松本伊代「TVの国からキラキラ」
「TVの国からキラキラ」は松本伊代の3枚目のシングルとして、1982年5月21日に発売された。佐野元春のアルバム「SOMEDAY」とまったく同じ日である。全米シングル・チャートの1位はポール・マッカートニー&スティーヴィー・ワンダー「エボニー&アイボリー」であった。オリコン週間シングルランキングでの最高位は15位、TBSテレビ系の「ザ・ベストテン」では最高9位で、「センチメンタル・ジャーニー」「ラブ・ミー・テンダー」に続き、3曲連続でのベストテン入りを果たしていた。とはいえ、「センチメンタル・ジャーニー」がオリコン週間シングルランキングで最高9位、「ザ・ベストテン」で6位、「ラブ・ミー・テンダー」がオリコン週間シングルランキングで最高11位、「ザ・ベストテン」で最高9位だったのに比べると、ややトーンダウンしている感は否めなかった。
「花の82年代組」という言葉があるぐらいで、1982年にデビューした女性アイドルには後にかなりの人気者になった人たちの数が他の年に比べて多いとされている。松本伊代が「センチメンタル・ジャーニー」でレコードデビューしたのは1981年10月21日なのだが、各音楽賞レースでは1982年の新人という扱いになるため、「花の82年組」の1人とされている。アイドル歌手は毎年、春にデビューするケースがひじょうに多く、「花の82年組」の場合もほとんどそうだったのだが、松本伊代だけ一足早かった。ちなみに、薬師丸ひろ子のデビュー・シングル「セーラー服と機関銃」のリリースが「センチメンタル・ジャーニー」の1ヶ月後にあたる1981年11月21日なのだが、すでに若手女優としてかなり人気があり、満を持しての歌手デビューという感じだったのと、音楽賞レース的なものにはおそらくほとんど参加していないことからか、「花の82年組」と呼ばれることはない。「セーラー服と機関銃」も当初は来生たかお「夢の途中」が映画の主題歌になるはずが、監督の一存で急遽、主演女優である薬師丸ひろ子が歌うことになり、来生たかおの姉にしてこの曲の作詞者でもある来生えつこがブチ切れるということがあったらしい。薬師丸ひろ子と同じく角川事務所に所属していて、後に渡辺典子と共に角川三人娘と呼ばれることになる原田知世のデビュー・シングル「悲しいくらいほんとの話」も1982年7月5日の発売なのだが、本格的にブレイクしたのが翌年の「時をかける少女」からだったり、やはり音楽賞レース的なものとは距離を置いている印象があったため、「花の82年組」とはされていなかったような気がする。
それでは、松本伊代の他に誰が「花の82年組」だったのかというと、中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、早見優、三田寛子といったところだが、これ以外にはテクノ歌謡の名曲「ハートブレイク太陽族」でデビューした、宇宙から来た性別不明の3人組、スターボーやオスカープロモーション所属の北原佐和子、真鍋ちえみ、三井比佐子のパンジーなどもいた。パンジーはそれぞれがソロのアイドルとして活動し、これもテクノ歌謡の名曲である「ねらわれた少女」でデビューした真鍋ちえみなどは、伝説のミニコミ誌「よい子の歌謡曲」界隈などではひじょうに人気が高かった。パンジーとしては主演映画「夏の秘密」が公開されたりもしたが、これにはビートたけしがラーメン店主人の役で出演していた。
この頃には良識的な人たちからは程度が低い音楽と見なされがちでもあったアイドル歌謡を、あえてサブカル的に楽しもうというような流れがあり、先に挙げた「よい子の歌謡曲」や、近田春夫の歌謡曲評論、東京大学をはじめとする一流大学のアイドル研究会のことなどが話題になったりもしていた。70年代後半というのはニューミュージックが流行っていて、暗くて本格的なものの方が価値があるとされていたようなところがあり、歌謡ポップスの世界でも沢田研二や山口百恵といった大御所的な人たちにまだまだひじょうに人気があった。それが80年代になると、イエロー・マジック・オーケストラなどによるテクノポップや山下達郎「RIDE ON TIME」のヒットによる、後にシティ・ポップと呼ばれるようなタイプの音楽のお茶の間化、テレビではそれまで中高年の娯楽というような印象が強かった漫才が、B&B、ザ・ぼんち、ツービート、島田紳助・松本竜介といった人たちの活躍によって、若者のポップな流行となっていく。そして、1980年は沢田研二が落下傘を背負った派手な衣装で歌う「TOKIO」で幕を開けたのだが、山口百恵の引退はすでに発表されていて、ポスト百恵は誰かということが話題になる中で、松田聖子、田原俊彦の大ブレイクにより、アイドルポップスが久しぶりに復権したような印象があった。こうして、時代そのものがポップでライトな感覚を志向しているように感じられていて、その背景には日本経済が上向きで、生活水準が平均的に上がっていっている、また、今後もそれは続いていくであろう期待や希望というようなものがあったようにも思える。
そのような時代に憧れられていた職業として、コピーライターというのがある。最も有名だったのは、「不思議、大好き。」「おいしい生活」といった西武百貨店の広告などで話題となった糸井重里であろう。その短いコピーでかなりのお金を稼いでいるというような注目のされ方もして、実際にはそれほど楽ではないとも思われるのだが、わりと楽をして稼いでいるようにも見られ、若者の憧れの的ともなった。テクノポップ、アイドル歌謡、漫才ブーム、コピーライターブームといったところは、すべて同じ時代の空気感を象徴していたように思える。
個人的に松本伊代が「センチメンタル・ジャーニー」でデビューした頃というのは、高校受験が近づいてきて、ひじょうにナーヴァスになっている時期ではあったのだが、そこに救いを求めるようにして、松本伊代のレコードやフォト&エッセイ集を買いはじめるという行動を取っていた。当時の松本伊代のキャッチフレーズは「瞳そらすな僕の妹」で、「センチメンタル・ジャーニー」のB面に収録されていた「マイ・ブラザー」もお兄ちゃんに向けて歌っている曲であった。松本伊代よりも学年が下であった立場としては絶妙に微妙だったのだが、それでも依存度は日増しに高まっていき、受験当日の朝などはとにかく「ラブ・ミー・テンダー」のシングルAB面を何度もなくリピート再生して、気合いを注入したりもしていた。
そして、志望していた高校には合格するわけだが、放課後に寄る旭川市街地の書店では、ヤングアダルトというか、これまでとは少し違ったタイプの本などを買いはじめたりもする。糸井重里の「ペンギニストは眠らない」「私は嘘が嫌いだ」というような本が旭川のマルカツデパートに入っていた冨貴堂のわりと目立つところに置かれていて、パラパラ読んでいると軽くておもしろそうだったので、買うようになった。「ビックリハウス」「宝島」といったサブカル的な雑誌を読むようになったのも、この頃である。「ビックリハウス」には糸井重里が「ヘンタイよいこ新聞」というのを連載していて、これがとてもおもしろかった。「宝島」はニュー・ウェイヴやアートのことなどを取り上げていたのだが、「よい子の歌謡曲」のページもあった。この年に「宝島」と同じ出版社から「Boom」というサブカル的なアイドル雑誌が創刊されて、あまり続かずにいずれなくなるのだが、創刊準備号の表紙は松本伊代であった。
松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」「ラブ・ミー・テンダー」は湯川れい子が作詞していたのだが、「TVの国からキラキラ」の作詞は糸井重里であった。個人的に当時の好きなものが凝縮されたような楽曲だったわけだが、実は当時、このシングルを買っていなかった。なぜなら、春にたくさん新しいアイドルがデビューする中で、早見優に目移りしていたからである。この頃、田中康夫が何かの雑誌のインタヴューで、最近のアイドルで好きなのは松本伊代と早見優といっていて、うれしくなったような記憶がある。ちなみに、高校の国語教師が田中康夫の「なんとなく、クリスタル」は文学として認めない、などと言っているのに対し、図書準備室なるところで延々と議論するなどというひじょうに面倒くさいことをしていたような気もする。この年の秋にはカーリー・サイモン「ホワイ」からのインスパイアぶりの素晴らしい切なさ満載の名曲「抱きしめたい」を聴いて、やはり松本伊代こそが至高である、という感じにはなるのだが。松本伊代のことは表現者としてもリスペクトしているのだが、東京の女の子を感じさせるところがとても良かった。
「TVの国からキラキラ」という曲は、恋をするといつも見慣れた周りの風景がすべてキラキラして見える、というようなわりとベタなシチュエーションをテーマにしているわけだが、「古い少女マンガの まるでヒロインみたい」とちゃんと言い訳されているところがとても良い。これをマスコミ業界やメディアという当時の若者にとっての憧れの場所から、アイドルの松本伊代が歌っているということで「TVの国から」なのであろう。「ねえ 君ってキラキラ」というセリフも素晴らしいし、「夜空の星もキラキラ わたしの瞳キラキラ」と、とにかく軽いところがとても良いのだが、「カンニングさえサラサラ」というようなフレーズを忍び込ませているところに、当時の糸井重里の勢いを感じる。作詞家としての糸井重里といえば、この時点までに沢田研二「TOKIO」、矢野顕子「春咲小紅」などが有名だったが、他にも榊原郁恵のテクノ歌謡「ROBOT」、個人的にはポスト百恵候補にあげられていたこともある浜田朱里「あなたに熱中」が適度にウェットなボーカルと「好きよ あげたいの」というような性典歌謡的なところもかなり気に入っている。松本伊代のこの次のシングル「オトナじゃないの」も良いのだが、アルバム「Only Seventeen」に収録された「魔女っ子セブンティーン」こそが真髄だといえよう。あとは、大塚の「FIVE STAR」というカレーのCMに松本伊代は出演していたのだが、ラッキョウが転がるのがおもしろくてただ笑っているというものがある。これがガラスを引っ掻く音をずっと聞いているうちに気持ちよくなってくるのに近い感覚があり、素敵なアイドル歌手はたくさんいるのだが、松本伊代にしか表現できない魅力だと強く感じた。
糸井重里の「ヘンタイよい子新聞」は1982年7月15日に単行本としても発売されるのだが、ゆかりのある著名人からのコメントも掲載されている。RCサクセションの忌野清志、仲井戸麗市、桃井かおり、田原俊彦、ビートたけし、大滝詠一、江川卓、篠山紀信、タモリといった錚々たる人たちの中に松本伊代もいるのだが、一言コメント的なものも少なくはない中で、ゴキブリをつぶしたママが恐いというエピソードを、わりとちゃんとした構成で出していて素晴らしい。
このような時代からすでに40年が経過しているわけだが、かつて著書や連載などを貪るように読んでいた糸井重里に対してはどちらかというと、というか多分にアンチ的な感じになり、松本伊代については夫であるヒロミのYouTubeチャンネルで車に乗って八王子ラーメンを食べに行く途中、荒井由実「中央フリーウェイ」を口ずさむのを聴いて、良いものだなと和んだりしている。
「花の82年組」の活躍によって80年代のアイドル文化はひじょうに盛り上がりを見せ、その中心には中森明菜や小泉今日子がいたわけだが、斬り込み体調的な役割を果たしたのは松本伊代だったのではないかというような気がしている。その後、相対的にレコードのセールスでは堀ちえみ、石川秀美、早見優などの方が上回るようにもなっていくのだが、その存在はひじょうにユニークであり、一部からは熱烈に支持され続けたように思える。「花の82年組」をブリットポップに例えると、中森明菜がオアシスで小泉今日子がブラーで松本伊代がスウェード、などと言ってしまいたくもなるのだが、賛同を得られる予感の欠片もないのだ。