The 500 Greatest Songs of All Time : 40-31
40. Johnny B. Goode – Chuck Berry (1958)
チャック・ベリーが1958年にリリースしたシングルで、全米シングル・チャートで最高8位を記録した。
最も有名なロックンロール曲の1つであり、田舎で生まれ、ギターを弾いて有名になる少年のストーリーはディテールは違えどチャック・ベリー自身の自伝的内容にもなっている。
1985年の大ヒット映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でも使われたことによって、新しい世代のリスナーにもより広く知られるようになった。
日本では1980年代にチャック・ベリーがPARCOのCMに出演したり、横浜スタジアムで行われたライブイベントにRCサクセションサム・ムーアと共に出演し、ライブアルバムも発売されるなどしてポップアイコン化しているようなところもあったが、それ以前には矢沢永吉らが所属していたロックバンド、キャロルがこの曲をレパートリーにしていたり、メンバーのジョニー大倉がこの曲のタイトルをアーティスト名の由来にしていたようだ。
39. My Generation – The Who (1965)
ザ・フーが1965年の秋にリリースしたシングルで、全英シングル・チャートでは最高2位のヒットを記録しているが、全米シングル・チャートでは意外にも最高74位止まりであった。
年老いる前にくたばりたいぜ、というフレーズが象徴するように、若者世代の気分を代弁するような内容になっていて、モッズ族のアンセムとしても知られている。ドラマーのキース・ムーンは若くして亡くなったが、その他のメンバーは数十年後にもこの曲をライブで演奏することになる。
リズム&ブルースから影響を受けたダンサブルでもある音楽性、リードボーカルとコーラスとのコール&レスポンス、間奏でのギターソロとベースソロのかけ合い、全体的にカオス化する終盤など、音楽的にも聴きどころたっぷりである。
38. Son of a Preacher Man – Dusty Springfield (1968)
ダスティ・スプリングフィールドのアルバム「ダスティ・イン・メンフィス」から先行シングルとしてリリースされ、全英シングル・チャートで最高9位、全米シングル・チャートで最高10位を記録した。
ポップシンガーとして人気だったダスティ・スプリングフィールドが、よりリズム&ブルース的な音楽にチャレンジした楽曲である。コーラスではアレサ・フランクリン「小さな願い」などと同じくスウィート・インスピレーションズが参加し、メンバーのうちの1人はホイットニー・ヒューストンの母としても知られるシシー・ヒューストンである。
教会の説教師の息子とのロマンスをテーマにしていて、当初はアレサ・フランクリンのために書かれた曲だったが、却下されたためダスティ・スプリングフィールドが歌うことになったようだ。
この曲はクエンティン・タランティーノ監督の1994年の映画「パルプ・フィクション」でも使われていたが、この曲の使用許可が下りなければそのシーンを撮影しなかったと後に語られている。
37. Suspicious Mind – Elvis Presley (1969)
エルヴィス・プレスリーが1969年の夏の終わりにリリースしたシングルで、全米シングル・チャートで1位、全英シングル・チャートで最高2位を記録した。エルヴィス・プレスリーの曲が全米シングル・チャートで1位に輝いたのは、1962年の「グッド・ラック・チャーム」以来のことであった。
元々はこの曲の作者であるマーク・ジェームスによるバージョンがシングルとしてリリースされていたが、特にヒットはしていなく、エルヴィス・プレスリーが1955年以来となるメンフィスでのレコーディング時にカバーしたものである。
パートナーから浮気の疑いをかけられているらしい男性がわだかまりをなくし、新しい気持ちでやり直そうと訴えかける内容であり、マーク・ジェームスの私生活が反映されていたともいわれる。
この曲のヒットにより、エルヴィス・プレスリーは商業的に本格的なカムバックを果たしたといえる。
36. Anarchy in the U.K. – Sex Pistols (1976)
セックス・ピストルズのデビュー・シングルとしてリリースされ、全英シングル・チャートで最高38位を記録した。パンク・ロックの初期の代表曲として広く知られるが、発売はダムド「ニュー・ローズ」の方が少し早かった。
タイトルに無政府主義を意味するアナーキーが入り、歌詞ではいきなりアンチクライストであることが宣言される。個性的なボーカルで歌っているのは、ジョニー・ロットン、つまり腐ったジョニーというボーカリストである。
エスタブリッシュメントに盾突く姿勢こそがパンク・ロックの骨子ではあるのだが、そこにマネージャーであるマルコム・マクラレンの炎上商法の元祖とでもいうべきプロモーション手法が加わってくる。
社会現象やムーヴメントとしての話題性が先行して語られがちではもちろんあるわけだが、ポップソングとしても単純にとても良い。
35. Dancing in the Street – Martha & The Vandellas (1964)
マーサ&ザ・ヴァンデラスが1964年にリリースしたシングルで、全米シングル・チャートで最高2位、全英シングル・チャートでは最高28位だったが、1969年に最高4位を記録している。
暑い夏の日に路上の消火栓から勢いよく噴出される水で盛り上がる人々の姿にインスパイアされた楽曲だといわれ、当初はいろいろな街の路上で楽しく踊ろうというぐらいの意味だったのだが、公民権運動の盛り上がりと共に、市民運動のアンセムとしても知られるようになった。
様々なアーティストによってカバーされているが、1985年にはデヴィッド・ボウイとミック・ジャガーによるデュエットのバージョンが全英シングル・チャートで1位、全米シングル・チャートで最高7位を記録している。
34. The Tracks of My Tears – Smokey Robinson & The Miracles (1965)
スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズが1965年にリリースしたシングルで、全米シングル・チャートで最高16位、全英シングル・チャートでは1969年に最高9位を記録した。
失恋をしたがいまでは新しい恋人と付き合っていて、とても陽気にふるまっているが、実はまだ未練が残っていて、心の中では泣いているのだ、というようなことが歌われている。
スモーキー・ロビンソンの甘い歌声は唯一無二の素晴らしさなのだが、心の痛みを歌った時にこそ、特にその真価を発揮しがちなような気がする。
この曲はモータウンの数あるヒット曲の中でも、特に評価が高く、人気があるものの1つである。
33. Nothing Compares 2 U – Sinead O’Connor (1990)
シニード・オコナーのアルバム「蒼い囁き」から先行シングルとしてリリースされ、イギリスやアメリカをはじめ17カ国のシングル・チャートで1位に輝いた。邦題は「愛の哀しみ」である。
プリンスがザ・ファミリーというバンドに提供した曲だが、シニード・オコナーのバージョンがヒットするまでは、一般的にほとんど知られていなかった。ソウル・Ⅱ・ソウルのネリー・フーパーが共同プロデューサーとしてかかわっていることも話題になった。
ミュージック・ビデオはシニード・オコナーがカメラを見ながらこの曲を歌うところを撮影したシンプルなものだが、それだけに曲そのものの素晴らしさが伝わり、感きわまって思わず泣いてしまうシーンも印象的であった。
32. Live Forever – Oasis (1994)
オアシスのデビュー・アルバム「オアシス」から先行シングルとしてリリースされ、全英シングル・チャートで最高10位を記録した。バンドにとって初のトップ10ヒットである。
「スーパーソニック」「シェイカーメイカー」に続く3枚目のシングルだが、発売前からファンの間でひじょうに人気が高い曲として話題にはなっていた。
グランジ・ロックがトレンドになっていて、ニルヴァーナの「アイ・ヘイト・マイセルフ・アンド・ウォント・トゥ・ダイ」という曲名などはその陰鬱な感じを象徴してもいたのだが、ノエル・ギャラガーはニルヴァーナの音楽そのものは好んでいたものの、このネガティヴな精神性は若者にとってあまり良くないのではないか、という思いもあったようである。
それで、あなたと私は永遠に生き続けるのだ、というようなことが歌われているこの曲が対比されがちなのだが、このポジティヴな感じがいよいよ本格的に盛り上がっていくブリットポップ・ムーヴメントを特徴づける精神性のようにも思われていった。
31. Teenage Kicks – The Undertones (1978)
ジ・アンダートーンズのデビュー・シングルで、全英シングル・チャートで最高31位を記録した。
青春パンクというジャンルがあるのだとするならば、その最たる例がこの曲だといえるほどに若きエナジーが迸っている。
とても魅力的な女性がいて、ただたまらなく抱きしめたいという、ほぼそれだけのことがポップでキャッチーなパンク・ロックにのせて熱く歌われている。
BBCラジオ1のカリスマ的なDJ、ジョン・ピールはこの曲が好きすぎて、番組で繰り返しかけたり、ことあるごとにこの曲の魅力を語っていたのみならず、自らの墓石にもこの曲の歌詞の一節を刻んだのだった。