「ライヴ・エイド」という伝説のチャリティー音楽イベントの思い出
「ライヴ・エイド」というチャリティーライブイベントは、1985年7月13日にイギリスのウェンブリー・スタジアムとアメリカのJFKスタジアムをメイン会場として開催され、世界中のテレビで中継もされた。日本では午後9時からフジテレビで放送されていて、逸見政孝アナウンサーが「次はスタイル・カウンシルさんです」などと紹介していたような気がする。
元々はその前の年、1984年にパンク・ロック・バンド、ブームタウン・ラッツの中心メンバーだったボブ・ゲルドフがテレビで見たアフリカの飢餓を取り上げた番組に心を痛め、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロと共にチャリティー・シングルをつくって、売り上げを寄付しようとしたことがはじまりであった。このアイデアに当時の多くの人気アーティストたちが賛同し、レコーディングに参加することになった。アーティスト名はバンド・エイド、「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」と題されたこのシングルは、全英シングル・チャートで5週連続1位に輝いていた。
参加していたメンバーは、デュラン・デュランのサイモン・ル・ボン、カルチャー・クラブのボーイ・ジョージ、ワム!のジョージ・マイケル、U2のボーノ、ザ・スタイル・カウンシルのポール・ウェラー、スティング、ポール・ヤング、フィル・コリンズなど、ひじょうに豪華な面々であった。
アフリカの飢饉を救おうという志は素晴らしいのだが、曲そのものはそれほど良くはないのではないかとか、歌詞がなんとなく上から目線なのではないだろうか、というような批判も寄せられたりもしたのだが、実際に大ヒットして、かなり話題にもなっていた。ちなみにいまやクリスマスのスタンダードとして知られるワム!「ラスト・クリスマス」もこの年にリリースされたのだが、バンド・エイドがあまりにも売れていたため、全英シングル・チャートで最高2位に終わっている(その後、2021年1月1日付のチャートで初めて1位に輝いた)。
これに触発され、アメリカでも同様のプロジェクトが企画され、楽曲をマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーがつくり、クインシー・ジョーンズがプロデュースした。これがUSAフォー・アフリカのシングル「ウィ・アー・ザ・ワールド」であり、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、ビリー・ジョエル、ダイアナ・ロス、スモーキー・ロビンソン、ポール・サイモン、ホール&オーツ、シンディ・ローパーなどこちらも人気アーティストがたくさん参加して、全米シングル・チャートで4週連続1位に輝いた。
チャリティーの目的がもちろん重要ではあるのだが、豪華アーティストの共演という側面にやはり注目があつまりがちではあった。ブルース・スプリングスティーンやシンディ・ローパーのエモーショナルなボーカルが特に印象的であり、後にカラオケなどで真似されやすくなった。
個人的にはバンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」がヒットしていた頃は高校3年であり、友人の家に男女であつまりクリスマスパーティーをやった日の夜、灯りを暗くした部屋に寝転んだ状態で、テレビから流れるこの曲のビデオを見ていた。「TV海賊チャンネル」のティッシュタイムのコーナーで、ボックスティシューを取り出しては部屋にばらまいていた女子がいたが、彼女は札幌の短大に通いながら水商売のアルバイトをしていて、それからニトリに就職したはずである。
大学受験に失敗し、しんどい気分になっていた頃にUSAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」がリリースされ、初めて聴いた時にはまだ旭川にいたのだが、ヒットしていた頃には東京で一人暮らしをしていた。日曜日に池袋の西武百貨店に行くと、何階かのエスカレーターの近くに大きなモニターがあり、そこでこの曲のビデオが流れるのを眺めていた記憶がある。
これらの流れを経ての「ライヴ・エイド」だったわけだが、たくさんのアーティストが一堂に会すライブイベントといえば、日本ではこの年の6月15日に国立競技場で「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」というのが行われていた。伝説のバンド、はっぴいえんどの再結成などが話題となっていたが、若い音楽ファンには佐野元春とサザンオールスターズの共演などの方が盛り上がっていて、細野晴臣は「ニューミュージックの葬式」のようだと語ってもいたらしい。
それはそうとして、「ライヴ・エイド」だが、当時は日本人全体の洋楽に対する興味や関心も現在より強く、かなり注目されていたと記憶している。まず最初はイギリスからの中継だったのだが、ステイタス・クォーという大貫憲章の「全英トップ20」で名前はよく聞くのだが実はよく知らないバンドが登場していた。そして、ザ・スタイル・カウンシルなのだが、当時の日本の一定数の若者と同様に、アルバム「カフェ・ブリュ」で大ファンになり、この年に出た「アワ・フェイヴァリット・ショップ」も池袋パルコにあったオンステージヤマノというイカしたレコード店で買って、かなり気に入っていた。
ザ・スタイル・カウンシルの音楽は特に日本ではおしゃれ音楽としても消費されがちだったのだが、「ライヴ・エイド」でのステージはわりとパンキッシュでなかなか良かった。やはりポール・ウェラーはカッコよくて最高だということを、再認識させられるにはじゅうぶんであった。
いまさらではあるが、日本は夜だがイギリスではまだ昼である。ブームタウン・ラッツ、アダム・アント、ウルトラヴォックス、スパンダー・バレエに続いてエルヴィス・コステロが登場し、ギター弾き語りでビートルズ「愛こそすべて」のカバー1曲だけをやって去っていったのも、かなりカッコよかった。ビートルズの曲で合唱、イギリスの野外ライブイベントだな、という感じである。
ニック・カーショウに続いて、この頃にとても流行っていたおしゃれ音楽といえば、で思い出されるシャーデーである。イギリスから少し遅れてアメリカでも、この頃にはすでにヒットしていた。FENでも「スムース・オペレーター」がよく流れていたことが思い出される。イギリスとはいえおそらく暑い夏の午後なのだろうが、その音楽とたたずまいには清涼感が感じられる。
スティングとフィル・コリンズの夢の競演、しかも「見つめていたい」「ロクサーヌ」などポリス時代の曲までやっていた。スティングの初ソロ・アルバム「ブルー・タートルの夢」が発売されたのはこの年だが、ポリスの解散が正式に発表されていたのかについてはよく覚えていない。それから、ハワード・ジョーンズ、ブライアン・フェリーに続いて、ポール・ヤングはバンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」を少し歌った。確かにこの曲の最初のソロ・パートがポール・ヤングだったのだが、後でオールスターメンバーによって歌われるこの曲においては、そのパートをデヴィッド・ボウイが歌うことになっていたので、ここで歌ったのだろうか。
そして、U2なのだが、ボーノのカリスマ性が発揮されたインパクトの強いステージであった。当時、イギリスやヨーロッパではすでにかなり人気があったのだが、アメリカではこの前の年にシングル「プライド」が初めて全米トップ40入りを果たしたレベルであった。この後の大躍進を考えるに、この「ライヴ・エイド」でのステージは、もしかするとU2にとっては大きなプロモーションとしても作用したのかもしれない。
ダイアー・ストレイツは全米NO.1ヒットとなった「マネー・フォー・ナッシング」をレコードと同様にスティングをゲストに迎えて演奏するなどし、それから映画「ボヘミアン・ラプソディー」でもお馴染みのクイーンのステージである。実はこの時点でバンドの状態はそれほど良くはなく、解散も考えているほどのレベルだったのだが、この「ライヴ・エイド」でのステージがかなりうまくいき、再浮上のきっかけをつかんだともいわれる。デヴィッド・ボウイ、再結成したザ・フー、エルトン・ジョン、ふたたびクイーンからフレディー・マーキュリー&ブライアン・メイ、ポール・マッカートニーがビートルズ時代の「レット・イット・ビー」を歌い、「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」でイギリス会場は大団円である。
そして、アメリカのJFKスタジアムなのだが、バーナード・ワトソンに続いて、ジョーン・バエズはややすべったらしく、フーターズ、フォー・トップス、ビリー・オーシャン、ブラック・サバス、RUN D.M.C.、リック・スプリングフィールド、REOスピードワゴン、クロスビー、スティルス&ナッシュ、ジューダス・プリースト、ブライアン・アダムスと、なかなかバラエティーにとんだ面々に続いてビーチ・ボーイズである。この年に最新アルバム「ザ・ビーチ・ボーイズ’85」をリリースし、シングル「ゲッチャ・バック」をスマッシュヒットさせていたとはいえ、やはり懐メロ感がただよってもいた。サザンオールスターズは将来、日本におけるこういったポジションのバンドになるのだろうか、などとまだ「KAMAKURA」などという攻めたアルバムをリリースする年にもかかわらず、そんなことを考えさせられた。
ジョージ・ソログッド&ザ・デストロイヤーズ、シングル「ドント・ユー」が絶賛大ヒット中だったシンプル・マインズ、プリテンダーズ、サンタナ、アシュフォード&シンプソンに続いて、前の年にリリースした「ライク・ア・ヴァージン」で大ブレイクしてから、まだそれほど経っていなかった頃のマドンナである。ベット・ミドラーによるやや意地悪な紹介があったわけだが、楽屋でのマドンナの素行がそれほど良くはなかったことが影響していたのではないかともいわれる。それはそうとして、すでにスター性をかなり感じさせる。
トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、ケニー・ロギンス、カーズ、ニール・ヤング、パワー・ステーション、トンプソン・ツインズ(マドンナ、スティーヴ・スティーヴンス、ナイル・ロジャースがゲスト参加)、エリック・クラプトン、イギリスでのステージの後で飛行機で飛んできたフィル・コリンズ、レッド・ツェッペリン、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、デュラン・デュラン、パティ・ラベル、ホール&オーツ(エディ・ケンドリックス&デヴィッド・ラフィンがゲスト参加)、ミック・ジャガー(ゲストにティナ・ターナー)、ボブ・ディランとキース・リチャーズとロニー・ウッドと続いて、最後は「ウィ・アー・ザ・ワールド」で締めくくりである。
日本でのテレビ放送にあたり、スタジオでの進行がかなりグダグダで顰蹙を買ったりしていたようなのだが、それほどずっとちゃんと見ていたわけでもなく、途中でかなり本格的に寝てもいたので、それほど気にはならなかった。佐野元春は途中で退席したらしい。忌野清志郎はどくとる梅津バンドとのDANGERで「はたらく人々」を歌っていた。
2004年にDVD-BOXが発売され、思い出なので取り敢えず買っておいた。現在でも処分せずに取ってあるのだが、それほど熱心に視聴してはいない。クイーンやレッド・ツェッペリンの演奏は収録されていない。確かにこれをリアルタイムで見ていたはずである、という以外に特にいうべきこともないのだが、それそのものがすべてだったとしても、記録しておくべきではないか、という気はなんとなくしている。
この年の秋に発表されたプラザ合意をきっかけとして、日本はバブル景気へと突入していくことになる。阪神タイガースが21年ぶりに優勝して、「ビックリハウス」が休刊になった。渋谷駅の近くの露店のようなもので売っていたホイットニー・ヒューストンの輸入カセットテープを確か千円ぐらいで買って、パステルブルーのウォークマンで聴きながら公園通りを歩くと、街の景色はまるでプロモーションビデオのように見えた。