ニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」について。

1991年8月17日、アメリカはカリフォルニア州カルバー・シティにあるGMTスタジオに多くの若者達があつまっていた。集合時刻は午前11時30分である。オルタナティヴ・ロックの世界では注目されていたが、世間一般的にはまだまだ知られていない3人組ロック・バンド、ニルヴァーナのビデオ撮影にエキストラとして出演するためである。

その2日前、ニルヴァーナはハリウッドのロキシー・シアターでライブを行った。開場は20時で、「スクール」「ドレイン・ユー」「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」「ブリード」「ポリー」「リチウム」「テリトリアル・ピッシングス」「ブリュウ」などが演奏されたようだ。このうちの半数以上がまだレコードとして発売されていなかった。

カート・コバーンとクリス・ノヴォセリックはワシントン州のアバディーン高校在学中に知り合い、やがてバンドを結成することになる。最初に組んだのはCCRのトリビュート・バンドだったらしい。その後、ドラマーが替わるなどして、バンド名をニルヴァーナとしたのが1987年だったという。翌年にはシアトルのインディー・レーベル、サブ・ポップからショッキング・ブルー「ラヴ・バズ」をシングルとして、さらにその翌年にはデビュー・アルバム「ブリーチ」をリリースした。パンク的なアティテュードのラウドでヘヴィーなロックという音楽性はオルタナティヴ・ロックのファンに好評だったが、当時のアメリカのメインストリームの嗜好とはあまりにかけ離れたものであった。後に再評価されるこのアルバムは当時、全米アルバム・チャートにランクインすらしていない。

これにはサブ・ポップのプロモーション不足にも原因があるとバンドは考え、アリス・イン・チェインのマネージャーに相談したりするのだが、そのうちソニック・ユースのキム・ゴードンからの薦めでメジャーのDGCレコーズと契約することになった。80年代にアート的なオルタナティヴ・ロックでカリスマ的な存在となっていたソニック・ユースはやはりインディー・レーベルのディストリビューションに対する不満からDGCと契約し、1990年に移籍後最初のアルバム「GOO」をリリースした。全米アルバム・チャートでの最高位は96位だったが、ソニック・ユースにとってはこれがこの時点での過去最高であり、商業的にも成功と見なされていた。

ニルヴァーナのメジャー移籍後初のアルバム「ネヴァーマインド」のレコーディングは、移籍前の時点ですでにはじまっていたのだが、レーベルの移籍やドラマーの交替などがあって、1991年の5月から仕切り直しとなっていた。「ネヴァーマインド」の1曲目に収録され、先行シングルとしてもリリースされた「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」は、この5月のレコーディングがはじまる少し前に書かれたということである。

カート・コバーンは究極のポップ・ソングを書こうとしていたと後に語っていて、その際に参照したのはピクシーズだったという。というか、パクったことを認めてさえいる。カート・コバーンはピクシーズの音楽を初めて聴いた時に衝撃を受け、自分はこのバンドかそれがかなわないならばせめてコピーバンドのメンバーでいるべきなのではないか、とすら思ったのだという。ニルヴァーナの音楽の特徴としてよくいわれる、ラウドークワイエット-ラウドという構成はピクシーズの影響を受けたものだったのである。

キャッチーなギターリフはボストンの「モア・ザン・フィーリング」やザ・キングスメンのバージョン(オリジナルはリチャード・ベリー)で知られる「ルイ・ルイ」などを思い起こさせる。カート・コバーンが他のメンバーにこの曲を聴かせた時、その反応は芳しいものではなかったという。それで、カート・コバーンは約1時間半にもわたってメンバーに同じ曲を演奏させたのだが、そのうちにクリス・ノヴォセリックがベースをよりゆっくりと弾きはじめ、デイヴ・グロールはギャップ・バンドなどのディスコミュージックを思わせもするドラムビートを思いついたという。これにより、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」の作曲者としては「ネヴァーマインド」収録曲で唯一、メンバー全員の名前がクレジットされている。

「ネヴァーマインド」の発売は1991年9月24日が予定され、その先行シングルとして「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が9月10日にリリースされることになった。そのためのビデオ撮影にあたり、エキストラを使うことになった。それで、撮影の2日前にライブが行われたロキシーでは、エキストラ募集のフライヤーのようなものが配られた。新人のサミュエル・ベイヤーによって監督されたミュージックビデオは、1979年の青春映画「レベルポイント」やラモーンズの「ロックンロール・ハイスクール」をモチーフとした、学園もののようなコンセプトとなった。高校の体育館で開催されるコンサートのイメージである。エキストラの募集要項として、対象年齢は18歳から25歳なのだが、高校生のようなキャラクターに合わせていることが条件とされていた。例として挙げられているのが、プレッピー、パンク、ナード、ジョックなどである。プレッピーは金持ちタイプ、パンクはパンク、ナードはおたく、ジョックはスポーツマンタイプといったところだろうか。ミュージックビデオの撮影ということで、ブランドの名前やロゴが入った服を着てこないようにという注意書きもある。最後には「ニルヴァーナをサポートしてグレイトな時間を過ごそう!」とある。

これを見てあつまってきた若者達が「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のビデオには映っているわけだが、実際には何時間も大人しくしたまま拘束されるなど、「グレイトな時間」でもなかったという。そういった不満が最後には爆発したわけで、あの暴れまくって機材を壊したりするシーンは演出ではあったものの、リアルな「ティーン・スピリット」的なものに溢れたものでもあったらしい。さらにこのビデオがポップ・カルチャーの歴史を変えてしまうことになるのだから、そういった意味では本当に「グレイトな時間」だったとはいえるのだろう。

ニルヴァーナの音楽は重くて暗い。奇跡的なポップ感覚が宿っている「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」にしても、当時のメインストリームの流行歌と比べると明らかにそうであった。アメリカの学園もの映画などにありがちな軽くて明るいイメージの舞台装置だけをこのビデオは拝借しているが、そこにある精神性は真逆といってもいいようなものである。何せ最もキャッチーなフレーズが「ハロー、ハロー、ハロー、どれぐらいロー?」であり、最後には「否定(a denial)」という単語が呪いのように何度も繰り返し叫ばれるのである。

歌詞にはひじょうに抽象的なところが多く、様々な深読みがされたり、語呂合わせや言葉遊びのようなものでそれほど深い意味はないと解釈されたりもした。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」というタイトルは歌詞にはまったく出てこないのだが、これ自体がよく分からないものの、なんとなくカウンター的なイメージをあたえるものであった。とはいえ、実際に曲を聴いてみたところで、明確なメッセージのようなそれほど感じられない。しかし、この分かりやすいことは何も言い切っていないのだが明らかに伝わる感じというのが、ジェネレーションXと呼ばれる世代にはむしろ響いた。1960年代半ばから1970年代終わりあたりにかけて生まれた人達がおおむねジェネレーショXと呼ばれるのだが、ニルヴァーナのメンバー自身もちょうどこれにあたる。念のため言及しておくと、日本では「ネヴァーマインド」が全米アルバム・チャートを駆け上がっている最中に突然解散したフリッパーズ・ギターがこれにあたる。

カート・コバーンもこの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」というタイトルを、よく分からないのだがカウンター的なイメージという程度の認識でつけた可能性が考えられる。とはいえ、このフレーズを考えたのはカート・コバーンではない。部屋の壁に油性ペンで落書きされていたのだが、フェミニスト的なパンク・ロックバンド、ビキニ・キルのキャスリーン・ハンナによって書かれたものであった。カート・コバーンとキャスリーン・ハンナは友人同士であり、パンクロックやフェミニズムについて語り合ったり、酔っぱらってふざけて壁に落書きをしたりする関係だったのだという。カート・コバーンはこのフレーズが曲に相応しいと思い、キャスリーン・ハンナに断ったうえで使用したのだという。

メンバーもレーベルも以前よりは売れるだろうと思っていたのではないかと考えられる。「ネヴァーマインド」のサウンドはインディーズ時代の「ブリーチ」と比べ、ひじょうに聴きやすくミックスされていたのだが、メンバーはこれについては不安だったらしい。ピクシーズやダイナソーJRといったアメリカのラウドでヘヴィーなオルタナティヴ・ロックというのはより幅広い層に注目されつつはあって、日本では「ロッキング・オン」がこれらのことを「殺伐系」などと呼んでいたはずである。「ネヴァーマインド」がリリースされた時、「ロッキング・オン」のレヴューページでの扱いはそれほど大きくなかったのだが、「売れそな殺伐」とかいう見出しがついていたことはなんとなく覚えている。私は確かレッド・ホット・チリ・ペッパーズ「ブラッド・シュガー・セックス・マジック」などと一緒に「ネヴァーマインド」のCDを買ったのではなかっただろうか。渋谷センター街のHMV、現在はドン・キホーテが入っているところの店だったような気がする。それから、渋谷駅のロータリーからバスで六本木WAVEに出勤した。

「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」も「ネヴァーマインド」も当時のこのタイプの音楽はありえないレベルで売れていき、それはレーベルもメンバーも予測していない規模だったらしい。当時の音楽業界ではクリスマス商戦に合わせた目玉商品として人気アーティストの待望の新作をリリースすることが常だったわけだが、この年でいうとマイケル・ジャクソン「デンジャラス」、MCハマー「ハマーⅢ」、U2「アクトン・ベイビー」などがそれにあたった。そして、これらよりも以前に発売された「ネヴァーマインド」が毎週どんどん順位を上げていき、クリスマスシーズンには上位でこれらろ拮抗するまでになっていた。さらに翌年、1月11日付のチャートではマイケル・ジャクソン「デンジャラス」を抜いて1位にまでなってしまったのだった。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」も全米シングル・チャートで最高6位、その週の1位はマイケル・ジャクソンで、以下、カラー・ミー・バッド、マライア・キャリー、ボーイズⅡメン、MCハマーとなっていた。

ニルヴァーナのようなタイプの音楽はグランジ・ロックと呼ばれ、その後、どんどんメインストリームに食い込んでいく。マイケル・ジャクソンの「スリラー」が大ヒットしていた頃、シングル・カットされた「今夜はビート・イット」をアル・ヤンコビックというアーティストが替え歌にして、これもヒットするということがあった。タイトルは「今夜もEAT IT」で、「ビート」を「イート」置き換えるという駄洒落がベースとなっている。当時、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」がいかに話題になっていたかということを、このアル・ヤンコビックが替え歌のシングルをリリースしていたことが証明しているようにも思える。タイトルは「スメルズ・ライク・ニルヴァーナ」で、内容はニルヴァーナの歌詞が何を歌っているのかよく分からないというものであった。これを聴いてニルヴァーナのメンバーは大爆笑したといわれ、全米シングル・チャートでは最高35位を記録した。

このヒットによって実質的にティーンエイジ・アンセムのようになった感もあるこの曲に、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」というタイトルは相応しいように思えた。しかし、このタイトルとなったフレーズの元々の意味をカート・コバーンですら知ることになるのは、リリースから数ヶ月が過ぎた後であった。

キャスリーン・ハンナがカート・コバーンの部屋の壁に書いた「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」、正確には「カート・スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」に含まれる「ティーン・スピリット」とはいわゆる10代の精神を指すものではなく、デオドラントの商品名であった。日本でいうところの8X4(エイトフォー)のようなものだろうか。カート・コバーンは当時、キャスリーン・ハンナと同じバンドのドラマー、トビ・ヴェイルと付き合っていたのだが、彼女はデオドラントのティーン・スピリットを使っていたという。それで、「カートはティーン・スピリットの匂いがする」となったわけである。