U2「プライド」

「プライド」はアイルランド出身のロックバンド、U2のアルバム「焔(ほのお)」に先がけてシングルとしてリリースされた楽曲で、全英シングルチャートで最高3位、全米シングルチャートで最高33位と、バンドにとってこの時点における過去最大のヒットを記録したのであった。

イギリスではすでに全英アルバムチャートで1位を記録した1983年のアルバム「闘(WAR)」から「ニュー・イヤーズ・デイ」が全英シングルチャートで最高10位、「ブラディ・サンデー」が同じく7位とすでに2曲のトップ10ヒットを記録していたのだが、アメリカではこの曲で初めてトップ40入りを果たした。とはいえ、アルバム「闘(WAR)」は全米アルバムチャートで12位まで上がっていて、ロックファンの間にはすでにかなり人気があったということができる。

日本の洋楽を聴くタイプの若者たちの間でもすでにわりと知られてはいて、1984年の春先の時点で旭川のとある公立高校の体育準備室でも「U2を聴いてユーウツになる」などというしょうもないダジャレをかましている1年の男子が目撃されているレベルであった。

個人的に当時、U2のレコードはまだ買ったことがなかったのだが、「ニュー・イヤーズ・デイ」などはNHK-FMで日曜の夜に放送されていた「リクエストコーナー」という番組からエアチェック(単にFMラジオ放送をカセットテープに録音することを当時はそう呼んでいた)したものを聴いたりしてわりと気に入っていた。

当時はシンセポップやニューウェイブが流行していて、カラフルでポップな感覚が時代背景的にも好意的に受け入れられがちだったような気もするのだが、それに対してU2には生真面目で熱血漢なイメージがあり、楽曲においても政治的な題材を扱っていることが話題になっていた。

1981年にアメリカで開局したMTVが大ブームを巻き起こしたことなどにより、この頃までに洋楽は聴くだけではなく映像を見て楽しむものという認識が日本でも広がっていて、特に小林克也が司会の「ベストヒットUSA」などはひじょうに人気があった。

それで、MTVもやっと1984年の秋になって日本に上陸するのだが、当時はまだ独立した放送局としてではなく、テレビ朝日系の深夜番組として週に何時間か放送されているだけであった。

個人的に当時は大学受験に本腰を入れる時期には本格的になっていて、ビデオデッキで録画予約していたのに加え、ただ洋楽のビデオを立て続けに流しているだけなので、特にハプニング性などもないわけなのだが、なぜか眠い目をこすってリアルタイムで視聴していた記憶がある。

U2「プライド」のビデオは当時、日本で放送がはじまったばかりのMTVでよくオンエアされていた記憶がある。それからかなり時が流れてYouTubeなどで過去のミュージックビデオなどがお手軽に視聴できる状態になって以降、この曲のビデオを検索して視聴してはみたのだがどうも当時の印象とは異なっているような気がする。

それでこの曲のことを調べている過程で、今日、公式なミュージックビデオとされているものと当時、テレビなどで流れているものとは異なっているということであった。公式バージョンが最初に制作されたのだが、当時、バンドはこれを気に入らず、別のバージョンが制作されたのだがそれもボツになり、さらに制作されたまた別のバージョンが当時のテレビで流されていたものなのだという。

今日ではそのバージョンもYouTubeで公式に公開されているため、この記事でも上の方に貼っているわけだが、そういえば確かにこれだったかもしれない、というような気分にはなっている。スレーン城で行われたセッションの様子を撮影した映像を継ぎ接ぎしたような作品になっている。

この曲は牧師であり人種差別と非暴力的に戦った公民権運動の指導者として知られるマーティン・ルーサー・キング・ジュニアに捧げられているのだが、MTVで初めてこの曲のビデオを見たときにはそんなことはまったく知らず、ただただエッジの効いたギターサウンドとエモーショナルなボーカルがとても魅力的で、それでいてポップソングとしての強度も感じられるとても良い曲だなと思ったのであった。

それで、この曲を収録したアルバム「焔(ほのお)」は買うことに決めた。当時、自宅と通っていた高校との距離はひじょうに近かったのだが、レコード店がある駅前の平和通買物公園の方に行くにはバスに乗らなければいけなかった。それで、駅前の方まで仕事で行っていた母に頼んで確かミュージックショップ国原で買ってきてもらったのだが、メモを渡した際にバンド名について「<ユーに>って読むのかい?」などと尋ねられ、「ユーツー」とルビを振らなかったのは気配りが欠けていたと深く反省したのであった。

U2はそれまでポストパンクやニューウェイブと呼ばれるタイプの音楽から派生して、ロックバンドとしてのキャリアを着実に積み重ね、人気やセールスを増やし続けていたため、このままいけばザ・フーやレッド・ツェッペリン的なスタジアムロックバンドとしてメジャーに成功するであろうことはほぼ確実視されていた。

しかし、メンバーはそれに対して疑問も感じていて、もっと実験的でアーティスティックなことをやりたいと考えていた。それで、何人かのプロデューサーにアプローチしたりもするのだが、それほどしっくりこなく、それからブライアン・イーノにあたることにした。

ブライアン・イーノ自身はロックバンドをプロデュースすることにまったく興味を失っていた頃で、会ってはみるものの断って弟子のような存在で、ロックバンドのプロデュースに興味をしめしていたダニエル・ラノワを紹介するつもりで連れていった。

ところが結果的にブライアン・イーノもダニエル・ラノアもプロデューサーとしてかかわることになり、アルバム「焔(ほのお)」が制作されたのだった。レーベルはスタジアムロックバンドとしてメジャーにブレイクする道を順調に歩んでいるはずのU2が、何を余計なことをするのだという感じでブライアン・イーノのプロデューサー起用に激しく反対したのだが、バンドの意志は固く制作は強行された。

U2のロックバンドとしての魅力を損なわないまま、そこによりアブストラクトでエクスペリメンタルな要素も加わり、コマーシャルスーサイドにもなりかねない実験に挑んだにもかかわらず、結果的にセールス的にも成功することになった。U2のキャリア史上でも分岐点というのか、ひじょうに重要なフェイズだったといえる。

この曲は当時のアメリカ大統領であったロナルド・レーガンの強硬的な外交政策を批判する楽曲として書きはじめられ、「プライド」というタイトルも皮肉めいたものだったのだが、あまりうまくいっていなかった。

それからボノがシカゴ平和博物館を訪れ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアについての展示を見たことがきっかけで、いろいろと興味を持ち、調べたりした結果としてそれを反映した歌詞が完成した。しかし、ボノは後にこの歌詞について、スケッチのようなもので未完成すぎるというような発言をしていて、自分ではあまり高く評価していないようである。

また、よく指摘されることなのだが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺された4月8日が歌詞に登場するが、その時刻が実際には午後6時だったにもかかわらず、この曲では早朝と歌われている。この誤りについてはボノ自身も認めていて、ライブや後に発表されたセルフカバーバージョンでは歌詞が変えられていたりもする。

一方でボノはこの曲をポップソングとして成功していると評してもいて、この場合にポップという言葉を簡単に理解でき、本能的に共感できるものという最高の意味合いで用いている。とてもメジャーなロックバンドの中心メンバーであるボノがこのような発言をしていることは、ロックよりもポップスの方が優れていると考えているがゆえに「This is…POP?!」などというタイトルで文章を書いてもいる立場としてはとても喜ばしいことではある。

当時、母がミュージックショップ国原で買ってくてくれた「焔(ほのお)」のLPレコードは国内盤であり、帯には「U2の情熱とイーノの感性がドッキングした!ここに今、新感覚が誕生した。ギク‼︎」という文字が記されていた。書いている内容はまあ分かるのだが、「ギクッ‼︎」というのは一体、何だったのだろうか。

それでこの「焔(ほのお)」というタイトルとジャケットアートワークなのだが、ボノがマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの展示を見たときに訪れたシカゴ平和博物館で広島・長崎の原爆被害者が描いた絵も見ていて、それにインスパイアされたものなのだという。

山下達郎は1988年のアルバム「僕の中の少年」に合わせたコンサートツアー「PERFORMANCE ’88-’89」でアルバム収録曲の「蒼氓(そうぼう)」も演奏したのだが、曲の途中でインプレッションズ「ピープル・ゲット・レディ」、マーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイン・オン」と共にこの曲の一節を歌唱し、そのバージョンはライブアルバム「JOY -TATSURO YAMASHITA LIVE-」にも収録されている。