ザ・モンキーズ「デイドリーム・ビリーバー」について。

1967年12月2日付の全米シングル・チャートでは、ザ・モンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」がストロベリー・アラーム・クロックのサイケデリックでイカした曲「インセンス・アンド・ペパーミンツ」に代わって1位になっていた。夏のコンピレーションやプレイリストに選曲されがちなこの曲がヒットしたのは、実は真冬だったということである。個人的には当時、生まれてはいたもののまだ乳児だったので、リアルタイムでの記憶はまったくない。

しかし、モテたくて洋楽のレコードも買いはじめた中学生の頃、正確には1980年にザ・モンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」はコダックフィルムのCMに使われ、リバイバルヒットしたのであった。当時の日本といえば、アメリカの特に西海岸の文化にひじょうに憧れているようなところがあり、雑誌の「POPEYE」にもそのような記事がよく載っていたし、私が買ってもらったドロップハンドルの自転車の名前はカリフォルニアロードであった。これは、ザ。ストロークスのアルバート・ハモンドJrの父でもあるアルバート・ハモンドのヒット曲のタイトルなのだが、「カリフォルニアの青い空」というフレーズも、ヒット自体は70年代の前半だったのだが、この頃の気分にもフィットしていたような気がする。

それはそうとして、当時、オールディーズがリバイバルしているようなムードもあって、コダックフィルムのCMではこの前にはママス&パパス「夢のカリフォルニア」を使用したりもしていた。それで、ザ・モンキーズなのだが、実は家にずっと4曲入りのシングルがあって、子供の頃から意識せずによく聴いていた。どうやら父の妹にあたる、私から見ると叔母が若かりし頃に買ったレコードのようなのだが、なぜかずっと家にあったのだ。

ザ・モンキーズは60年代にイギリスのリバプールから現れ、世界中で大ブームを巻き起こしたビートルズに対抗するグループをアメリカでつくろうという目的で、オーディションによって結成されたグループである。当時、いくつものヒット曲を生み出したのだが、ビートルズに比べるとアイドル的で音楽性もそれほど深くはないと見なされていたようである。後はオーディションによって、業界につくられたバンドであるという点も、それほどシリアスには捉えられなかった一因となっていたようである。ビートルズの映画に対抗して、テレビ番組も制作され、それもひじょうに人気があったのだという。

「デイドリーム・ビリーバー」は当時は「デイドリーム」の邦題でリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高4位のヒットを記録していたようである。これぐらいの時期のアメリカのヒット曲で「デイドリーム」といえば、ラヴィン・スプーンフルを思い出してしまうのだが、それでも当時の邦題はそうだったということである。

1980年にコダックフィルムのCMに使われて、リバイバルした時には「デイドリーム・ビリーバー」のタイトルで発売されたようだ。B面には「モンキーズのテーマ」が収録されていた。

ちなみに1980年といえば、YMOことイエロー・マジック・オーケストラを中心とするテクノポップが社会現象的ともいえるブームを巻き起こしてもいたのだが、私は周囲の友人たちの多くがYMOのレコードを持っていたこともあり、プラスチックスのレコードを買っていた。ロゴマークをいろいろなところに落書きするぐらい、プラスチックスのことは大好きだったのだが、デビュー・アルバム「ウェルカム・プラスチックス」では、ザ・モンキーズの「恋の終列車」がカバーされてもいた。

当時、私は旭川の中学生だったのでよく知らないのだが、東京では「ザ・モンキーズ・ショー」が再放送されていたらしく、それでリバイバルに拍車がかかったのだという。また、現在のテレビ東京は当時、東京12チャンネルという曲名だったのだが、平日の朝に放送されていた「おはようスタジオ」でも、ザ・モンキーズのことを積極的に取り上げ、これもリバイバルに貢献したのだという。

旭川のミュージックショップ国原で「オリコン全国ヒット速報」を毎週欠かさず購入して、チャートを熟読していた私は、オリコンのランキングにザ・モンキーズのレコードがたくさんランクインしていることは把握していたのだが、その背景にこのような状況があったことまでは分かっていなかったような気がする。インターネットもなく、テレビが情報源としてひじょうに重要だった当時、このような地方格差というのは実際にあった(「ベストヒットUSA」がはじまったのも、東京より1年半ぐらい遅かったことなど)。

1981年にはザ・モンキーズの映画「HEAD」が東急文化会館で公開されたという。この映画は1968年に撮影されたもので、それまでのアイドル的なイメージを打破しようとした実験的な内容となっている。公開はされたものの、客はあまり入らなかったようである。しかし、その後、カルト的な人気を得るようになり、フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」などにも影響をあたえることになる。

話は変わって、1988年に過激派を思わせるようないでたちをした謎のロックバンドが様々なライブや学園祭などに現れることがあり、風刺的な楽曲をゲリラ的に演奏しては去って行ったりもした。4人組バンドの名前はザ・タイマーズというらしく、ボーカリストのZERRYはRCサクセションの忌野清志郎によく似た人であった。

RCサクセションといえばこの年にいろいろな海外の曲に日本語の歌詞をつけてカバーしたアルバム「カバーズ」をリリースしようとするものの、当時、所属していた東芝EMIからは「このアルバムは素晴らしすぎて発売出来ません」という広告と共に発売を拒否されたのであった。実際には収録曲の中に原子力発電所はいらないという旨を歌った曲がいくつかあって、東芝EMIの親会社は東芝で原子力発電所の産業にもかかわっていたため、それで圧力がかかったのではないかといわれていた。東芝EMIとしては、原子力発電所関連の楽曲を収録せずに発売という提案をしたのだが、RCサクセションがこれを拒んだために発売ができなくなったということである。結局、RCサクセションが以前に所属していたキティレコードから発売され、オリコン週間アルバムランキングで1位を記録した。

中心メンバーの忌野清志郎は大人の事情で仕方がないところもあることは理解しながらも、言論を弾圧されたと「ロッキング・オンJAPAN」の200,000字インタヴューで怒ったりもしていた。ザ・タイマーズのことが話題になりはじめたのは、その頃のことであった。

昭和が終わり、平成になったのだが、ザ・タイマーズの噂は引き続きよく聞かれていた。権力批判などを含むアジテーション的な楽曲が多いということだったが、バンドのテーマソングは「モンキーズのテーマ」のカバーで、「タイマーズのテーマ~Theme from THE TIMERS」であった。「Timerを持ってる」とか「Timerが大好き」などと歌詞カードには印刷されているのだが、気のせいかこれが違法な薬物について歌っているようにも聴こえるし、「すてきな君とトリップしたいな」などというフレーズがあったりもする。

1989年10月11日にザ・タイマーズはデビュー・シングルをリリースするのだが、これがザ・モンキーズ「デイドリーム・ビリーバー」のカバーであり、「デイ・ドリーム・ビリーバー~DAY DREAM BELIEVER~」となっている。忌野清志郎によく似たボーカルのZERRYが日本語の歌詞を書いているのだが、ザ・タイマーズの楽曲の特徴である過激さはそこにはなく、いまはもういなくなってしまった大切な人のことを歌っているようであった。これについては、別れてしまった恋人という解釈が最も一般的だったような気もしたのだが、亡くなった母親のことなのではないかともいわれていて、そう思って聴くとなかなかしっくりくるし、感動的でもあるのだった。

この曲は当時、エースコックのカップラーメン、スーパーカップのCMソングにもなり、若者がカメラに向かって「グラッチェグラッチェ」といったり、風間杜夫が出てきたりしていた。それからかなりの時をへて、今度はセブンイレブンのテレビCMにも使われるようになった。「ずっと夢を見て安心してた」というフレーズが印象的である。

ザ・タイマーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー~DAY DREAM BELIEVER~」は、オリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録した。やはりメジャーに向けては、過激さを抑えて、こういったメインストリームでも受ける曲も歌っていくのだな、と思っていたのだが、このシングルの発売から2日後にあたる10月13日、フジテレビ系の「ヒットスタジオR&N」に出演したザ・タイマーズは、生放送においてリハーサルではやっていなかった「FM東京」なる曲を演奏しはじめ、放送禁止用語を含む過激で痛快な歌詞も歌われた。スタジオはパニック状態となり、CM明けに司会の古舘伊知郎が謝罪をしていた。ザ・タイマーズのZERRYが放送禁止用語を歌っていた時に、永井真理子がわりとうれしそうにしているように見えて、好感を持った。FM東京はRCサクセション「カバーズ」に収録されていた、いわゆる反原発ソングを放送禁止にしていたはずである。エディ・コクラン「サマータイム・ブルース」のカバー・バージョンには、RCサクセションのファンであることを公言していた元おニャン子クラブの高井麻巳子も参加して、「原子力発電所が立っていた」などと歌っていた。この曲がリリースされたのは、高井麻巳子がファンクラブ結成記念コンサートを行った翌月に秋元康と結婚し、芸能界を引退した数ヶ月後のことであった。