サザンオールスターズ「ミス・ブランニュー・デイ」

「ミス・ブランニュー・デイ」はサザンオールスターズの20枚目のシングルで、7作目のアルバム「人気者で行こう」からの先行シングルである。発売は1984年6月25日だが、TBSテレビ系の音楽番組「ザ・ベストテン」では9月20日放送分までトップ10内にランクインしていた。

アルバム「人気者で行こう」はオリコン週間アルバムランキングで当然のように1位になったのみならず、年間アルバムランキングでもマイケル・ジャクソン「スリラー」、映画「フットルース」のサウンドトラックアルバムに次ぐ3位と、日本人アーティストの作品としては最もよく売れていた。

これが発売されたのが7月7日なのだが、それ以降、2ヶ月以上にもわたって先行シングルがヒットし続けていたというのがなかなか驚きであった。

当時のサザンオールスターズはもちろん国民的人気バンドではあったのだが、シングル盤に関していうと最も直近である「東京シャッフル」がオリコン週間シングルランキングで最高23位、その前の「EMANON」が最高24位といずれもトップ10入りを逃していたからである。

「ミス・ブランニュー・デイ」にはファン以外にもアピールするだけの大衆性があり、その結果がこの好セールスだったような気がする。

9月の初めか8月の終わりかはよく覚えていないのだが、旭川市のとある公立高校では学校祭の準備が進められていて、暗くなるまで校庭などで作業が行われていたのだが、誰かが持ってきたラジカセからは「人気者で行こう」のカセットが流れていた。

それで、教室に桑田佳祐の歌詞だけを1冊にまとめた書籍「ただの歌詩じゃねえか、こんなもん」を持ち込んだりもしていたクラスメイトの男子が「ミス・ブランニュー・デイ」のイントロのギターに合わせて口真似をしていたことが思い出される。

この曲のイントロについては個人的にシンセサイザーのフレーズとドラムビートにポイントがあると感じていたため、ギターソロにフォーカスした彼のセンスにユニークさを感じてもいた。

テクノロジーの導入ということでいうと、サザンオールスターズについてはこの前の年のアルバム「綺麗」に時点でそれが大胆に行われていて、ニューミュージック的な人気バンドから最新型のポップミュージックを追求する音楽集団なのではないか、というような認識に多くのリスナーをさせたような気がする。

「ミュージック・マガジン」のクロス・レヴューで当時の編集長であった中村とうようが「最新サウンドのオン・パレードでありながら実にチャンとサザンの音楽なのだから感心する」と大絶賛し、10点満点を献上したことも少しは影響していたのかもしれない。

とはいえ、この「綺麗」がリリースされてから少しの間、シングルがヒットしない時期があったわけである。

振り返るとサザンオールスターズは1978年のデビューシングル「勝手のシンドバッド」から「C調言葉に御用心」までが5曲連続でトップ10入りし、お茶の間でも大人気となるのだが、音楽制作に集中するために1980年にはあえてメディアへの露出を制限し、そのかわりにニューシングルをハイペースでリリースするようになる。

シングルのセールスはみるみる減少していき、しかしアルバムは出せば必ず1位という状態になる。デビュー当初はそのあまりにもユニークな音楽性やパフォーマンスからコミックバンドのように見られることもあったサザンオールスターズとしては、音楽アーティストとして正当な評価を得たような感じであった。

しかし、デビュー当時の良い意味でイロモノ的な魅力を完全に封印してしまうのもまたもったいないのではないか、などと思っていた矢先、1982年には昭和歌謡や田原俊彦の歌い方などをも取り入れたシングル「チャコの海岸物語」が久々の大ヒットとなり、アルバムは引き続きものすごく売れて、音楽的な評価も高いうえに、シングルも続く「匂艶 THE NIGHT CLUB」「Ya Ya (あの時代を忘れない)」「ボディ・スペシャルⅡ」とすべてトップ10入りするなど、なかなか理想的な感じになっていたのであった。

その後の「綺麗」がアルバムとしては好セールスなうえに批評家からも大絶賛の後でシングルがなんとなくトップ10入りしなくなるという現象、これは少しだけ寂しいかもしれない、などと思っていただけに、「ミス・ブランニュー・デイ」のヒットは喜ばしいことであった。

アルバム「人気者で行こう」からは「海」が先行シングルとしてリリースされる予定で、実際にプレスもされていたのだが、桑田佳祐の強い要望で「ミス・ブランニュー・デイ」になったということはよく知られがちではあるのだが、それ以前には「あっという間の夢のTONIGHT」「夕方HOLD ON ME」がシングル候補だったという話もあるようである。

「海」はアダルトオリエンテッドでとても良い曲であり、人気もひじょうに高いのだが、たとえばこれをシングルとしてリリースした場合、「ミス・ブランニュー・デイ」ほどにはヒットしていなかったような気もする。この前の年にアルバム「綺麗」からシングルカットされた「EMANON」がトップ10入りを逃していたのだが、あれは先行シングルではなくアルバムと同日発売だったりジャケットアートワークもアルバムとひじょうに似ているというようなものではあった。

1980年代初め、YMOことイエロー・マジック・オーケストラを中心とするいわゆるテクノブームは社会現象的な盛り上がりを見せたのだが、それほど長くは続かなかった。しかし、日本のポピュラー音楽全体にあたえた影響はひじょうに大きく、歌謡曲やニューミュージックのような音楽にシンセサイザーやドラムマシンなどが効果的に使われるようになった。

YMOのメンバーが作曲・編曲家としてアイドル歌手などに提供した楽曲にもその影響はあらわれていて、後にテクノ歌謡などと呼ばれることにもなる楽曲の数々を生み出し、ヒットチャートを賑わせたり賑わせなかったりもした。

こういった動きは海外のシンセポップやニューウェイブの流行とも呼応していて、「ミス・ブランニュー・デイ」制作当時の桑田佳祐がユーリズミックスやフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドなどの音楽をわりと気に入っていたというような話もある。

当初、シンセポップというのは機械的で無機質な感じが特徴でもあったのだが、この頃になると電子楽器を使いながらいかに人間らしさを出していくかということも重要になっていたような気がする。たとえば全英アルバムチャートで1位を記録したハワード・ジョーンズのデビューアルバム「かくれんぼ」などはは、そういった面で高く評価されていた印象がある。

「ミス・ブランニュー・デイ」において桑田佳祐が意識したのも電子的なサウンドにいかに人間らしさのようなものをブレンドしていくかというものだったらしく、それはかなり成功しているように思える。そして、この楽曲がいわゆるテクノ歌謡的なものと一線を画しているのは、たとえばストリングスやギターといったサウンドも効果的に用いているところであり、そこにはビートルズなどからの影響も感じられたりはする。

それでこの曲の歌詞なのだが、当時の女子大生ブームやバブル景気がはじまる少し前あたりの気分が反映されているようでとても良い。女子大生ブームというのは1983年に放送を開始したフジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」に出演していた現役女子大生たち、オールナイターズが人気を得ることによって可視化されたようなところもあるのだが、それ以前には木陰でジーンズを脱いで水着姿になるミノルタカメラのテレビCMで人気が沸騰し、街でポスターが盗まれまくったといわれる宮崎美子が熊本大学の学生だったことが話題になったり、文化放送の深夜番組「ミスDJリクエストパレード」が川島なお美などタレントを含めた女子大生をパーソナリティに起用して人気を得たりしていた。

1984年に戸板女子短期大学に入学した松本伊代はアイドル歌手であるのと同時に女子大生タレントでもあり、「オールナイトフジ」にも「ミスDJリクエストパレード」(個人的にザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」のリクエストを読まれたのは良い思い出であり、カセットテープを失くしてしまったことが悔やまれる)にもレギュラー出演していた。

この女子大生ブームについては、没個性的であるとかミーハー的であるなどの批評めいたものも実際にはあったわけだが、もちろん魅力的だからこそブームになるわけであり、純粋に楽しんでいる人たちの方が圧倒的に多かったような気もする。ちなみにオールナイターズから選抜された山崎美貴、松尾羽純、深谷智子のおかわりシスターズはレコードも売れていて、オリコン週間シングルランキングの30位前後にはランクインしていたのだが、「オールナイトフジ」は地方では放送されていなかったため、首都圏のレコード店に限っての集計だけならばトップ10に入っていたともいわれる。

「ミス・ブランニュー・デイ」の歌詞もこういった女子大生ブームを冷ややかに批評しているように取れなくもないのだが、本能的にはこういう流行りもの好きで時代の気分にのっているタイプの女性たちが好ましくて仕方がないというような桑田佳祐の本音がにじみ出ていて、そのあたりが実に好ましいといえる。