気がする。

それはそうとして、この「ウィ」というアルバムなのだが、いきなり大きな瞳のアップがアルバムジャケットのアートワークでインパクトがある。デヴィッド・ボウイの「ハンキー・ドリー」「ジギー・スターダスト」のジャケットを手がけた、テリー・パストールによるものだという。アーケイド・ファイアが2004年のアルバム「フューネラル」でブレイクした頃だっただろうか、デヴィッド・ボウイが絶賛している若手バンドということで話題になってもいたような気がする。インディー・ロック・バンドということにはなっているのだが、どこかクラシック・ロック・ファンをも安心させるというか、ひじょうに分かりやすいバンドであるように思える。その辺り、レディオヘッドなどにもなんとなく通じるなと思っていたところ、「ウィ」の共同プロデューサーは、レディオヘッドの作品などでおなじみのナイジェル・ゴッドリッチだという。アーケイド・ファイアにとっては、今回が初起用である。

「ウィ」というタイトルはロシアの作家、エヴゲーニイ・ザミャーチンのディストピア小説「われら」から取られたものらしい。この小説はジョージ・オーウェル「1984年」にも影響をあたえたといわれている。この「1984年」という小説は1949年に刊行された近未来ディストピア小説なのだが、それこそ1984年が訪れる少し前には「ミュージック・マガジン」の中村とうようなども取り上げていて、管理社会や全体主義に対する警鐘としていまこそ読みべき、というような風潮があったように思える。実際に旭川の平和通買物公園にあったブックス平和レベルの書店でもハヤカワ文庫版が平積みされていて、年末年始の読書のために、父と半分ずつお金を出し合って買った記憶がある。この小説はその後も何度かリバイバルしているような気がする。

2010年にリリースされた3作目のアルバム「ザ・サバーブズ」がアメリカ、カナダ、イギリスなどのアルバム・チャートで1位に輝き、グラミー賞でも最優秀アルバム賞を受賞するなど、ひじょうに人気も評価も高かった。このアルバムはアメリカの郊外というコンセプトによって、現代社会に潜む閉塞感のようなものも批評的に描いたという点で評価されていたのだが、音楽的にもフォーク・ロック的でクラシック・ロック・ファンにも分かりやすかった。しかし、この後のアルバムではシンセ・ポップのような曲も入ってきたりして、引き続き高く評価するメディアもあったものの、少し微妙な感じにはなってきていた。

そこへいくと、今回の「ウィ」というアルバムは原点回帰というか、わりとフォーク・ロック的でアンセミックな持ち味も生かされているので、クラシック・ロック寄りのリスナーには「ザ・サバーブズ」以来に盛り上がれるのではないかというような気がするのだが、やはり曲の後半にシンセ・ポップ的な要素が入ってきたりする場合もある。

「ウィ」はいくつかの組曲的なもので構成されていたりもして、全体で約40分間である。最初に「エイジ・オブ・アンザエティ」という曲のⅠとⅡが収録されているのだが、タイトルからして不安の時代といってしまっている。確かに不安がひじょうに多い時代であり、これを自明のものとして生きざるをえない若者はまだしも、かつて現在よりも不安がなかった時代を知っていたり、その頃の生活習慣や経済観念がベースとなっている人たちにとっては、さらに不安な時代だということができる。

「エンド・オブ・ジ・エンパイア」という曲も、タイトルを直訳すると帝国の終わりなのだが、その帝国というのが、どうもアメリカを中心とした高度消費社会を背景としているように思えなくもない。だとすると、その終わりというのは現実的であり、共感されやすくもあるのかもしれないのだが、そのセンチメンタリズムには乗れない人たちも少なくはないように思える。人生の半分を悲しい気分で生きる、というようなことを嘆きながら歌っているのだが、レディオヘッドにも通じる自己憐憫感も感じられ、ナイジェル・ゴッドリッジを起用した必然性も感じられるというものである。

しかし、曲によってはシンセ・ポップ的であったり、ポップでキャッチーなところもあるため、それほど陰鬱な感じにはなっていなく、そこがユニークでもあるように思える。この「エンド・オブ・ジ・エンパイア」という曲では「unsubscribe」という言葉が何度も得意げに繰り返され、何かひじょうに多くなメッセージを発しているようでもある。今日、音楽のSpotify、Apple Musicや映像のNetflixなど、サブスクリプションがポップ・カルチャー試聴に欠かせないものにもなってきているが、「unsubscribe」という単語を連呼することによって、それらに抵抗しているようなところもある。単にサブスクリプションの購入を停止するということではなく、こういう世の中のサブスクリプション的な流れから脱しようというような広大なメッセージを発しようとしているのかもしれない。その背景には、インターネットの進化を背景とした現代社会の新しい流れに対する抵抗感があると思われるのだが、「ザ・ライトニング」という曲を聴いた感じだと、そういったテクノロジーとかインターネット的なものが、大切な人とのリアルな関係性を阻害するものとして敵認定されているのではないかと想像できる。そして、このような表現はおそらくある一定の人びとに対しては響くのではないだろうか。

かつて、レディオヘッドが1997年の「OKコンピューター」でやっていたようなことを、現在的にアップデートしたようなものという解釈も考えられるのだが、たとえばThe 1975の2018年のアルバム「ネット上の人間関係についての簡単な調査」のように、それらを使いこなし、恩恵も受けながら批評的に取り上げた作品と比べるとヴィヴィッドさに欠けているようにも感じられる。

「アンコンディショナルⅠ(ルックアウト・キッド)」はウィン・バトラーとレジーヌ・シャサーニュの9歳の息子に歌われていると思われるのだが、この曲ではこの世にパーフェクトな人などはいないということが強調され、擦りむいた膝の人生、ハートブレイクは簡単に訪れる、しかし、痛みのない人生は退屈である、などと歌われる。

ピーター・ガブリエルがゲストとして参加した「アンコンディショナルⅡ(レース・アンド・レリジョン)」においては、大切な人の人種と宗教になり、愛は迷信ではなく、肉体も精神も一体となる、というようなひじょうにエモーショナルな内容がアンセミックに歌われている。

不安の時代をテーマにし、それに対しての切実なアプローチの一例として機能もする作品のように思えるが、場合によってはユーモアに欠けているように感じられるかもしれないし、むしろそこが良いと捉えられるかもしれない。