邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1983, Part.3

激しい雨が/THE MODS(1983)

THE MODSの4作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高24位を記録した。

ブリティッシュビート的な音楽を演奏するロックバンド、THE MOZZとして1974年に福岡で結成され、解散、再結成やメンバーチェンジなどを経て、1981年にはメジャーデビューし、来日したザ・ジャムのオープニングアクトを務めたり、雨の日比谷野外音楽堂で行われたライブが伝説化したりもする。

この曲はマクセルカセットテープのCMソングとして起用されたことをきっかけに、より一般大衆的なリスナー層にまでアピールすることに成功した。

スノッブな夜へ/国分友里恵(1983)

国分友里恵のファーストアルバム「Relief 72 hours」のA面1曲目に収録された楽曲である。

当時、特にヒットしたわけではないのだが、シティポップリバイバルの流れで再評価が進み、いまや名盤に収録された名曲として認知されがちなような気もする。

シティポップとはどのような音楽かを説明する場合に、とりあえずサンプルとして聴いていただくと良いのではないかと思える楽曲の1つである。

ギザギザハートの子守唄/チェッカーズ(1983)

チェッカーズのデビューシングルでオリコン週間シングルランキングで最高8位、「ザ・ベストテン」で最高5位を記録したのだが、ヒットしたのは翌年のシングル「涙のリクエスト」の余波によってであり、リリース当初はそれほど売れていなかった。

元々はドゥーワップやオールディーズ的な音楽をやっていたチェッカーズにとって、ツッパリ賛歌的でもあるこの楽曲は違和感があるものだったようなのだが、イントロなどで演奏されるサックスのフレーズや「ちっちゃな頃から悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ ナイフみたいにとがっては触わるものみな傷つけた」などの歌詞のインパクトは流行歌として最高である。

2020年リリースのAdo「うっせえわ」がヒットした際には、歌いだしの歌詞が「ちっちゃな頃から優等生」であることなどから、この曲のことが少し取りざたされたりもしていた。

瞳はダイアモンド/松田聖子(1983)

松田聖子の15作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングや「ザ・ベストテン」などで当然のように1位に輝いている。

一般大衆的にシティポップ的なサウンドや世界観が好まれがちな時代背景があったように思われ、松田聖子のヒット曲としてはそのテイストが最も強めな楽曲だというような気がする。作詞は松本隆、作曲は呉田軽穂こと松任谷由実である。

「映画色の街」を舞台としたいわゆる失恋ソングではあるのだが、そこに自己憐憫的なみじめさはほとんど感じられず、悲しみに負けずに強く生きようとする自分自身の心情をトレンディー気味に歌いこなしているところに良さを感じる。

悲しみがとまらない/杏里(1983)

杏里の14作目のシングルでオリコン週間シングルランキング、「ザ・ベストテン」でいずれも最高4位を記録している。

1978年のデビュー以降、ネクストブレイク的な見られ方をされていたような印象がある杏里がついに一般大衆的にも大ヒットを記録したのがこの年のテレビアニメタイアップ曲「CAT’S EYE」で、オリコン週間シングルランキングでは5週連続1位、年間シングルランキングで6位の大ヒットとなるのだが、その人気を決定づけたのがこの曲のヒットだったような気もする。

自分の恋人と友人が恋愛関係になってしまい「悲しみがとまらない」というそれはそうだろうという内容なのだが、作詞が康珍化で作曲が林哲司という当時ノリノリのコンビによる楽曲である。

個人的に高校時代のヒット曲という印象だったこの曲なのだが、2003年ぐらいにたまたま知り合った女子大生とカラオケボックスに行った時にたまたまこの曲が隠れた名曲的なノリで歌われていて、J-POPクラシック的に認識されていることを知ったような気がする。

ワインレッドの心/安全地帯(1983)

安全地帯の4作目のシングルでオリコン週間シングルランキングで1位、「ザ・ベストテン」で最高2位の大ヒットを記録した。

この曲がヒットするまで全国レベルではほぼ無名に近かったと思われるのだが、地元の旭川では以前からバス停の近くに手書きをコピーしたライブの告知が貼られているなどして、そんなバンドがあるのだなと知られていたりはしたのだった。それが井上陽水に見いだされているらしいなどという話はなんとなく伝わり、そうこうしているうちにこの曲が大ヒットした。

玉置浩二のボーカルは「ミュージック・マガジン」の中村とうようがこれのどこが安全地帯なのか、危険きわまりないのではないか、というようなことまで言い出すぐらいにとんでもないものであり、それも含めてまったく新しいタイプの歌謡ロックを提示したような気もする。

十七歳の地図/尾崎豊(1983)

尾崎豊のデビューアルバム「十七歳の地図」のタイトルトラックで、後にシングルカットもされた。

周知の通り尾崎豊というアーティストはカリスマ的な扱いをされた上に、その純粋さゆえに若くして悲劇の最期を遂げたことによって伝説化されているようなところもあるのだが、シンガーソングライターとして純粋に規格外の存在であったことが、この曲などを聴くと思い出される。

尾崎豊は青山学院高等部を自主退学しているのだが、ほぼ同年代で青山学院出身の女性音楽評論家は、あの時代にあの学校に通うような環境にいて一体何の不満があるのだろうというような印象で、正直いってダサいと感じていたという。これも確かに1つのリアリティーではある。

個人的に当時、尾崎豊のレコードをすべて買っていたのだが、なんとなく友人にはそのことを黙っていたような記憶がある。

音楽的にはジャクソン・ブラウンなどから影響を受けていたようなのだが、サウンドプロダクション的にブルース・スプリングスティーン「明日なき暴走」の線をトレースしているように感じられる。

とはいえ、尾崎豊のシンガーソングライターとしての表現力はそういった枠を明らかにはみ出したものであり、その視線は若者である自分たち世代のみならず、電車の中で押し合う大人たちや親の背中にまでおよんでいる。

15の夜/尾崎豊(1983)

尾崎豊のデビューシングルで、同日に発売されたデビューアルバム「十七歳の地図」にも収録されていた。当初からいきなりヒットして大ヒットしたわけではなく、少しずつ認知が広がっていったような印象である。

「盗んだバイクで走り出す」というフレーズがあまりにも有名なため、不良少年的なアンセムであるかのようにも思われがちなのだが、適度に優等生的で理想主義的でもあったところが幅広く受け入れられた要因だったような気もする。

音楽的にはやはりブルース・スプリングスティーンあたりを下敷きにしたプロダクションで、それほど新奇性がないところから、ポップミュージック批評的には正当な評価をじゅうんぶんに得られていないような気も個人的にはしてしまうのだが、そんなことはもうどうでも良いぐらいに圧倒的な名曲だとここでは記録しておきたい。

I LOVE YOU/尾崎豊(1983)

尾崎豊のデビューアルバム「十七歳の地図」収録曲で、当時はシングルカットもされていなかったのだが、8年後の1991年にシングルでリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高5位を記録した。

きわめてシンプルなラヴバラードで、アルバム収録曲の中でもわりと地味な印象もあったのだが、「きじむベッドの上で優しさを持ちより きつく躯 抱きしめあえば」という表現のリアリティー、「悲しい歌に愛がしらけてしまわぬように」という絶妙な客観性はいま思うと明らかに天才的である。

クリスマス・イブ/山下達郎(1983)

山下達郎のアルバム「MELODIES」収録曲としてまずはリリースされ、年末にシングルカットされるのだがオリコン週間シングルランキングでの最高位は44位であった。それがバブル景気真っ只中の1988年にJR東海のキャンペーンソングに起用され、リバイバルすると翌年にはオリコン週間シングルランキングで1位に輝き、松任谷由実「恋人がサンタクロース」と並んで、邦楽ポップスを代表するクリスマス定番曲として定着するようになる。

パッヘルベルの「カノン」を間奏で引用したり、クリスマスソング的な演出が随所に見られたりもするのだが、バブル景気下における純愛ブームによって恋人たちの一大イベント化したクリスマスにおいて、あえて「ひとりきりのクリスマス」を歌っていたところが良かったのではないかというような気もする。

個人的には1983年6月8日リリースのアルバム「MELODIES」を発売されてからわりとすぐに買って聴いていて、初夏なのにクリスマスソングというシュールな気分を味わってはいたのだが、後にすっかりクリスマスの定番ソングとして定着してしまったので、あの約半年間は貴重だったなと思い起こされる。