フリッパーズ・ギター「恋とマシンガン」について。
フリッパーズ・ギターのCDシングル「恋とマシンガン」が発売されたのは1990年5月5日なので、ちょうど30年が経ったことになる。当時、私はこれを他のいくつかのCDと一緒に買ったのではないかと思う。その頃はとにかくいろいろなCDを買いまくっていたのだが、たとえば中学生や高校生だった頃に比べると、純粋でも熱くもなくなっていたような気がする。
この年の2月14日にローリング・ストーンズ、3月3日にポール・マッカートニーが初来日公演を行っている。森高千里が5月25日にシングル「臭いモノにはフタをしろ!!」をリリースするのだが、本人が書いた歌詞には「いいかロックン・ロールを知らばきゃ もぐりと呼ばれるぜ オレは10回ストーンズ見に行ったぜ」と言うよく知らない男が登場するが、「話したいのわかるけど おじさん 昔話は苦手 本でも書いたら おじさん」と、痛快に斬り捨てられている。
「三宅裕司のいかすバンド天国」は前の年の2月11日に放送を開始した「平成名物TV」の1コーナーが拡大したものであった。昭和天皇が崩御し、元号が平成になってから約1ヶ月での番組スタートであった。大学での進級にともなって通学するキャンパスが厚木から青山に変わるので、住んでいたワンルームマンションも引っ越すことにした。トレンディードラマ「君が嘘をついた」で三上博史が演じる日高涼が住んでいた笹塚を狙っていて、渋谷区民になることを目論んでいたのだが、家賃が高すぎて不動産仲介業の人に言われるままに、気がつけば同じ京王線でも調布市の柴崎に住むことになっていた。
しかし、新築ワンルームマンションの完成が予定日に間に合わず、その間、無料でホテル住まいを体験することができた。皮肉にも甲州街道沿いにあった笹塚のホテルだった。土曜日の夜に「三宅裕司のいかすバンド天国」を観て、イカ天キングに輝いたFLYING KIDSの「我想うゆえに我あり」がカッコいいなと思った。柴崎のワンルームマンションに住みはじめてからすぐ近くにあったローソンの面接を受け、深夜のアルバイトをすることになったのだが、限られた時間帯を除いてそれほど忙しくもなく、給料もそこそこ良かったので、気がつくと22時から翌9時までの11時間シフトを週5日とかやっていて、月収が20万円以上になっていた。一人暮らしだったので家賃も食費もそれほどかからず、残ったお金のほとんどを本とCDに費やしていた。少しでも気になったものはほぼすべて買っていたのだが、先ほども書いたように、情熱はもうそれほどでもなかったような気もする。
順調にいけば大学を卒業して就職をしている年齢だったが、実際にはアルバイトで生活費やその他の費用を稼ぎながら、時々、大学にも行き、本やレコードを買って、いつかものになるかもしれないのだが、その可能性は少しずつ薄れつつあった文章を書いたり曲をつくったりしていた。土曜日はローソンのアルバイトを基本的に休みにしていたので夕方ぐらいに起きて京王線と井の頭線で渋谷まで行って、都バスで六本木に行った。青山ブックセンターで本を、六本木WAVEでCDを買って、六本木に行ったからといって他に用を足すこともなく、そのまま帰って、薄暗い灯りをつけた部屋でCDを聴きながら本を読んだ。そして、時間になると「三宅裕司のいかすバンド天国」を観た。
ロック・バンドをやる若者がとても増えていた。パンク・ロックやハード・ロックなどいろいろあった。ロックが市民権を得たともいえるような状況であった。「ミュージック・マガジン」を定期購読していたようなタイプの音楽ファンにとって、ロックはもうすでに過去の音楽スタイルで、ヒップホップや打ち込みを用いたR&B、ハウスなどのダンス・ミュージック、あるいはワールド・ミュージックなどが最先端とされていたようなところがある。
日本のヒップホップといえば、1986年に近田春夫がPRESIDENT B.P.M.名義でリリースした「MASSCOMMUNICATION BREAKDOWN」などが思い出されるのだが、このカップリングには高木完と藤原ヒロシから成るTINNIE PUNXの「I LUV GOT THE GROOVE」が収録されていた。ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの1982年の全米NO.1ヒット「アイ・ラヴ・ロックンロール」や音楽専門ケーブルテレビチャンネル、MTVでお馴染みの「I Wanna Rock!」のフレーズなどを引用しながらも、ロックはもう過去の音楽であり、ヒップホップこそが最新のロックンロールなのだ、というような内容であった。
フリッパーズ・ギターの「恋とマシンガン」と同じ日にスチャダラパーがデビュー・アルバム「スチャダラ大作戦」をリリースしているのだが、この時点で、日本でラップ・ミュージックが根づくなどとはまったく信じられていなく、「日本じゃどうかなヒップホップミュージック」「ラップじゃ食えんよギャラ10円」などといったライムもある。このアルバムをプロデュースしたのは、TINNIE PUNXの高木完である。収録曲に「ビートパンSuckers」というのがあり、「ビートパンクSuckersにみんな夢中なのは なんだかんだ言ってもいまの主流だから」とか「ボロボロジーンズ ラバーソウル 歌い上げるぜオイラのソウル」とか「おふざけもナシにドブネズミたちと歩いていこうよ どこまでも」などと辛辣である。念のため、「ドブネズミ」はTHE BLUE HEARTS「リンダ リンダ」の「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という歌い出しの歌詞、「歩いていこう」はJUN SKY WALKER(S)の曲名からの引用だと思われる。
フリッパーズ・ギターのデビュー・アルバム「three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった」がリリースされたのは、1989年8月25日であった。当時、私は岡村靖幸「靖幸」やいとうせいこう「MESS/AGE」などに衝撃を受けていたものと思われる。青山キャンパスの地下の学食で厚木のオーラルイングリッシュの講義で一緒だった英国音楽愛好会の男子に出くわし、サービスランチかスパゲティーメイト辺りを食べながら、最近、聴いている音楽などについて話をした。私はロックやニュー・ウェイヴみたいな過去の音楽にはもうまったく興味がなくて、ヒップホップとかハウスとかしか聴いていないとか、そんなことを言っていたと思う。彼は最近、気に入っているアーティストの1つとして、フリッパーズ・ギターの名前を挙げていた。当時、J-WAVEの「TOKIO HOT 100」のダイジェスト版みたいな番組がテレビで深夜に放送されていて、それでフリッパーズ・ギターの曲を少しだけ聴いた。海外のインディー・ポップの影響を受けたセンスの良い音楽というような印象で、歌詞も英語であった。これならば洋楽を聴いていればこと足りるだろうと、当時はそのような印象であった。
年が明けて1990年1月25日、フリッパーズ・ギターはシングル「フレンズ・アゲイン」をリリースする。何かのテレビCMに使われていたような記憶があったのだが、いま調べてみたところ、ロッテのBLACKBLACKガム&キャンディだったようだ。これも歌詞が英語の曲だったのだがキャッチーで良かったので、CDシングルを買った。当時、つけていた個人的にお気に入りの曲ランキングでは、最高13位ぐらいだったような気がする。
雑誌の「宝島」などでもフリッパーズ・ギターの名前を見るようになるのだが、連載の「フリキュラマシーン」がいつ頃はじまったのかについては、よく覚えていない。あの連載では爽やかな音楽性にもかかわらず、全方位的に悪口を言いまくっていて、なかなかおもしろかった。「恋とマシンガン」はテレビドラマ「予備校ブギ」の主題歌に使われていて、そのドラマには的場浩司が出演していたのだが、「フリキュラマシーン」で友達が少ないフリッパーズ・ギターが街に出て外にいる人達と仲良くなろうという企画があって、一般人に的場ッチとマブダチだからというようなことを言ったりもしていたと思う。
それはもっと後になってからのことなのだが、とにかくフリッパーズ・ギターの次のシングルは歌詞が日本語ということであった。買ったのは渋谷ロフトのWAVEだったのか調布パルコの山野楽器だったのか西友調布店の新星堂だったのかよく覚えていないのだが、とにかく「恋とマシンガン」のシングルを買ったのである。同じ日にリリースされたたまのメジャー・デビュー・シングル「さよなら人類」なども一緒に買ったと思う。
たまは「三宅裕司のいかすバンド天国」で5週勝ち抜きのグランドイカ天キングになったバンドだが、音楽的にもイメージ的にもとにかく個性が際立っていた。ルポライターの竹中労などは、たまのことを日本のビートルズと評したりもしていた。私は「三宅裕司のいかすバンド天国」については、そのギミック的な部分も含めて大好きだったのだが、たまのオリジナリティーは本物だと思った。
私は1993年の秋、フリッパーズ・ギターはとっくに解散して、小沢健二も小山田圭吾というかコーネリアスもソロ活動を本格的にはじめた頃にとある女子大学生と付き合うことになるのだが、告白の電話をもらった時は、小沢健二のライブから帰ってきたところだと言っていた。部屋では他にカヒミ・カリィやピチカート・ファイヴなども聴いていたし、出かける時にはベレー帽を被りがちだったのだが、CDラックにはたまのアルバムが揃えられていた。岡山で女子高校生だった頃に買ったものだと思われる。
フリッパーズ・ギターの「カメラ・トーク」は生涯で2番目に好きなアルバムなのだが、それはポップでキャッチーで、モテそうだったからであり、私は基本的にアンダーグラウンドだったりマイナーだったりするものにはほとんど興味がないので、「渋谷系」やネオ・アコースティックのマニアックな部分についてはまったく好きではないというか、むしろ苦手だったりもする。
「渋谷系」と呼ばれるアーティストで当時、聴いていたのもフリッパーズ・ギターとピチカート・ファイヴとカヒミ・カリィぐらいだった。あとはスチャダラパーも「渋谷系」だとすれば、それは聴いていた。かせきさいだぁとかもそうか。
広告代理店の先輩の社員がパチンコの景品で小沢健二「LIFE」を手に入れて、それを聴いて覚えた「ラブリー」をカラオケスナックで歌い、「Oh baby」のところで王貞治の一本足打法のジェスチャーをしていたような状況こそが私にとっての「渋谷系」であり、それ以上でも以下でもない。
「ロッキング・オンJAPAN」の売れ行きがいまひとつになり、廃刊の可能性すらあったという時期に、反応が良かった小沢健二や小山田圭吾の記事を積極的に載せていったところ、売り上げが良くなり、窮地を脱したという話もある。スノビッシュな「渋谷系」の人達には「ロッキング・オン」を馬鹿にすることによって悦に入っているようなところがあり、個人的にはまったくもって取るに足らないのだが、それはそれとして憎悪しているだけで、いまのところはどうでも良い。
「恋とマシンガン」のシングルCDを家に帰ってステレオで聴いてみてどうだったかというと、とても良かった。というか、衝撃的だった。洋楽と日本のポップ・ミュージックとの間にはそれでも垣根があると思っていたので、洋楽みたいな感覚で日本語のポップスという可能性はこれから将来的にあるのではないかと思っていたのだが、まさにそれだったので茫然とした。というか、当時の日本のポップ・ミュージックのトレンドとは、ほとんどまったく関係がなかった。
オリコン週間シングルランキングでは、たま「さよなら人類」が初登場1位、同じ日に発売されたいシングルでその次に売れたのが「恋とマシンガン」の24位である。私は「恋とマシンガン」が主題歌に使われていたというテレビドラマ「予備校ブギ」を一度も観たことがなく、どれぐらいの影響力があったのかは定かではないのだが、当時のヒット・チャートを見てみると、なかなかのしぶとい売れ方をしていたことが分かる。翌週に19位にアップしたのに続き、17位、20位が2週、17位が2週と、17位から20位の間に1ヶ月以上も留まり続けるという絶妙に微妙な動きを見せているうちにアルバム「カメラ・トーク」がリリースされて初登場6位、季節は夏に突入するのであった。
フリッパーズ・ギターの「恋とマシンガン」には映画「黄金の七人」のサウンドトラックから引用部分があり、後にこのレコードが再発されることなどにもなるのだが、ファンの間で元ネタ探しが流行ったりもした。雑誌「オリーヴ」を読んでいるようなおしゃれな女の子達をレコード店に向かわせたという点において、フリッパーズ・ギターの出現はある意味において、革命だったといえなくもない。私もたまたま高校生の頃にリアルタイムの流行音楽としてザ・スタイル・カウンシルやアズテック・カメラを聴いていたというだけで、「オリーヴ」を読んでアニエスベーを着てギター・ポップのDJをやっているようなタイプの女子大学生と少しだけ仲よくしたり、ミックス・テープをもらったりするということがあった。だから、あれはやはりおそらく革命だったのだろう。
男ではあるのだがマッチョではなく、弱いというか繊細な感じ良いというのは、昔のフォークだとか文学の世界ではあったと思うのだが、日本においてはロックとはなかなか馴染まなかったのではないかという印象がある。たとえばザ・スミスなどに顕著なのだが、私は海外のインディー・ポップなどにそのような魅力を感じてはいたのだが、おそらく日本では無理なのだろうなと思っていたようなところがある。
「恋とマシンガン」を聴いて思ったのは、それが無理ではなかったのだということである。「ロッキング・オンJAPAN」では、フリッパーズ・ギター的なメンタリティーについて、もちろん良い意味でフニャモラーなどと形容していたのだが、まさにそれである。
あと、やっぱりパンク/ニュー・ウェイヴ的な文脈で聴いていたところが大きいのだが、この辺りはなかなか伝わりにくいのかなと思ったりもする。本来、パンク・ロックとは肥大化したロック・ミュージックに対してのアンチテーゼとしての意味合いが大きかったのだが、パンク10周年を過ぎ、「三宅裕司のいかすバンド天国」のブーム、ロックが市民権を得た状態において、形式的なパンク・ロックはもはや本来の価値を持ち合わせてはいなかった。
イギリスのネオ・アコースティックなどと呼ばれる音楽の初期はポスト・パンクでもあり、聴きやすくておしゃれな音楽のように思えるかもしれないのだが、当時の音楽シーンに対するアンチテーゼでもあった。その精神性は感じようとすれば感じられるし、表面的なサウンドやヴォーカル・スタイルをなぞっただけの音楽とはまったく異なったものである。しかし、これがどれだけ伝わるかは定かではなく、それでいて分かったからといって偉くもすごくもまったくないという考えは、常識としてとても必要だと個人的には思うのだ。個人的に、しかし、ものすごく深く、というか根深く(悪意がすごい)。
特にカップリングの「バスルームで髪を切る100の方法」なのだが、「ヘアカット100」でもあり、1982年に「ペリカン・ウェスト」がヒットしたイギリスのグループでもある。まだ神楽にあった頃の旭川南高等学校で放課後に万灯をつくっていた時に、悪そうで憧れていたおしゃれな女子からこれを買いなよと言われたレコードだったが、結局、買わなかった。それはそうとして、ザ・スタイル・カウンシルの「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」に似ているのがとても良い。旭川で過ごした最後の年、NHK-FMの「リクエストコーナー」で聴いてすぐに気に入った曲である。これを目当てにミュージックショップ国原でアルバム「カフェ・ブリュ」を買ったら、ラジオで聴いたのとは違うピアノ弾き語りのようなヴァージョンが収録されていた。ただ、これはこれで良いし、まったくもって正しい。アメリカでは内容が異なり、「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」のタイトルでアルバムが出たようだが。
そして、間奏などでのホーンのフレーズは、ストロベリー・スウィッチブレイド「ふたりのイエスタデイ」を引用したものだと知り、なるほどそうだったのか、そう言われてみれば確かにそうだ、というか、それ以外の何物でもないと思うにいたった。
で、ありながら、パクリだとかそんなふうにはまったく思わない。よくぞ素晴らしいこの精神性を日本のポップ・ミュージックとして応用してくれたという、感謝の念でいっぱいであった。
曲調はおしゃれかもしれないが、「クソタレな気分蹴とばしたくて」であり、「ピストルなら いつでもポケットの中にあるから」であり、バスルームで髪を切るのだが「大暴れ」で、気がつけば「鏡のぞく 僕の顔を ハサミが切る 切り裂いてく」という過激な展開、そして、エンディングの「バスルームで続くのさ one-hundred!」だが、最後の単語の語尾が尋常な終わり方ではなく、何に似ているかといえば、セックス・ピストルズ「アナーキー・イン・ザ・UK」の「I get pissed, destroy」、特に最後である。「destroy」は「デストロイ」だが、「デストローイァー」というような感じになっていて、それがこの曲の大きな魅力の1つであるようにも思える。「バスルームで髪を切る100の方法」のエンディングにおいては、最後の「バスルームで続くのさ one-hundred!」が普通に考えるならば「ハンドレッド」で終わりそうなところを、実際には「ワンハーンドレーッ」の後、「ド」と「ダ」の中間のような発音があり、これが健全な違和感をともなった引っかかりになっているように思える。