a-ha「テイク・オン・ミー」について。

1985年10月26日は土曜日で、埼玉県所沢市の西武球場ではプロ野球日本シリーズの第1戦が開催されていた。21年ぶりとなる悲願のリーグ優勝を果たした阪神タイガースは球界のマッチこと池田親興が西武ライオンズ打線を完封、打ってはランディ・バースが3ランホームランを放ち、敵地での初戦をものにした。水道橋には後楽園球場があったので、読売ジャイアンツ色がひじょうに濃かったのだが、旭屋書店では阪神タイガースを猛烈に推していて、月刊タイガースなども簡単に買うことができた。西武球場には8月11日にRCサクセションのライブを見にいっていた。「上を向いて歩こう」のカバーも演奏していた。坂本九が航空事故で亡くなる前日のことである。

「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマは、この月から山下達郎「土曜日の恋人」に変わっていた。裏番組だった「8時だョ!全員集合」は9月いっぱいをもって放送を終了していた。バブル景気のきっかけとなったプラザ合意は9月22日に発表され、パルコ出版から発売されていたサブカル雑誌「ビックリハウス」はとんねるずを表紙にした数ヶ月後に終刊号となった。「ザ・ベストテン」では1位の安全地帯「碧い瞳のエリス」を、とんねるず「雨の西麻布」が追っていた。西麻布は渋谷駅のロータリーから都バスに乗って六本木WAVEに行く途中にあって、ここがそうなのか軽く感動していた。ホブソンズのアイスクリームショップは当時からずっとそこにある。

全米シングル・チャートではa-ha「テイク・オン・ミー」にかわって、ホイットニー・ヒューストン「すべてをあなたに」が1位になっていた。この曲を収録したアルバムは渋谷駅前の怪しげな露店で売られていた輸入盤のカセットテープを1,000円で買って、ウォークマンで聴きながらセンター街や公園通りを歩いた。大盛堂書店で村上春樹の「回転木馬のデッド・ヒート」を買った。

a-haの「テイク・オン・ミー」はとてもキャッチーで覚えやすい曲だった。特にイントロのシンセサイザーのフレーズである。水道橋の予備校に埼玉県の大宮市(当時)から通っている青年がいて、「ふぞろいの林檎たちⅡ」に出てくるラーメン店(柳沢慎吾が演じる西寺実の実家)のものまねを得意としていた。時々、唐突に本田美奈子「Temptation(誘惑)」のサビの部分などを口ずさんでいたが、洋楽はあまり聴いていなかったようだ。

仲間たちと水道橋の森永LOVEにいた。ホワイトソースのようなものがかかったスパゲティはけし美味しいわけではないし、ちゃんとしたスパゲティが食べたいのならば、近所にはいくらでも店があったはずなのだが、なぜだか時々、森永LOVEのスパゲティをプラスチックのフォークで食べたくなった。そして、やはりそれほど美味しくはない。店内では全米ヒット・チャートにランクインしているような曲が、おそらく有線放送で流れていた。そして、a-haの「テイク・オン・ミー」がかかると、埼玉県大宮市(当時)から通っていた彼ですら「パララパッパッ、パッパパラララ♪」という感じで、あのイントロを口ずさむのであった。

a-haはノルウェー出身のバンドだということが話題になっていた。このヒットの要因として、曲そのもののキャッチーさももちろんなのだが、ミュージックビデオが大きな役割を果たしたことはおそらく間違いがない。鉛筆で描いたマンガのようなものと実写とを組み合わせたような斬新なビデオであり、賞もたくさん受賞していたはずである。

「テイク・オン・ミー」のあの印象的なフレーズは、a-haのメンバーであるマグネ・フルホルメンが15歳の時にすでにつくられていたという。マグネ・フルホルメンの誕生日は1962年11月1日だということなので、15歳だったのは1977年から翌年にかけてである。マグネ・フルホルメンがやはりa-haのメンバーであるポール・ワークターと共に在籍していたブリッジズというバンドに「Miss Eerie」という曲があり、後に「テイク・オン・ミー」でお馴染みとなるフレーズはすでに含まれていたようだ。

当時、ブリッジズのメンバーはこのフレーズがあまりにもポップすぎると感じていて、全体のアレンジをあえてパンク・ロック的にしていたようである。そして、キーボードの演奏については、ドアーズのオルガン奏者、レイ・マンザレクに影響を受けていたという。

その後、ブリッジズは解散し、ポール・ワークターとマグネ・フルホルメンはボーカリストのモートン・ハルケットとの3人で、1982年にa-haを結成する。「Miss Eerie」の改良バージョンという感じで「テイク・オン・ミー」はつくられたらしく、1984年にはトニー・マンスフィールドがプロデュースしたバージョンがシングルで発売される。しかし、全英シングル・チャートでの最高位は137位と、ヒットには繫がらなかった。

確かにもうすでに今日の我々が知っている「テイク・オン・ミー」が楽曲としてはほぼ完成しているのだが、サウンドややはりヴィジュアル面において、何かが足りていないという印象を持ってしまう。もちろんそれは、我々がすでに大ヒットしたバージョンの方の「テイク・オン・ミー」を知っているからなのだが。

このようなどうにも思うようにいかない状況ではあったのだが、アメリカのワーナーがa-haに本格的に投資をすることを決め、新たにアラン・ターニーをプロデューサーに迎え、再レコーディングが行われた。これが今日、知られている方のバージョンの「テイク・オン・ミー」である。

しかし、これをイギリスでリリースしてみたところ、またしてもヒットすることなく終わった。それで、レーベルはバンドにさらに投資して、あの伝説のミュージックビデオがつくられたのであった。監督のスティーブ・バロンはマイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」のミュージックビデオや、後には映画「ティーンエイジ・ミュータンント・ニンジャ・タートルズ」なども手がけている。鉛筆で描かれたようなアニメーションと実写映像とを組み合わせた、あの画期的なミュージックビデオの完成にはかなりの時間と労力が費やされたといわれているが、その甲斐あって「テイク・オン・ミー」は大ヒット、ミュージックビデオは数々の賞を受賞することになるのであった。

1985年10月19日付の全米シングル・チャートで「テイク・オン・ミー」はレディ・フォー・ザ・ワールド「Oh, シーラ」にかわって1位に輝くのだが、ノルウェー出身のアーティストとしては歴代初の快挙だったようだ。

イギリスでもやっとヒットして、全英シングル・チャートでは10月26日付から3週間連続で2位を記録するのだが、ジェニファー・ラッシュ「パワー・オブ・ラヴ」を抜くことができず、結局、1位にはならなかった。しかし、次のシングルである「シャイン・オン・TV」が1位に輝いた。この曲はアメリカでは最高20位に終わっている。「テイク・オン・ミー」のミュージックビデオにおけるストーリーは、「シャイン・オン・TV」のビデオのオープニングに続いている。出演している女性は当時、モートン・ハルケットのガールフレンドでもあったバンティ・ベイリーである。

「テイク・オン・ミー」はリール・ビッグ・フィッシュ、A1、近年ではウィーザーなどによってカバーされている。日本では木村カエラの2013年のアルバム「ROCK」に、岡村靖幸とのコラボレーションによるカバー・バージョンが収録され、ミュージックビデオでもオリジナルに対するオマージュが見られる。