邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1928-1945

波浮の港/佐藤千夜子(1928)

録音媒体としてのレコードの発明は1870年代にまで遡るわけだが、その技術がやがて日本にも伝わり、レコードによる流行歌が生まれるようになっていった。そして、その最初期のヒットソングとして知られているのが、この佐藤千夜子「波浮の港」だという。

レコード以前にも流行歌は存在していたのだが、それは録音媒体によってではなく、演歌師と呼ばれる人たちや声楽家の実演によって広まり、1925年に放送が開始されたラジオも大きな役割を果たすようになっていったようだ。

山形県出身の佐藤千夜子は子供の頃から教会に通い、小学校を卒業後はその歌の才能を見いだした伝道師に連れられて上京したのだという。その後、オペラに魅了され本格的に音楽の道を志すようになるのだが、この頃に出会った作曲家の中山晋平、詩人の野口雨情と歌で全国を回るようになる。

野口雨情の詞に中山晋平が曲を付けた「波浮の港」はその頃のレパートリーの1つだったが、1928年に設立されて間もない日本ビクターからレコードが発売されると、男性オペラ歌手の藤原義江によるバージョンと合わせて10万枚を売り上げるヒットを記録した。

この楽曲の舞台となっている「波浮の港」とは伊豆大島の南東部にあった波浮港村という小さな漁村のことであり、歌詞は旅人との別れを惜しむ島の人々の心情などを描写したものだといわれている。

しかし、この曲の歌詞を書いた野口雨情は実際に現地に行ったことはなく、出身地の茨城県にある港の印象からイメージを広げたらしく、歌詞には大島には生息していない海鵜が登場したり、茨城県の方言が入ったりもしているようである。

「波浮の港」やその他のヒット曲によって、佐藤千夜子は日本で最初のレコード歌手などと言われたりもするのだが、当時は流行歌の社会的地位が低く、複雑な心境だったともいわれる。

青空/二村定一 (1928)

浅草オペラで活躍した歌手、ボードビリアンの二村定一が1928年にリリースし、カップリング曲の「アラビヤの唱」と共にヒットさせた楽曲である。

アメリカのポピュラーソング「My Blue Heaven(私の青空)」の日本語カバーバージョンであり、日本語詞はアメリカに留学経験もある音楽評論家、堀内敬三によるものである。ジャズ歌謡と呼ばれたりもするのだが、ロックンロール誕生以前の当時、日本においてジャズというワードは西洋のポピュラー音楽に対してわりと幅広く用いられていたようだ。

「狭いながらも楽しい我が家」と自宅に対しての愛着や親しみのようなものが、モダンなサウンドに乗せて軽妙に歌われているところがとても良い。

ロバート・アルトマン監督による1970年のコメディ映画「M★A★S★H マッシュ」に挿入歌として使用されていたり、大滝詠一の没後にリリースされたアルバム「DEBUT AGAIN」の初回限定ボーナスディスクに「私の天竺」のタイトルでカバーバージョンが収録されていたりもする。

アラビアの唱/二村定一 (1928)

二村定一のシングルとして「青空」とのカップリングでリリースされ、ヒットした楽曲である。アメリカ映画「受難者」の主題歌としてフレッド・フィッシャーによって作詞・作曲された楽曲のカバーバージョンで、日本語詞は「青空」と同様に堀内敬三によるものである。オリジナルはアメリカではヒットしなかったようだ。

タイトルが「アラビアの唱」であるように歌詞には異国情緒が感じられもするが、音楽的には社交ダンスの1種目であるフォックストロット的でもある。この楽曲をモチーフにした映画が制作されたり、後にNHK教育テレビ「アラビア語会話」のテーマソングとして使用されたりもしていた。

君恋し/二村定一 (1928)

佐々紅華が1922年に作詞作曲した楽曲で、二村定一は当初から舞台で歌ってはいたのだが、1928年に日本ビクターからレコードを発売するに際しては、時雨音羽が新たに歌詞を書き直している。

「君恋し」というタイトルからも想像できるように、いつの時代にも変わらぬ恋の苦しみをテーマにした楽曲なのだが、ジャズバンドが演奏するサウンドはモダンで、「埴生の宿」の邦題でも知られる有名なイギリス民謡「Home! Sweet Home!」が引用されるところなどもとても良い。

1961年にはフランク永井によるムード歌謡的なカバーバージョンが大ヒットして、日本レコード大賞も受賞している。

東京行進曲/佐藤千夜子 (1929)

菊池寛が雑誌「キング」に連載していた小説「東京行進曲」が映画化されるに際して、主題歌としてつくられ、ヒットした楽曲である。日本で最初の映画タイアップ曲ともいわれる。

当時の東京のモダンライフが描写された歌詞が特徴的だが、「シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか」と、小田急電鉄(当時は小田原急行鉄道)が具体的に登場しているところがまた印象的である。

「東京行進曲」というタイトルのわりに楽曲は特に行進曲的ではないのだが、当時、関西の松竹座で映画の幕間に上演されていた「道頓堀行進曲」をきっかけに、「行進曲」が現在でいうところのトレンドワード的に用いられてもいたのだという。

酒は涙か溜息か/藤山一郎 (1931)

北海道の新聞記者であった高橋掬太郎が投稿した詩に、新進作曲家として注目されていた古賀政男が曲を付け、藤山一郎が歌って大ヒットした楽曲である。

「忘れた筈のかの人に のこる心をなんとしょう」というわけで、失恋による心の痛みをどうにかするために酒を飲むという内容がこの当時から歌われていて、広く支持されていたことがよく分かるのだが、この楽曲は低い声で語りかけるように歌うクルーナー唱法を日本で最初に用いたことでも知られているようである。

丘を越えて/藤山一郎 (1931)

映画「姉」の主題歌としてリリースされた藤山一郎のシングル曲で、昭和歌謡を代表する1曲として知られる大ヒットを記録した。「懐メロ」番組や特集には欠かせない楽曲である。

元々は古賀政男がマンドリン合奏曲として作曲した楽曲に島田芳文の歌詞を付けたものであり、イントロや間奏がとても長い。稲田堤の多摩川河川敷や多摩丘陵の景色にインスパイアされてつくられた曲らしく、青春を謳歌するような感じがとてもよい。

1976年に矢野顕子がNHKのオーディションでこの曲を披露したところ、審査員を務めていた藤山一郎から絶賛され、デビューアルバム「JAPANESE GIRL」にも収録された。このバージョンは1998年の映画「卓球温泉」の主題歌としても使用されている。

赤城の子守唄/東海林太郎 (1934)

時代劇映画「浅太郎赤城の唱」の主題歌として制作された東海林太郎の大ヒット曲で、これもまた「懐メロ」番組や特集の超定番曲となっている。

映画の内容に沿って国定忠治と子分である浅太郎とのストーリーに関連してはいるのだが、楽曲そのものは父が子に歌う子守唄として聴くことができる内容になっている。

東海林太郎というとロイド眼鏡をかけて、燕尾服姿の直立不動で歌うイメージがひじょうに強いのだが、この曲を舞台で歌う時には浅太郎に扮していて、息子の勘太郎役で背負われていたのが、後に「銀座カンカン娘」をヒットさせたりもする高峰秀子だったようだ。

ダイナ/ディック・ミネ (1934)

1925年にミュージカル「猿飛カンター」で使われて以降、ビング・クロスビーやルイ・アームストロングなど様々なアーティストによってカバーされたアメリカのポピュラーソング「ダイナ」に、ディック・ミネが自ら日本語詞を付けて歌い、大ヒットさせたデビューシングルである。

立教大学に在学中からジャズバンドのメンバーとして活動していたディック・ミネは卒業後に一旦は就職するものの、やはり音楽でやっていこうと決心し、淡谷のり子や古賀政男の助けもあって、人気歌手としてブレイクしていった。

「ダイナ」には榎本健一「エノケンのダイナ」など様々なカバーバージョンが存在するが、1989年にザ・タイマーズがリリースしたシングル「ロックン仁義」のカップリング曲として忌野清志郎にとてもよく似たメンバーのZERRYが日本語詞を書いた「ダイナ(嫌煙のダンナ)」が収録されていたりもした。

東京ラプソディ/藤山一郎 (1936)

1929年にヒットした佐藤千夜子「東京行進曲」を作詞したのは詩人の西條八十だったが、この曲を高く評価していた古賀政男はさらにモダンになった東京をテーマにした楽曲をつくりたいと考え、初夏の神宮外苑辺りをドライブしている時に、メロディーが浮かんできたのだという。それに門田ゆたかが古賀政男との共作のようなかたちで歌詞を付け、「東京ラプソディ」が完成したようだ。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」などかつて古賀政男の楽曲を歌ってヒットさせていた藤山一郎は、所属レーベルをビクターから古賀政男が重役を務めるテイチクに移籍して、この「東京ラプソディ」が移籍後最初のシングルであった。

銀座、神田、浅草、新宿といった東京の情景が楽しげに描写されたこの楽曲はヒットして、後に藤山一郎の主演で映画化もされた。

当時の日本は次第に戦時色が強くなっていて、それまでのモダンな気分というのが薄まりつつあったというのだが、それだけにこの楽曲には昭和モダニズム末期を象徴するようなところもあったのだという。

個人的には1977年にリリースされてヒットした平野雅昭「演歌チャンチャカチャン」のシングルに収録されていた「おかしなおかしな演歌のメドレー」でその一節が歌われていたことによって、初めてこの曲を知ったような気がする。

1989年には山下達郎がこの曲のメロディーの一部がコラージュされてもいるシングル「新・東京ラプソディー」をリリースしている。

別れのブルース/淡谷のり子 (1937)

日本の一般大衆にブルースという音楽ジャンルを広く知らしめた楽曲として知られているようだ。作曲の服部良一には当初からブルースをつくろうという意図があったようだが、この楽曲が厳密にブルースにあたるのかどうかということについては、異論もいろいろあるようである。

横浜の本牧を舞台にした「本牧ブルース」が本来にタイトルだったのだが、レーベルからの意見を取り入れたりした結果、「別れのブルース」になったようだ。

淡谷のり子といえば1979年に津軽三年味噌のテレビCMに出演して「たいしたたまげた」というフレーズが軽く流行したり、「ものまね王座決定戦」の審査員としての辛口コメントなどの印象もひじょうに強い。清水アキラなどによってものまねをされる機会も多く、その際によく歌われていたのも「窓を開ければ 港が見える」という歌い出しではじまる「別れのブルース」であった。

蘇州夜曲/渡辺はま子・霧島昇 (1940)

李香蘭が主演映画「支那の夜」の劇中で歌う楽曲として発表され、後に渡辺はま子・霧島昇によるバージョンがリリースされた。作詞は西條八十、作曲が服部良一である。

現在に至るまで様々なジャンルのアーティストによってカバーされている名曲だが、1982年にビートたけし主演のテレビドラマ「刑事ヨロシク」で戸川純が歌っていたバージョンをよく覚えている人たちも少なくはないと思われる。

中国の蘇州をイメージしたこの曲は当時、本国でもヒットしたのだが、日本による占領下の記憶などから、特にある世代以上の人たちには好ましく思われない場合も少なくはない。

1941年には太平洋戦争が勃発し、日本もいよいよ戦時のムードが本格化していく。戦意高揚を目的としたいわゆる軍国歌謡はこれ以前にもあったのだが、この期に及んでその勢いは増していき、逆に従来の恋愛や性愛などをテーマにした流行歌は淘汰されていくことになる。