邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1977, Part.1
津軽海峡・冬景色/石川さゆり(1977)
石川さゆりの15枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高6位、「第19回日本レコード大賞」で歌唱賞、「’77FNS歌謡祭」でグランプリなどを受賞した。作詞は阿久悠、作曲は三木たかしである。
アイドル歌手としてデビューした石川さゆりだが、この曲のヒットによって演歌歌手として広く知られるようになった。当時は青函トンネルがまだ開通していなかったため、青森から函館に渡るためには連絡船に乗船する必要があった。
「北へ向かう人の群れは誰も無口で」のイメージはGLAYの1999年のヒット曲「Winter,again」における「無口な群衆(ひと)、息は白く」に通じるところもある。演歌が歌謡曲やニューミュージックと共にヒットチャートの上位にランクインし、まだまだAM放送がメインであったラジオでもよく流れていた頃、この曲も年配の人々や演歌ファンのみならず、大衆的な流行歌として年代を問わずに幅広く聴かれていた。
2000年代以降、この曲がリリースされた頃には生まれてすらいないはずの女子大生がカラオケで歌っていて驚いたものだが、当時の石川さゆりもまだ19歳だったのである。
しあわせ未満/太田裕美(1977)
太田裕美の7枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高4位を記録した。作詞は松本隆、作曲は筒美京平である。
男性アーティストが女性言葉で歌っている例はフォークソングなどでまあまああったのだが、この曲においては女性アーティストが男性言葉で歌っていて、今日におけるあいみょん的な何かのルーツでもあったような気がしないでもない。
それはそうとして、太田裕美の代表曲はもちろん「木綿のハンカチーフ」で、それに異論はまったくないのだが、個人的に最も好きな曲となるとこの「しあわせ未満」で、「以下」ではなく「未満」ということは「しあわせ」ではないのである。というようなことを学校ぐらいでしか話題にはしないのだが、それが流行歌のタイトルになっているところが当時はなんとなく面白いと思った。
「はにかみやさん ぼくの心の荒ら屋に住む君が哀しい」というわけで、恋人の女性がさえない自分自身にはふさわしくないほど素敵なのだが、どうしても自分は自分でしかなく、それゆえに彼女のことが不憫だというようなことをテーマにした、とても素晴らしい楽曲である。
特に家賃すらろくに払えずに、「あどけない君の背中が部屋代のノックに怯える」というくだりなどが、いたいけでとても良い。
マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美(1977)
尾崎亜美の3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高4位を記録した。資生堂のCMソングに起用されていて、テレビで耳にする機会がひじょうに多かった。
「ああ 気持ちが動いてる たった今 恋をしそう」というところが特にキャッチーでとても良く、春めいたポップな気分を爽やかに表現しているように感じられる。
やさしい悪魔/キャンディーズ(1977)
キャンディーズの13枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高4位を記録した。作詞は喜多條忠、作曲は吉田拓郎である。
アン・ルイスがデザインした衣装も含め、大人のキャンディーズを強調した楽曲であり、テレビでのパフォーマンスにおけるデビルサインの振り付けもとても良かった。作曲を手がけた吉田拓郎も、自信作であることを明言している。
個人的に当時の小学校のクラスではピンク・レディーの人気が圧倒的だったのだが、大人ぶってキャンディーズ派を自称する男子などもいた。とはいえ、キャンディーズはザ・ドリフターズの「8時だョ!全員集合」や伊東四朗や小松政夫などの「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」でコメディエンヌ的な才能も発揮するお茶の間に人気者であり、基本的にはみんな大好きだったような記憶がある。
それに加えてこの曲以降は楽曲の雰囲気も少し変わっていって、しかもクオリティーがとても高く、そこがとても良かったのである。
雨やどり/さだまさし(1977)
さだまさしのソロアーティストとしては2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位、年間シングルランキングでは6位に輝いた。
恋愛にはそれほど縁がないように思える女性を主人公に、1人の男性との偶然の出会いから奇跡的な再開、突然のプロポーズに至るまでのストーリーをコミカルに描いた楽曲である。モデルはさだまさしの実の妹である、佐田玲子だといわれている。
ライブレコーディングのため、ところどころに聴衆の笑い声などが入っている。伝説のミニコミ雑誌「よい子の歌謡曲」のある号にはエンドウユイチという人による「ブス泣かせの系譜」という文章が掲載されていて、後に単行本化された際にも再掲された。文中では「雨やどり」のレコードで聴くことができる聴衆の笑い声などにも言及されていた。
さだまさし、松山千春、オフコースなどのニューミュージック的な感覚は当時、一般大衆的にはとても支持されていたのだが、ニューウェイヴ的な価値観を持ったキッズたちやそれらを先導するライターやクリエイターたちからは不当に蔑まれていたようなところもあり、個人的にもある時期までそのバイアスがかかりまくっていた記憶がある。
しかし、今日になってそれらの大衆音楽としてシンプルに優れた点に気づかされることも少なくはない。というか、苫前町から当時の感覚としては大都会でしかなかった旭川に引越し、友人の家に初めて招待された時に、居間のステレオでこの曲を聴いていた時には、確かにじゅうぶん楽しんでいたのであった。
恋は流星/吉田美奈子(1977)
吉田美奈子の3枚目のシングルで、アルバム「TWILIGHT ZONE」からのシングルカット曲でもある。シングル盤ではAB面に分かれて収録された。
現在でいうところのシティポップの最たるものであり、編曲を山下達郎が手がけている。当時、一般大衆的に大ヒットしていたわけではなく、個人的にも小学生だったこともあり、リアルタイムでは知らなかった。
流行歌も今日でいうところのシティポップよりになってきていたりはした時期だったのだが、その延長線上には極北的にこのような楽曲があったということなのだろうか。
夢先案内人/山口百恵(1977)
山口百恵の17枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで自身4曲目の1位に輝いた。
阿木燿子・宇崎竜童コンビによる楽曲だが、ハードでアグレッシブではなく、ソフトでドリーミーな感じが特徴的である。
デビュー前の中森明菜がオーディション番組「スター誕生!」で歌った曲としても知られる。
個人的にはこの曲も旭川の小学校に転校したばかりの頃に、初めて招待されたクラスメイトの家の居間のステレオで聴かせてもらった印象がひじょうに強く、期待と不安が絶妙に入り混じった新しい気分と共に記憶されている。
北国の春/千昌夫(1977)
千昌夫の24枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高6位、発売から2年後にあたる1979年の年間シングルランキングでは5位を記録した。つまり、ロングセラーである。
国民の生活水準は上がり、ポピュラー音楽には後にシティポップと呼ばれることになる都会的で洗練されたタイプが次第に増えていくのと同時にメインストリーム化していくのだが、たとえばこの曲のような牧歌的ともいえる望郷ソングが広く支持されることもあった。
しかも、これが当時のニューミュージック的な流行歌とはまったく別のところで聴かれていたかといえば、けしてそんなこともなく、普通に違和感なく流行っていたような記憶がある。
「あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな」と歌われるこの曲は急速に都会化していく当時の日本において、何らかのバランサー的な役割を果たしていたのかもしれない。
私自身/いしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリー(1977)
いしだあゆみがティン・パン・アレイ・ファミリーとのコラボレーション作品としてリリースしたアルバム「アワー・コネクション」の1曲目に収録された曲である。作詞を橋本淳、作曲・編曲を細野晴臣が手がけている。
シティポップ的なサウンドにのせて、「ひとりソファーに寝ころんで 恋の歌聞くでもなし 歌うでもなし」など朗読のようなものに続いて、「部屋の窓には東京湾の船の灯が小さく揺られ」というような都会的なシチュエーションが歌われていく。
「ブルー・ライト・ヨコハマ」などをヒットさせた歌手としてのみならず、女優としても活躍し、高い評価を得ていたいしだあゆみが、この楽曲においてはティン・パン・アレイ・ファミリーという最高のアーティスト集団をバックに、都会に暮らすアンニュイな女性というキャラクターを演じ切っているようにも感じられる。