六本木WAVEについて。

1983年11月18日に、六本木WAVEという「音と映像の新しい空間」がオープンした。レコードやビデオをたくさん売っているビルであり、経営しているのは西武だという。当時、旭川の高校生だった私は雑誌「宝島」の記事と広告で六本木WAVEのことを知り、さすが東京にはすごい店ができるものだとうらやましく思っていたのだった。

とはいえ、その近辺に修学旅行があり、帰りに東京で少しだけ自由行動の時間があった。確か土曜日だったのだが、それが六本木WAVEがオープンした翌日の11月19日だったか、はたまたその翌週である11月26日だったかについては覚えていない。同じ班に野球部の部員が2人いて、顧問の教師に連れられて後楽園球場にプロ野球OB戦を見にいっていたのだが、その日付については確認できていない。また、原宿の竹下通りに行った連中が、「フラッシュダンス」に主演していたジェニファー・ビールスを見たなどといっていた。

それはそうとして、六本木WAVEである。集合場所の上野公園からおそらく電車や地下鉄を乗り継いで到着したとは思うのだが、それほど苦労したという記憶はない。1階に最新のヒットアルバムなどが置かれていて、カルチャー・クラブ「カラー・バイ・ナンバーズ」、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「フロム・A・トゥ・ONE」、ポール・マッカートニー「パイプス・オブ・ピース」、ジョン・クーガー・メレンキャンプ「天使か悪魔か」、ポリス「シンクロニシティー」という、別に旭川のミュージックショップ国原でも買えたであろうメジャーなレコード5枚を、わざわざ六本木WAVEで買った。

エスカレーターで上の階まで上り、1フロアずつ見ながら下っていった。旭川では見かけたことがないようなタイプのよく分からないマニアックなレコードなどがたくさんありそうだったが、やはりよく分からなかった。それでも、その莫大な在庫量に圧倒され、東京で暮らせばこのような店に日常的に来ることができるのか、と思いを募らせたのであった。

旭川の高校生ができるだけ早く東京で生活をはじめるための方法として、東京の大学に入学するというのがある。それで、1985年の2月に東京の大学をいくつか受験するのだが、その時にも六本木WAVEにかなりのペースで行っていた。営団地下鉄日比谷線の六本木駅から階段で地上に出ると、頭上に高速道路が通っていて都会らしさを感じさせてくれた。近くに青山ブックセンターというカッコいい書店があることも知り、そこには伝説のミニコミ誌「よい子の歌謡曲」も置かれていて、私の文章も掲載されていた。こんな大都会で自分が書いた文章も載った雑誌が売られているなんて、と感激したことを覚えている。

地下鉄の六本木駅から地上に出て、左に歩いていくと六本木WAVEが颯爽とそびえ立っているのを見ることができたのだが、その姿は実に神々しいものであった。あの感じを思い出そうとするものの、記憶というものは次第に薄れて行ってしまうものである。しかし、ボブ・ディランが1985年にリリースした「タイト・コネクション」という曲のビデオクリップ冒頭に、当時の六本木WAVEが映っている。

ほんの一瞬、あくまで外観だけではあるのだが、これだけでもひじょうに貴重であり、いろいろな思いがこみ上げてくる。ちなみに当時の六本木WAVEの店内を記録した映像としては、1984年7月にTBSテレビ系「ザ・ベストテン」で第5位にランクインした吉川晃司が「サヨナラは8月のララバイ」を歌うシーンがある。

それはそうとして、大学受験には失敗したものの、東京で一人暮らしははじめ、予備校に通うことになった。着いてわりとすぐにやはり六本木WAVEに行って、松尾清憲「SIDE EFFECTSー恋の副作用ー」とザ・スタイル・カウンシルの何らかの12インチ・シングルを買ったはずである。とはいえ、一人暮らしをしはじめた大橋荘というのが都営三田線千石駅と巣鴨駅の間にあって、六本木まではそれほど近くもなかったこともあり、六本木WAVEにはあまり行かなかった。それよりも近かった池袋PARCOのオンステージヤマノをわりと気に入っていて、プリンス&ザ・レヴォリューション「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」やザ・スタイル・カウンシル「アワ・フェイヴァリット・ショップ」などもここで買ったはずである。

それでもある秋の土曜日の夜、六本木WAVEでレコードを買うぞと気合いを入れて出かけたのだった。入口でよく分からないバンドがエントランスライブと題して、フリージャズのような音楽をやっていた。都会的で文化的な生活を送っているな、と実感できて愉快であった。その日はシャーデー「プロミス」とロバート・パーマー「リップタイド」のレコードを買って帰ったはずである。「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマはその秋から、山下達郎「土曜日の恋人」に変わっていた。近所の銭湯、草津湯に行くと、小学生ぐらいの子供がテーブルタイプのテレビゲームをやりながら、「やめられまへんな」と明石家さんま演じる妖怪人間知っとるケのギャグを真似していた。

翌年、大学受験には合格した者の、通学しやすいように小田急相模原に引越したため、六本木WAVEへの道はさらに遠ざかった。それでも時には行っていて、フィリー・ソウルやラヴ・ソングのボックスセットを買ったりしていた。すでにCD時代に突入していたのだが、この頃の六本木WAVEではレコードを買った記憶がほとんどである。CDも確か2階に売っていたはずで、当時、国内盤は発売されていなかったXTC「GO 2」を買ったことだけは覚えている。値段はけして安くはなく、確か2,700円ぐらいしたのではないかと思う。

1987年頃には一時期、東京プリンスホテルでアルバイトをしていたので、帰りに六本木WAVEに寄ってレコードを買ったりもしていた。プロ野球ではこの年にも西武ライオンズが優勝していたのだが、西武系の六本木WAVEでもセールが行われる。エントランスセールといって、店頭のワゴンで輸入盤のLPレコードが1,000円で売られていたような気がする。ビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」を買って、トッド・ラングレンのカバーよりも後で、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」のオリジナルをやっとちゃんと聴いたのはこの時であった。

1989年に調布市とはいえふたたび東京都内に住むことになって、しかも青山のキャンパスに通っていたので、六本木WAVEはぐっと近くなった。ところが、その頃には渋谷ロフトにもWAVEができていた。1988年11月20日にオープンしていたらしい。六本木よりもずっと行きやすい。とはいえ、六本木WAVEのCD売場がビルの1階から4階までなのに対し、渋谷のWAVEはロフト1階の一部だけである。売場面積と在庫量では遠く及ばない。それでも新作や基本在庫的なタイトルを買う分には、それほど不足はない。

渋谷には西武のWAVEに対し、ダイエーがCSVというレコード店を1985年11月29日にオープンさせたことがあった。日本のインディーズも充実していることが売りで、私も有頂天のケラがチューリップ「心の旅」のカバーなどをしているピクチャーディスクを買ったりした記憶がある。あと、ピーター・ガブリエル「SO」とかRUN D.M.C.「レイジング・ヘル」などのCDも確かここで買った。1988年1月17日に閉店していたようだ。

渋谷といえばタワーレコードなのだが、当時は宇田川町の東急ハンズの近くにあった。つまり、渋谷駅から少しは遠い。実は日本で最初の店舗である札幌店には高校に入学する少し前あたりから何度か行っていたため、タワーレコードそのものに目新しさは感じていなかった。ロゴは当時から現在と同じ黄色と赤のものであり、ひじょうにポップでキャッチーなイメージであった。一方、WAVEのロゴはグレーに黒なのだが、こういったシックでポストモダンな感じの方が、ポップでキャッチーよりもカッコよく感じられるような、80年代半ばにはそのような気分もあった。

当時のタワーレコードは輸入盤専門店で、しかもアメリカもの中心というイメージが強かったのに対し、WAVEではイギリスのニュー・ウェイヴや、後にワールド・ミュージックと呼ばれるようになっていくエスニック音楽など、より幅広い音楽に強いという印象があった。そして、日本のアーティストによるCDも扱っていた点が大きく異なる。六本木WAVEに行かなければ買えないCDというか、六本木WAVEに行ったからこそ出会える音楽というのが確実にあるとでもいうような、そのような印象があったのである。

とはいえ、やはりCDをよく買っていたのは、渋谷ロフトの方のWAVEであった。1990年6月6日に発売されたフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」もやはり渋谷のWAVEで買い、かなり気に入っていたのだが、六本木WAVEに行くとフリッパーズ・ギターが選んだネオアコ名曲集のようなものも載ったチラシが置かれていて、やはり六本木WAVEだなと感じたりもした。そのチラシは渋谷のWAVEにも置かれていたのかもしれないのだが、私が見つけたのは六本木WAVEにおいてであった。この年にはやはり六本木WAVEが好きすぎて仕方がないというような状態になり、大学の講義が終わってからバスで行って、大きくレコメンドしているものならとりあえず買うというようなことをやっていた。キャロン・ウィーラー「UKブラック」やハッピー・マンデーズ「ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス」などである。この頃、岡村靖幸がリリースしたアルバム「家庭教師」収録の「カルアミルク」で、「電話なんかやめてさ 六本木で会おうよ」と歌っていた。

1991年の春には入口から入ってすぐぐらいのところに、KLF「ホワイト・ルーム」が大量陳列されていてシビれまくった。なんとかここで働くことができないものだろうかと、面接を受けたところあっさりと採用された。六本木WAVEには有名なアーティストや文化人などもよく来店していたのだが、給料をいただきながらエルヴィス・コステロやモリッシーや、なによりも「ロッキング・オン」の渋谷陽一を目撃できるという素晴らしい体験であった。小山田圭吾は一時期ほぼ毎日、多い時には1日に3回ぐらい見かけることがあった。小沢健二も見たことがあったが、六本木WAVEで小山田圭吾の次によく見たアーティストは、灰野敬二だったような気がする。マイケル・ジャクソンが来店した時には、たまたま大学で英米文学科に通っていたからという理由で、接客をするはめになったりもするのだが、サウンドトラックはどの階にあるのかというような質問をする声が本当にメディアで知っているタイプのそれだったので、軽く感激したことが思い出される。

正社員ではない人たちは雇用形態としては契約社員なのだが、メイトなどと呼ばれていた。特に学生を中心とする夜に詞かシフトに入らない人たちは、ナイトメイトなどというどこか淫靡さを感じさせなくもない呼ばれ方をしていたような気がする。1992年の秋ぐらいにごく一部のメイトたちの間で、神宮球場に阪神タイガースの応援に行くというムーヴメントが盛り上がっていた。その年は、阪神タイガースがペナントレースの最後の方までヤクルトスワローズと優勝を争っていた。まったくの余談だが、私はその応援に行っているメンバーの中に秘かに思いを寄せている女性がいたりしたこともあり、試合前から焼酎をあおるなどしてテンションを上げていたのだが、途中から急速に眠くなったり寒くなったりして元気がなくなるという残念な状況に陥っていた。

それよりも1992年の秋といえば、六本木WAVEが大きなリニューアルを行ったことも思い出されるが、リニューアルオープンは10月16日だったようだ。それまで洋楽と同じ3階で扱われていた邦楽が2階に移ったり、全体的にフロアの照明が薄暗くなって、大人向けになった。店内で流すCDはそれまでレジの店員が勝手に選ぶことができたのだが、リニューアル後は商品担当の人たちが選ぶようになった。1階ではそれまでわりと攻めたCDを推したりもしていたのだが、リニューアル後はアロマキャンドルなども売ったりするようになっていた。テクノのコーナーが1階から3階に移ったのも、このタイミングだっただろうか。

1990年の秋にヴァージン・メガストアとHMVが日本での1号店をオープンし、それぞれ新宿と渋谷だったので、六本木WAVEに比べるとひじょうに行きやすい人たちが多かったように思われる。当時は都営大江戸線もまだ開通していないので、六本木に行くとなると営団地下鉄日比谷線か都バスだったのである。ヴァージン・メガストアとHMVはいずれもイギリスのチェーンだったので、アメリカ以外のCDも充実していたし、ジャズやクラシックにも力を入れていた。六本木WAVEまでわざわざ行かなくても、新宿や渋谷でも買えるCDが増えていって、タワーレコードも日本のアーティストのCDにも力を入れるなど本気を出していった。六本木WAVEにはJ-WAVEのリスナー層のようなコンサヴァティヴな大人も多く、その比率は高まっているようにも思えた。

1993年3月20日、渋谷のパルコクアトロにクアトロWAVEがオープンするのだが、ここではフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴ、つまりいつしか「渋谷系」などと呼ばれるようになるタイプの音楽を好む人たちに向けた品揃えがされていたとも聞く。同じ頃、同じ渋谷でもセンター街のONE-OH-NINEにあったHMVでも「渋谷系」的な音楽に力を入れていき、宇田川町のタワーレコードでは4月23日にJ-POP売り場を拡大し、3階に独立させた。この頃はもう六本木WAVEで働いてはいなかったのだが、秋ぐらいに「ロッキング・オンJAPAN」読者で小山田圭吾ファンの女子大生と銀座で「ジュラシック・パーク」を見た後で六本木WAVEに行き、なんだか普通のCDショップになってしまったな、と感じたりもした。

1995年3月10日に渋谷のタワーレコードが宇田川町から現在の店舗に移転し、売場面積も大幅に拡張した。書籍売場に洋書や洋雑誌が洋書店よりも安い価格で大量に売られていて、夢のようだと感激した記憶がある。この約半年後の9月7日に、渋谷ロフトのWAVEが1階から6階に移転する。1996年10月4日、新宿のタカシマヤタイムズスクエア12階にHMV渋谷SOUTHがオープンし、1998年7月1日には渋谷のHMVがONE-OH-NINEからより駅に近い場所に移転し、売場面積も大幅に拡大する。そして、1999年12月25日に六本木WAVEが閉店した。

1999年といえば宇多田ヒカル「First Love」が大ヒットした年であり、CDはまだ売れていた。六本木WAVEが閉店したのはCDが売れなくなったからではなく、それ以外の理由だったと思われる。2003年に六本木ヒルズが開業し、六本木WAVEがかつてあった場所には、メトロハット/ハリウッドプラザがある。