プリンス&ザ・レヴォリューション「パレード」
プリンスの8作目のスタジオアルバム「パレード」がリリースされたのは1986年3月31日で、全米アルバム・チャートでの最高位は3位であった。この前のアルバムにあたる「アラウンド・イン・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」の発売日が1985年4月22日なので、わずか340日しか間隔が空いていないということになる。そして、この次のアルバム「サイン・オブ・ザ・タイムス」が364日後の1987年3月30日に発売されるわけで、この頃のプリンスがいかに驚異的なペースでものすごいアルバムを出し続けていたかが分かるというものである。当時、これぐらいのクラスの人気アーティストならば、スタジオアルバムをリリースする間隔は2~3年おきぐらいというのが普通だったような気がする。
しかも、1984年の「パープル・レイン」がビッグセールスを記録し、商業的にも成功している上に実験性も高く、批評家などから高評価され続けているというひじょうに理想的な状態であった。ひじょうにユニークではもちろんあるのだが、わりとポップでキャッチーでもあった「パープル・レイン」の次のアルバムがサイケデリックで密室的でもある「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」というギャップもすごく、全米アルバム・チャートでは「パープル・レイン」に続いて1位になるし、批評家からも高評価かと思いきや、実は海外ではそうでもなかったようだ。日本の音楽雑誌を読んでいる限りでは大絶賛という感じだったのだが、実はそうでもなかったらしい。それで、「パレード」によって、また評価を持ち直したということになっているようだ。
「パレード」は「パープル・レイン」と同様に、プリンスが主演した映画のサウンドトラックでもあるのだが、「パープル・レイン」は映画もヒットしたのに対し、「パレード」がサウンドトラックになっていた映画「プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン」は大コケした、というのは周知の事実である。それでも、「パレード」の音楽作品としての評価は高かった。「プリンス/アンダー・チェリー・ムーン」は日本でも1986年10月4日に公開され、個人的にも確か渋谷まで見に行ったのだが、ほとんど印象に残っていない。
「パレード」からの先行シングルである「KISS」は1986年2月5日にリリースされ、4月19日付の全米シングル・チャートで、ファルコ「ロック・ミー・アマデウス」を抜いて、1位に輝いている。同じ週の2位はバングルス「マニック・マンデー」なのだが、この曲もプリンスが提供したものである。「KISS」がリリースされた頃、個人的には大学受験でそれどころではなく、全米シングル・チャートなどもあまりチェックできていなかったのだが、日本でおニャン子クラブから派生したユニット、うしろゆびさされ組「バナナの涙」や国生さゆり「バレンタイン・キッス」などがヒットしていることは把握していた。岡田有希子がテクノ歌謡的な化粧品のCMソング「くちびるNetwork」で、初めてオリコン週間シングルランキングで1位に輝いたこともである。
それで、大学受験には合格したので、予備校の仲間たちと長野県の野沢というところにスキーに行ったり、池袋に映画「コミック雑誌なんかいらない!」を見に行ったり、それ以外にも連日にわたり遊び歩いたりしていて、かなり気を抜いていたということはいえる。それで、とある土曜日にも真夜中に帰ってきて、ぼんやりした頭で「オールナイトフジ」を見ていたのだった。おそらくもうすでにエンディングだったのだが、音楽に合わせて素人女子大生集団ということになっているオールナイターズの人たちなどが、ゆるめに踊ったりしていた。その時にオンエアされていたのがプリンス&ザ・レヴォリューションの新曲「KISS」であり、贅肉を徹底的に削ぎ落としたシンプルなサウンドなのに、強靭なファンクネスはしっかり息づいていて、これはまたどえらいことをやっているな、というような感想を持った。
ローリング・ストーンズが「アンダーカヴァー」以来のアルバム「ダーティ・ワーク」をリリースするのだが、先行シングル「ハーレム・シャッフル」を聴くことができるサービスをやっていて、「ロッキング・オン」の広告に電話番号が載っていた。それで、何枚かの10円硬貨を握りしめて、外の公衆電話で聴いたりもした。大学進学のため、大橋荘から小田急相模原に引越すまでの少しの間に、旭川の実家に帰省もしていた。その時に、ミュージックショップ国原で「ダーティ・ワーク」は買った。日本盤には、ジャケットに赤い透明のセロファンのようなものが掛かっていた。そういえばまだ「夕やけニャンニャン」が終わっていないのではないかと思い、実家の部屋のテレビでUHBこと北海道文化放送をつけると、おニャン子クラブが「じゃあね」を歌って、この春で卒業する中島美春と河合その子を送り出していた。
小田急相模原に引越し、大学生活がはじまったのだが、オリエンテーションの日の帰りにオウム堂というレコード店に寄って、そういえば岡田有希子の「ヴィーナス誕生」をまだ買っていなかったと思い、買って帰った。ジャケットを新築ワンルームマンションの白い壁に立てかけて、アルバムを聴きはじめたのだが、すぐにまだ「夕やけニャンニャン」が終わっていないことに気づき、ステレオを止めてテレビをつけたのだった。スタジオから呼ばれ、ニュースのヘッドラインを伝える逸見政孝アナウンサーによると、壁に立てかけた「ヴィーナス誕生」のジャケットで微笑む岡田有希子は、もうこの世にはいないというのだ。
明るくて暗い春であり、世間のニュースどころではないような気もしていたのだが、ユッコシンドロームと呼ばれる現象は、現実的に起きていたという。小田急相模原から近くて買物に便利なのは町田だということに気づいたのだが、「パレード」の輸入盤レコードをマイアミ・サウンド・マシーンのそれなどと一緒に東急ハンズで買った記憶については、もはや確証が持てない。「KISS」で提示された方法論が、ポップアートのように展開されていて、これだけ実験的なことをやっていながら、ちゃんと売れているのだから、やはりものすごいアーティストだなということを改めて実感させられた。