ザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」

完璧なポップソングというものが果たして存在するのかどうかは定かではないのだが、少なくともそれに限りなく近いものの1つとして、ザ・ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」が挙げられるのではないだろうか。

1963年の夏にリリースされ、10月に全米シングル・チャートで最高2位を記録したこの曲は、フィル・スペクターがプロデュースした楽曲の中で最もよく知られていて、楽器によって演奏された録音を何重にも重ねたりエコーをかけたりすることによって臨場感を出す、ウォール・オブ・サウンドの技法が効果的に用いられたものとして知られている。

曲そのものは女の子が好きになった男性に自分の恋人になってほしいと懇願するという、ひじょうによくあるタイプのテーマを扱っているのだが、そういったタイプの曲における最高峰というのか驚異的なクオリティーを実現している。

フィル・スペクターのプロデュースワークがやはりひじょうに重要であることには間違いないのだが、それだけではここまで素晴らしいレコードになるとは思えず、やはりロニー・スペクターの圧倒的なボーカルがすごいということになる。

ロネッツは姉妹といとこによる3人組のガールズポップグループで、小さなレーベルからはレコードを出していたのだが、さらなる成功を狙ってフィル・スペクターのオーディションを受ける。ロニー・スペクターは当時はヴェロニカ・ベネットという名前だったわけだが、フィル・スペクターはとにかくその声に惚れこみ、自身のレーベルと契約をすることにした。

それまではダーリン・シスターズというグループ名だったのだが、フィル・スペクターのレーベルと契約してからはザ・ロネッツと改名した。これはヴェロニカ・ベネット、エステル・ベネット、ネドラ・タリーというメンバー3人の名前を組み合わせたものだったという。

フィル・スペクターがプロデュースしたロネッツの最初の楽曲としては、ジェフ・バリーとエリー・グリーンウィッチというソングライターコンビとの共作となる「ホワイ・ドント・ゼイ・レット・アス・フォール・イン・ラヴ」が予定されていたのだが、同じ作者による「ビー・マイ・ベイビー」に変更された。

ジェフ・バリーとエリー・グリーンウィッチは当時は夫婦のソングライターチームとして活躍していて、クリスタルズ「ダ・ドゥー・ロン・ロン」、ディキシー・カップス「涙のチャペル」、マンフレッド・マン「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」、シャングリラス「黒いブーツでぶっとばせ(原題:Leader Of The Pack)」といったヒット曲を手がけていた。

「ビー・マイ・ベイビー」はザ・ロネッツの楽曲ではあるのだが、レコードで歌っているのはメンバーのうちロニー・スペクターのみである。そもそもフィル・スペクターはロニー・スペクターとソロアーティストとしての契約を結びたかったのだが、母親がグループとしてでなければ契約しないと主張したのだという。

ソニー&シェールで「アイ・ガット・ユー・ベイブ」をヒットさせたりしたソニー・ボノは当時、フィル・スペクターのプロモーターとして活動していたのだが、交際中だったシェールを紹介した。これがきっかけで、「ビー・マイ・ベイビー」には無名時代のシェールがバックコーラスで参加している。

演奏は当時、ロサンゼルスで活動していた優れたセッションミュージシャン達によるものだが、特にドラマーであるハル・ブレインによるイントロのビートはひじょうに印象的であり、後に多くの楽曲に影響をあたえた。フィル・スペクターがプロデュースした曲のすべてにこのビートが用いられているわけではもちろんないのだが、フィル・スペクターのサウンドといえばこれ、というような固定概念さえできてしまったような気もする。

「ビー・マイ・ベイビー」は全米シングル・チャートを駆け上がっていき、1963年10月12日付から3週連続で2位を記録した。その間、ずっと1位だったのはジミー・ギルマーとファイア・ボールズの「シュガー・シャック」である。同じ頃に、ボビー・ヴィントン「ブルー・ヴェルベット」なども上位にランクインしていた。

これだけヒットしていたのだから、アメリカのラジオでもよくかかっていたと思われる。ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンもガールフレンドとのドライブ中に、カーラジオでディスクジョッキーが紹介したこの曲を初めて聴いたうちの1人である。あまりにも衝撃を受け、思わず車を停めてしまったという。それから、この曲が大好きでありながらも、強迫観念になっていったようだ。

サーフィン/ホットロッド的な音楽をやっていたビーチ・ボーイズがスタジオワークに凝りはじめ、「ペット・サウンズ」のような素晴らしいアルバムを生み出すに至るきっかけとして、この曲も大きなきかっけをあたえたのではないかと思われる。

ロニー・スペクターはフィル・スペクターと1968年に結婚し、1974年に離婚している。フィル・スペクターの様々な奇行については後にいろいろと明るみに出たわけだが、この結婚生活において、ロニー・スペクターも随分と苦しめられたようである。具体的にはロニー・スペクターがヴィンス・ワルドロンとの共同執筆で1990年に出版した自叙伝「ビー・マイ・ベイビー」に書かれている。この自叙伝については映画化が進行していて、ドラマ「ユーフォリア/EUPHORIA」でエミー賞のドラマ部門主演女優賞を受賞したゼンデイヤがロニー・スペクターを演じることが決まっている。

映画といえばマーティン・スコセッシ監督の1973年の作品「ミーンストリート」サウンドトラックに「ビー・マイ・ベイビー」が効果的に使われていた。また、1987年に大ヒットした映画「ダーティ・ダンシング」のサウンドトラックに使われた件については、使用許可を出していないとかでザ・ロネッツ側がフィル・スペクターを訴えたりもしていた。

「ビー・マイ・ベイビー」はオールディーズの名曲として、80年代あたりにも人気があったのだが、日本でも何かのテレビCMで使われていたような気がする。あれが一体何のCMだったのかさっぱり思い出せないし、調べてもよく分からないままなのだが、「ビー・マイ・ベイビー」を初めて聴いたのはおそらくそれでだったと思うのだ。また、これはレコードを買わなければいけないと80年代の半ばあたりに思い立ち、六本木WAVEでジャケットにメガネが載っているフィル・スペクターのベスト盤を買ったような気がする。ジャケットが同じデザインで青と赤のアルバムが出ていたが、青の方が「ビー・マイ・ベイビー」の他にアイク&ティナ・ターナー「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」、ライチャス・ブラザーズ「ふられた気持ち」などのヒット曲集、赤の方がクリスマスアルバムだったはずである。

1991年の秋に4枚組のCD-BOXセット「バック・トゥ・モノ(1958-1969)」が発売され、これがフィル・スペクターものでは決定版的な扱いになったような気がする。おまけ(?)として付いていた「バック・トゥ・モノ」の缶バッジはいろいろなところにつけて出かけているうちにどこかへ行ってしまった。

また、アメリカのアーティストであるエディ・マネーが1986年に「テイク・ミー・ホーム・トゥナイト」という曲をリリースし、全米シングル・チャートで最高4位のヒットを記録するのだが、途中で「ビー・マイ・ベイビー」の一節が出てくる。当初はここをエディ・マネーの友人でもあったモーテルズのボーカリスト、マーサ・デイヴィスに歌ってもらうようにオファーしていたのだが、彼女のすすめもあってロニー・スペクターにオファーしてみたところ、引退状態であったにもかかわらず、実現したのだという。

ロニー・スペクターはこの曲のミュージックビデオにも出演していて、MTVにもデビューすることになった。当時、低迷していたエディ・マネーはこの曲でグラミー賞にノミネートされ、ロニー・スペクターはこれをきっかけにアーティストとしての活動を再開した。

ラモーンズがカバーした「ベイビー・アイ・ラヴ・ユー」など、ザ・ロネッツには他にも人気の曲があるが、全米シングル・チャートで10位以内にランクインしたのは「ビー・マイ・ベイビー」だけであった。それが2021年に「そりすべり(原題:Sleigh Ride)」がリリースから58年後にして初めて最高10位を記録し、2曲目のトップ10ヒットとなったのであった。

2022年1月13日、ロニー・スペクターの訃報が伝えられた。もちろんその歌声は永遠にポップ・ミュージック史や人々の心に刻まれ続けていくであろう。