ジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンズブール「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」【Classic Songs】

1969年10月4日付の全英シングル・チャートではC.C.R.ことクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル「プラウド・メアリー」が3週目の1位を記録し、2位にはバート・バカラックとハル・デヴィッドの名曲「恋よ、さようなら」をボビー・ジェントリーが歌ったバージョンが2位に着けていた。そして、この週にチャートで3位に初登場し、翌週には1位に輝いたのがジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンズブール「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」である。しかし、よく見るとタイトルの横にカッコで「オフィシャル・リリース」などと表記されていて、さらにチャートを下の方まで見ていくと、16位に「オフィシャル・リリース」とは表記されていないまったく同じ曲がランクインしている。しかも、先週は2位だったようである。つまり、イギリスではフォンタナ・レコーズからリリースされたのだが、全英シングル・チャートで2位まで上がっていた頃に引き上げられ、メジャー・マイナー・レコーズから出し直されて、そちらがオフィシャル・リリースということなのだろうか。

いすれにしてもあまりにもエロティックすぎていろいろな国々のラジオで放送禁止になったり、深夜になるまでかけてはいけないという措置が取られたこの曲は、イギリスにおいて放送禁止にもかかわらず初めて1位になったシングルとして知られる。ちなみに、次に全英シングル・チャートで1位に輝いた放送禁止の曲は1980年代のフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド「リラックス」である。もう1つ、この「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」は、全英シングル・チャートで初めて1位になった外国語の曲でもある。ハモンドオルガンが印象的なサウンドにのせて、男女が愛を囁きあったり時には歌ったりということが延々と行われている楽曲である。90年代の初めには六本木WAVEの4階にあったアール・ヴィヴァンというセレクトショップで、よくかかりがちだったような記憶がある。アート系の書籍や厳選されたと思われるレコードなどを扱っていて、モリッシーや渋谷陽一も訪れたすごい店である。最もよく見かけた有名人は、灰野敬二であった。

それはまあ良いのだが、セルジュ・ゲンズブールといえば80年代から90年代にかけて、日本でも文化人というか流行最先端人間的な人たちがよく持ち上げがちだった印象があるのだが、80年代に出演していたレノマの広告のイメージがひじょうに強かったのだという。後に「渋谷系」の人たちによっても再評価されるのだが、カヒミ・カリィは20代前半ぐらいにカメラマンをやっていて、この時にセルジュ・ゲンズブールも撮影していたようだ。フランス・ギャルのベストアルバムなども当時の日本のCDショップではやたらと売れたりしていたものだが、代表曲の「夢見るシャンソン」の作者もセルジュ・ゲンズブールであった。その他のヒット曲の1つとして「アニーとボンボン」があり、当時まだ10代であったフランス・ギャルは歌詞の内容の通りにキャンディーをなめるなどのプロモーションを真面目にやっていたのだが、後にその歌詞というのが実はオーラルセックスを暗に意味していたことを知り、深く傷ついて引きこもることになった。

ジェーン・バーキンとの間に生まれた娘、シャルロットが13歳であった1984年にはデュエット曲「レモン・インセスト」をリリースするのだが、それは2人の禁断の関係を思わせるようなものでもあった。このように常に性愛的で官能的な曲ばかりを歌っていたような印象も持たれがちなセルジュ・ゲンズブールだが、1958年のデビュー曲「リラの門の切符売り」は、地下鉄改札係の日常を歌ったものであった。しかし、この曲ですら歌詞で繰り返される「穴(trous)」という単語は性的な隠喩なのではないかといわれたりしていた。

さて、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」なのだが、セルジュ・ゲンズブールは1967年に既婚であった女優、ブリジット・バルドーと愛人関係にあり、世界で最高のラヴソングを書いてほしいとせがまれる。それがこの曲であり、ジェーン・バーキンとのバージョンでも聴かれる情事を思わせる官能的なデュエット曲となった。しかし、これを知ったブリジット・バルドーの夫、ギュンター・ザックスが大激怒して、この曲は発売されないことになった。楽曲そのものにひじょうに自信があったセルジュ・ゲンズブールはこれによって落ち込み、ブリジット・バルドーとも別れることになった。

その翌年、今度は映画「スローガン」で共演したジェーン・バーキンと付き合うことになり、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は新たなデュエットでレコーディングされることになる。このタイトルの意味は「ジュ・テーム」、つまり「愛してる」に対して「モワ・ノン・プリュ」、すなわち「私はそうではない」と答えているということである。これはサルバドール・ダリが言ったとされる「ピカソはスペイン人であり、私もそうだ。ピカソは天才で、私もそうだ。ピカソはコミュニストだが私はそうではない」というコメントにインスパイアされているようだ。この曲は日本でも放送禁止になっていたようなので、レコードを買わなければ聴くことができなかったと思われるのだがどうなのだろうか。

未発表のままになっていたブリジット・バルドーとのバージョンは、1986年に売り上げを動物保護団体に寄付するという条件で、やっとリリースされることになった。

「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は1976年にセルジュ・ゲンズブールが監督、ジェーン・バーキンが主演で映画化もされ、日本では1983年になって「ジュ・テーム…」の邦題で公開された。「渋谷系」がメインストリームに最も近づいていた年でもある1995年にはリバイバル上映され、この時にはタイトルが「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」になっていた。2021年にはセルジュ・ゲンズブール没後30周年を記念して、4K完全無修正版が公開されるなど、その人気はひじょうに根強い。