邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1977, Part.3

渚のシンドバッド/ピンク・レディー(1977)

ピンク・レディーの4枚目のシングルでオリコン週間シングルランキングで「S・O・S」「カルメン’77」に続き3曲連続となる1位、年間シングルランキングでも森田公一とトップギャラン「青春時代」を抑え、1位に輝いた。

この時期にはもうすでに国民的アイドルの名を欲しいままにしていたわけだが、子供たちも真似せざるをえないほどにポップでキャッチーでありながら、「アアア アアア…」「セクシー あなたはセクシー」などと、絶妙に性的なほのめかしもあるところがとても良い。作詞は阿久悠、作曲・編曲は都倉俊一である。

愛のメモリー/松崎しげる(1977)

松崎しげるの14枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位を記録した。

この熱いラブソングが大ヒットしたきっかけはおそらく山口百恵、三浦友和が出演したグリコアーモンドチョコレートのテレビCMで使われたことなのだが、それ以前にそもそもスペインで開催されたマジョルカ音楽祭に参加するために、フランク・シナトラ「マイ・ウェイ」なども参照してつくられた楽曲だったとのこと。

「美しい人生よ かぎりない喜びよ この胸のときめきをあなたに」と、かなり壮大なことが歌われているようでもあるのだが、松崎しげるのボーカルはそれにじゅうぶんに見合う素晴らしいものである。

2005年にiTunes Music Storeが日本で開始された時に、3位にランクインしたことなども話題になった。

九月の雨/太田裕美(1977)

太田裕美の9枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高7位を記録した。作詞は松本隆、作曲・編曲は筒美京平である。

「車のワイパー透かして見てた 都会にうず巻くイリュミネーション」というわけで、舞台は都会である。恋愛の悲しくて切ない側面がテーマになっているのだが、それがシティポップ的舞台装置でドラマティックに表現されているところが、当時の時代感覚にフィットしていたようにも感じられる。

個人的には旭川に引越してから最初の秋に、自転車のカゴにトランジスタラジオを入れて東急インのアスレチッククラブに通っていた頃、HBCラジオで放送されていたMr.デーブマンの「ベストテンほっかいどう」で流れていた印象が強い。

ウォンテッド(指名手配)/ピンク・レディー

ピンク・レディーの5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで12週連続1位、年間シングルランキングではピンク・レディー「渚のシンドバッド」、森田公一とトップギャラン「青春時代」に次ぐ3位、「第19回日本レコード大賞」では大衆賞を受賞した。作詞は阿久悠、作曲・編曲は都倉俊一である。

ピンク・レディーはもうすでにずっと大人気だったのだが、このシングルでポップソングから大衆音楽いと呼べるようなものに変質していたような印象がある。

ミーとケイの声色めいたボーカルパフォーマンスも聴くことができ、遊びごころも感じられたりはするのだが、「好きよ 好きよ こんなに好きよ」、さらには「空っぽよ 心はうつろよ 何もないわ」に至るなんとも切なげな感じなど、様々なアイデアがふんだんに盛り込まれているところもとても良い。

憎みきれないろくでなし/沢田研二(1977)

沢田研二の21枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高3位を記録した。作詞は阿久悠、作曲は大野克夫である。

この翌々月にリリースされた収録アルバムのタイトルは、「思いきり気障な人生」である。当時の沢田研二といえば気障の美学とでもいうべきものを体現していたような印象があり、それには阿久悠の歌詞が大きく影響していたように思える。「気障」の語源は「気に障る」であり、そもそも一般的に良い意味ではないのだが、そこに日常の退屈を束の間だけ忘れさせ、興奮や快感をあたえてくれる場合もあるのである。そして、その気障の美学とでもいうべきものを最も端的にあらわしたヒット曲がこの「憎みきれないろくでなし」なのではないか、とも感じるわけである。

「昨日は昨日でどこかで浮かれて 過ごした筈だが忘れてしまったよ」「こんなに真面目に愛しているのに 昨日や明日は関係ないだろう」などと、実に刹那的なところがとても良く、ゴージャスなサウンドや色気のあるボーカルも最高である。

バイブレイション/笠井紀美子(1977)

笠井紀美子のアルバム「TOKYO SPECIAL」に収録された楽曲で、別バージョンがシングルでもリリースされた。

1960年代から活動するジャズシンガーが日本語詞で歌った今日でいうところのシティポップ的な楽曲で、作曲を山下達郎が手がけている。元々はアメリカ人シンガー、リンダ・キャリエールに提供したもののいろいろあってリリースに至らず、それに安井かずみが日本語の歌詞を付けたものである。

クールでファンキーなサウンドとアンニュイなボーカルがたまらなく良い。当時ヒットしたわけではないのだが、クラブシーンやシティポップの名曲として後に評価が定着していった。

山下達郎のアルバム「GO AHEAD!」には、アレンジがまったく異なるセルフカバーバージョンが「LOVE CELEBRATION」として収録されている。

わかれうた/中島みゆき(1977)

中島みゆきの5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで自身初の1位に輝いた。

札幌出身の中島みゆきは1975年にシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビューし、「時代」が「第10回ポピュラーソング・コンテスト」「第6回世界歌謡祭」でグランプリを獲得したことによって注目をあつめた。翌年には研ナオコに提供した「LA-LA-LA」「あばよ」もヒットしていた。

そして、この「わかれうた」の大ヒットによって、一般大衆的にもシンガーソングライターとしての認知が広がっていく。フォークソングをベースとしながら、歌謡曲的なキャッチーさもあり、テーマは恋愛につきまとうマイルドな不幸というところが大いに共感を呼んだように思える。

「途に倒れてだれかの名を呼び続けたことがありますか」という歌いだしからすでに、心をつかまれて離れない。当時、ラジオで本当によく聴いた記憶がある。ヒットチャートといえばラジオの時代であり、それが変わっていくのは翌年の1月にTBSテレビ系で放送を開始する「ザ・ベストテン」であった。

中島みゆきはフジテレビ系で放送された「夜のヒットスタジオ」に出演し、この曲と「アザミ嬢のララバイ」を歌っていたが、「ザ・ベストテン」には第1回の放送で4位にランクインしていたものの出演はしなかった。

アン・ドゥ・トロワ/キャンディーズ(1977)

キャンディーズの15枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高7位を記録した。作詞は喜多條忠、作曲は吉田拓郎である。

「普通の女の子に戻りたい」と解散宣言をしてから最初のシングルということもあり、どこかセンチメンタルな気分が漂い、旅立ちを控えた大人のキャンディーズが感じられる楽曲となっている。とはいえ、曲がつくられたのは解散宣言よりも以前のことで、特にそれを意識したわけではなかったようだ。

とてもエレガントなサウンドにのせて、「アン・ドゥ・トロワ 踊りましょうか」としっとりと歌われるのだが、その後に続くのが「炎のように」であるところがとても良い。「ひとは誰でも一度だけすべてを燃やす夜がくる」のところも個人的にとても好きで、当時、小学生ながら深く感じ入りながら聴いていたことが思い出される。

秋桜/山口百恵(1977)

山口百恵の19枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高3位、「第19回日本レコード大賞」では歌唱賞を受賞した。

作詞・作曲はさだまさしであり、歌謡曲の歌手にニューミュージック系のシンガーソングライターが楽曲を提供して成功した例の1つでもある。当時、フォークソングがより新しくなったようなタイプの音楽を歌謡曲や演歌と区別してニューミュージックと呼ぶようになっていた。

とはいえ、歌謡曲や演歌以外の日本のポピュラー音楽の多くをニューミュージックと呼んでいたということもでき、その音楽性はフォークソング的なものからシティポップ的なものまで様々であった。

それはそうとして、この曲は「明日嫁ぐ私に苦労はしても 笑い話に時が変えるよ 心配いらないと笑った」と、嫁いでいく娘と母との関係性をテーマにしている。日本的な情緒も特徴的なこの楽曲は、山口百恵のボーカリストとしての新たな魅力を引き出したようにも思える。

タイトルの「秋桜」は「コスモス」と読むが、当時この読み方はポピュラーではなく、この曲のヒットによって広まっていったようなところもある。後に「日本の歌百選」にも選ばれるなど、山口百恵の数ある楽曲の中でも、一般大衆的には最も評価されているといえるかもしれない。