ホーランド=ドジャー=ホーランドの名曲ベスト10
ホーランド=ドジャー=ホーランドとは、エディ・ホーランド・ジュニア、ブライアン・ホーランド、ラモン・ドジャーからなるソングライティング&プロダクションチームであり、1960年代のモータウンにおいて、数々のヒット曲を世に送り出したりした。1988年4月18日には、ソングライターズ・ホール・オブ・フェイム、つまりソングライターの殿堂入りを果たしているホーランド=ドジャー=ホーランドの数あるヒット曲の中から、今回は特に名曲なのではないかと思われる10曲をあげていきたい。
10. (Come ‘Round Here) I’m the One You Need – Smokey Robinson & The Miracles (1966)
ザ・ミラクルズはリード・ボーカリストのスモーキー・ロビンソンが優れたソングライターであったこともあり、ホーランド=ドジャー=ホーランドの曲をそれほど歌ってはいなかったのだが、「ミッキーズ・モンキー」やこの曲などが数少ないそれになるわけである。好きな相手には別に恋人がいるのだが、どうやら浮気をされたり誠実ではないようで、自分の方が相応しいのではないか、というようなことを熱く歌った曲である。全米シングル・チャートでは、最高17位を記録している。
9. I Can’t Help Myself (Suger Pye Honey Bunch) – The Four Tops (1965)
「渋谷系」の人たちが大好きな、というかフリッパーズ・ギターが国内盤のライナーノーツを担当してもいたスコットランドのネオ・アコースティックというかインディー・ポップ・バンド、オレンジ・ジュースの曲に「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」という曲があって、カバーではないのだが「just like the Four Tops」というフレーズが歌詞にあるように、明らかにインスパイアはされている。恋をしてメロメロになっている男の心情が、リーヴァイ・スタッブスの力強いボーカルで勇ましく歌われているところがとても良い。1965年6月19日付の全米シングル・チャートで1位に輝き、翌週にはザ・バーズ「ミスター・タンブリン・マン」に抜かれるのだが、1週でふたたび1位になり、そのまた翌週にはローリング・ストーンズ「サティスファクション」に抜かれ、年間シングル・チャートではサム・ザ・シャム&ザ・ファラオス「ウーリー・ブリー」に次ぐ2位であった。
8. Where Did Our Love Go – The Supremes (1964)
ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスはある時期まで、単にザ・シュープリームスというのが正式なアーティスト名だったわけだが、カタカナ表記となるとこれがザ・シュープリームスだったりザ・スプリームスだったりして、またややこしい。それはそうとして、60年代のアメリカにおいてヒット曲を連発し、モータウン所属のアーティストの中でも特に人気があるグループであったことには間違いがない。「愛はどこへ行ったの」の邦題でも知られるこの曲は、はザ・シュープリームスが全米シングル・チャートで初めて1位に輝いた記念すべき曲であり、ここから伝説がはじまったということもできる。
7. Heat Wave – Martha & The Vandellas (1963)
ザ・ジャムが1979年のアルバム「セッティング・サンズ」でこの曲をカバーしていたが、この年には1960年代のモッズの生態を描いた映画「さらば青春の光」も公開されていて、彼らにソウル・ミュージックがひじょうに人気があったことが分かる。「恋はヒート・ウェイヴ」という邦題もかなり良いのだが、恋をして燃えさかる想いを熱波にたとえるという、ひじょうに分かりやすくも共感を呼びやすいポップソングとなっている。全米シングル・チャートでは1963年9月21日付から2週連続で記録した4位が最高位で、その期間の1位はボビー・ヴィントン「ブルー・ヴェルヴェット」、最後の週の3位はザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」であった。
6. Baby Love – The Supremes (1964)
ザ・シュープリームスが全米シングル・チャートにおいて、「愛はどこへ行ったの」に続いて2曲連続で1位に輝いた曲である。この時点でザ・シュープリームスは2曲以上で全米シングル・チャートの1位を記録した唯一のモータウン所属アーティストだったのだが、60年代の終りまでには実に12曲もの全米NO.1ヒットを記録するに至っている。ダイアナ・ロスのキュートなボーカルが、健気なラヴソングである楽曲の内容とひじょうにマッチしていてとても良い。
5. Nowhere To Run – Martha & The Vandellas (1965)
マーサ&ザ・ヴァンデラスで最も有名な曲といえば、数々のカバーバージョンでも知られる「ダンシング・イン・ザ・ストリート」だが、作者はマーヴィン・ゲイ、ウィリアム・”ミッキー”・スティーヴンソン、アイヴィー・ジョー・ハンターである。好評であった「ダンシング・イン・ザ・ストリート」とよく似た路線でホーランド=ドジャー=ホーランドによってつくられたのがこの「ノーホエア・トゥ・ラン」ということになり、全米シングル・チャートでは、1965年4月10日付から2週連続で記録した8位が最高位である。あまり関係性が良い感じではない恋人と別れたいのだが、そうすることができないという切実な状況について歌われたダンサブルな楽曲である。
4. This Old Heart Of Mine – The Isley Brothers (Is Weak for You) (1966)
アイズレー・ブラザーズといえばブラック・コンテンポラリー的だった頃の作品もひじょうに人気が高いのだが、ビートルズよりも先に「ツイスト・アンド・シャウト」を歌っていたとか、ノーザン・ソウル・ファンに大人気でロッド・スチュワートのカバーバージョンでも知られるモータウン時代のこの名曲など、いろいろな時期においてそれぞれの良さがあるものである。アイズレー・ブラザーズがモータウンに所属していた時期はそれほど長くはなく、ヒット曲も全米シングル・チャートで最高12位を記録したこの曲ぐらいしかないのだが、もうこれだけで十分すぎるぐらいにとても良い曲である。元々はザ・シュープリームスのために書かれた曲だったようなのだが、アイズレー・ブラザーズが歌ったからこその良さというのが確実にある(後にザ・シュープリームスもカバーしている)。
3. You Can’t Hurry Love – The Supremes (1966)
モータウンサウンドと一般的にいわれている音楽の典型のような楽曲で、全米シングル・チャートで1位に輝いている。「恋はあせらず」の邦題でも知られ、1983年にはフィル・コリンズによるカバーバージョンが全英シングル・チャートで1位に輝いたこともあって、広く知られている。恋は時間がかかるギヴ&テイクのゲームなのだからあまりあせってはいけないと、母から娘がアドバイスを受けるような内容になっている。
2. Stop! In the Name of Love – The Supremes (1965)
ザ・シュープリームスが60年代に記録した12曲の全米NO.1のうちの1つであり、もしかすると最も有名な曲かもしれない。当時のテレビのパフォーマンスを見ると、「ストップ!」のところで手を前に出して制止をするかのようなポーズを取っていたりもして、こういうところもとても良い。浮気ぐせが治らない恋人に向かって、これ以上心を傷つけるのはやめて、と訴える内容の曲である。日本でもピンク・レディーやglobeなど、いろいろなアーティストによってカバーされている。
1. Reach Out I’ll Be There – The Four Tops (1966)
ビリー・ブラッグというイギリスのシンガー・ソングライターがいて、社会派的なメッセージに溢れた楽曲に定評があったり、80年代にはポール・ウェラーなどと政治的な活動を行ったりもしていたのだが、そのスジではひじょうに人気が高い。「リーヴァイ・スタッブス・ティアーズ」という曲が1986年に全米シングル・チャートで最高29位を記録しているのだが、このタイトルにもあるリーヴァイ・スタッブズというのがフォー・トップスのリード・ボーカリストである。どうしようもなくしんどい状況にある女性がポップ・ミュージックを聴くことによって、束の間の救いのようなものを得るというような内容なのだが、この場合、リーヴァイ・スタッブスであるところが肝心なのだと感じられるほどに、そのボーカルはひじょうに力強い。「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」はフォー・トップスの曲の中でも「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」と共にひじょうに有名であり、全米シングル・チャートでも1位に輝いているのだが、もしも希望がすべて失われてしまって、人生はすっかり混乱してしまい、しあわせなどというものはもはやただのまぼろしにしか思えず、周りの世界が崩れ落ちていくように感じられて仕方がないのならば、どうか自分に手を差し伸べて、というようなドラマティックな内容とそれにふさわしいボーカルパフォーマンスがもう圧倒的であり、ポップ・ミュージックが到達した1つの境地なのではないかとさえ思わされる。