スクリッティ・ポリッティ「キューピッド&サイケ85」

スクリッティ・ポリッティの2作目のアルバム「キューピッド&サイケ85」は1985年6月10日にリリースされ、全英アルバム・チャートで最高5位のヒットを記録した。シングル・カットされた5曲のうち3曲が全英シングル・チャートで20位以内に入り、「パーフェクト・ウェイ」はアメリカで全米シングル・チャートで最高11位のヒットを記録した。スクリッティ・ポリッティは1970年代後半にポスト・パンク・バンドとして結成され、マルクス主義的な思想をベースにしていたが、この頃はグリーン・ガートサイドのソロ・プロジェクト化していて、ソウル・ミュージックやヒップホップからも影響を受けたシンセ・ポップの進化系のような音楽をやっていた。実験性が批評家やアーティストたちから高く評価されながら、コマーシャル的にも成功をおさめたこのアルバムは、80年代ポップスを代表する名盤の1つであり、ソフィスティ・ポップと呼ばれるサブ・ジャンルを象徴する作品として知られている。

スクリッティ・ポリッティというバンド名がまずは独特で印象に残るのだが、これはマルクス主義の思想家、アントニオ・グラムシの著作に由来し、イタリア語で「政治的な文書」を意味する言葉にリトル・リチャード「トゥッティ・フルッティ」的なひねりをきかせたものだといわれている。セックス・ピストルズやザ・ダムドが参加したアナーキー・ツアーのライブを見て結成されたといわれるだけあって、バンドの歴史は意外にも古く、初期はよりポスト・パンク的な音楽をやっていた。中心メンバーのグリーン・ガートサイドがステージ恐怖症などもあって、自宅で療養していた頃によりポップな音楽性でいこうと心境の変化があったらしく、ラフ・トレードから1982年にリリースされたデビュー・アルバム「ソングス・トゥ・リメンバー」にはそれが表れてもいる。全英シングル・チャートで最高12位と、そこそこヒットした。先行シングルとしてもリリースされた「スウィーテスト・ガール」には、レゲエ・ミュージックからの影響も感じられた。

それから妹が持っていたソウル・ミュージックやファンクのレコード、両親の転居先となったフロリダで聴いたブラック・ミュージック専門のラジオ局、そこで流れていたヒップホップからの影響などが、「キューピッド&サイケ85」でのさらなる音楽性の変化につながっていったようだ。初期のバンド・メンバーたちはすでにいなくなっていて、デヴィッド・ガムソンとマテリアルのドラマーでもあったフレッド・マーとのコラボレーションが中心となった。また、アレサ・フランクリンやロバータ・フラックといったソウル・ミュージックのプロデューサーとして知られていたアリフ・マーディンもデモ・テープを聴いてグリーン・ガートサイドの音楽を気に入り、いくつかの曲をプロデュースすることになった。

1984年にはアリフ・マーディンがプロデュースしたシングル「ウッド・ビーズ(アレサ・フランクリンに捧ぐ)」をリリースし、全英シングル・チャートで最高10位を記録すると、続く「アブソルート」「ヒプノタイズ」も高い評価を得た。日本の流行最先端人間的な人たちの間でもわりと話題になっていて、「ミュージック・マガジン」の年間ベスト・アルバムでは、シングルではあったが坂本龍一などがスクリッティ・ポリッティの作品を挙げていたような気がする。また、当時の日本の特に東京などにおいては、カフェ・バーと呼ばれる業態の飲食店が流行最先端のスポットとされていたのだが、そこでは後にソフィスティ・ポップと呼ばれるタイプの音楽がかかりがちであった。当時のスクリッティ・ポリッティの音楽もそのように受け入れられ、1985年5月7日からテレビ朝日で火曜の深夜に放送されていた、とんねるず、川上麻衣子、可愛かずみ、前田耕陽などが出演するドラマ「トライアングル・ブルー」では、六本木のカフェ・バーのシーンで「アブソルート」などがかかっていることもあった。

また、グリーン・ガートサイドは美青年であることも大きな特徴であり、日本で「キューピッド&サイケ85」をプロモートする際には、こういった側面も大いに強調されていた。当時、「ミュージック・マガジン」の裏表紙に掲載された広告のコピーは、「この美しい生き物は一体誰?」であり、初回特典としてA全サイズの大型カラー・ポスターが付いていたようである。このルックスにして甘いボーカル、音楽性も最高なのだからたまらない。

1998年に出版された「80sディスク・ガイド」という本に小山田圭吾と常盤響の「青春放談」が掲載されていて、各々が80年代の10枚を挙げているのだが、特に順位は付けていないものの、常盤響が真っ先に、小山田圭吾はザ・クラッシュ「コンバット・ロック」の次にこのアルバムを挙げているのが印象的である。小山田圭吾の場合は一旦、ザ・クラッシュ「ロンドン・コーリング」と書いたのを消して「コンバット・ロック」としているので、実質的には「キューピッド&サイケ85」が真っ先に来た可能性もあったかもしれない。ザ・クラッシュ「ロンドン・コーリング」は1979年の発売なのだが、アメリカでは1980年になってから発売されたということで、「ローリング・ストーン」誌では80年代のアルバム・ベスト100の1位に選んだりもしていた。

また、「ミュージック・マガジン」の「クロス・レヴュー」で、マイケル・ジャクソン「スリラー」、パブリック・エナミー「パブリック・エナミーⅡ」に0点を付けたことで知られる当時の編集長、中村とうようがこのアルバムのことは「イギリス的ポップ感覚の最良の精華」「細部に神経がゆき届きながら、真の骨太さがある」などと高く評価して、10点満点を付けている。

タイトルの「キューピッド&サイケ85」とはギリシャ神話の「クピドとプシュケの物語」から取られていて、それの1985年版というようなニュアンスだろうか。プシュケという美人とクピドという神が様々な困難を乗り越えて結ばれるという話らしく、ディズニー映画などでお馴染みの「美女と野獣」もこれが元になっているという。プリンス&レヴォリューション「アラウンド・イン・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」がヒットしたりペイズリー柄が流行ったり、サイケデリックな印象もある1985年だが、「キューピッド&サイケ85」のタイトルとはあまり関係がないのだろうか。

海外のオールタイム・ベスト・アルバム的なリストではそこそこ選ばれてはいるのだが、それほど上位ではなかったりもして、相対的には日本の音楽ファンの方がより高く評価しているのではないか、という気がしなくもない。これはザ・スタイル・カウンシル「カフェ・ブリュ」などにも通じる感覚であり、やはりあの80年代半ばのカフェ・バー気分のようなものが深く影響しているのだろうか。とはいえ、とても良いアルバムである。個人的にはアメリカで「パーフェクト・ウェイ」がヒットしてから1986年に国内盤のレコードを買ったのだが、旭川に帰省した時にミュージックショップ国原でだったか、小田急相模原のオーム堂かオダキューOX内のレコード店あたりだったかはよく覚えていない。池袋のオンステージ・ヤマノや六本木WAVEではないことだけは、間違いがない。