De La Soul ‘3 Feet High and Rising’ review

先日、通勤電車中のiPhoneで全米や全英の最新チャートとをチェックしていたところ、全米アルバム・チャートの15位、全英アルバム・チャートの12位にデ・ラ・ソウルのデビュー・アルバム「3フィート・ハイ・アンド・ライジング」がランクインしていた。1989年3月3日、平成元年になってからまだあまり経っていない頃にリリースされたアルバムである。道重さゆみすらまだ生まれていないのだ。

このアルバムはヒップホップ史に残る名盤であるのみならず、ポップ・ミュージックの最新型としてもアートフォームとして素晴らしすぎると、当時ジャンルを超えた音楽リスナーから大絶賛されがちであった。しかし、サンプリングをあまりに多用していたため、それらの著作権上の問題などがいろいろあって、デジタル配信がずっとされていなかったようだ。その問題がやっとこさ解決して、発売からちょうど34年が経った2023年3月3日にデ・ラ・ソウルのその他のアルバムと共に配信が解禁されたようだ。

それで全米や全英のアルバム・チャートにもランクインしたわけだが、その順位はいずれも当時の最高位を更新している。これはとても良いことである。このアルバムはもちろん聴きたい時にいつでも聴きたいので、いつかCDからリッピングした音源がiTunesを通してiPhoneに入っているのだが、ついにApple Musicでも聴けるのかと思い、検索してみたところ本当にあった。まあ当たり前なのだが。

ヒップホップはニューヨークで盛り上がっているストリート・カルチャーとして、1980年代前半には日本でも雑誌「宝島」などで紹介されていたような気がする。ラップ、ブレイクダンス、グラフィティ・アートなどがセットだったと思う。それから、映画「ワイルド・スタイル」なども話題になった。ブロンディの全米NO.1ヒット「ラプチュアー」がラップを取り入れていたり、人気絶頂の佐野元春が1983年に単身でニューヨークに渡り、翌年にヒップホップから影響を受けまくったアルバム「 VISITORS」をリリースしたりもした。渋谷陽一が「サウンドストリート」でアフリカ・バンバータのレコードを紹介していた。

1986年にRUN D.M.C.がエアロスミスのメンバーとコラボレートした「ウォーク・ディス・ウェイ」をヒットして、いよいよヒップホップがメインストリームに進出していく。日本では近田春夫がPRESIDENT BPMというアーティスト名でヒップホップのレコードを出しはじめていた。「POPEYE」などのファッション雑誌でもジャージやスニーカーなどのヒップホップ的なファッションが取り上げられたりもする。ビースティ・ボーイズのデビュー・アルバム「ライセンス・トゥ・イル」がラップのレコードとしては初めて全米アルバム・チャートの1位に輝き、結局はヒップホップも白人アーティストがおいしいところを持っていくのか、という気分にもなる。

1987年にザ・スミスが解散するのだが、これで個人的にはいよいよインディー・ロックに興味がなくなり、ヒップホップとかハウス・ミュージックの方がカッコいいし、こっちの方があの頃のパンクやニュー・ウェイヴに感覚としては近いのではないか、というような気分にもなっていった。そして、パブリック・エナミーである。メッセージ性が強く音楽的にもブレイクビーツとサンプリングを駆使しまくった最も過激でカッコいい音楽をやっていて、もうこれしかないだろうというような気分になっていった。

その後、N.W.A.がアメリカ西海岸では登場して人気を高めていくのだが、当時の日本の音楽雑誌などでは東海岸のヒップホップに比べてあまり正当に扱われていなかったような印象があり、なんだかやたらと過激だという評判の方が先行していたような気がする。ラップは確かに最新型のポップ・ミュージックとしてひじょうにエキサイティングだったのだが、ギャングスタ的なライフスタイルをリアルに描写した的な世界観には、バブル景気下の鬱屈はしていたものの根本的に呑気な東京の大学生としてはのめり込みにくいところもあった。

一方、周囲の音楽リスナーたちにヒップホップにレコードの素晴らしさを説くのだが、メロディーが無いのでつまらない、というような切ない反応が返ってきたり、歌詞の意味が分からないとおそらく楽しめないのではないかと思えるので、たぶん日本では流行らないだろうと言われたりもした。

それでデ・ラ・ソウルなのだが、初めて知ったのは何らかの日本の音楽雑誌の輸入盤レヴューだった。ジャケット写真はモノクロで紹介されていたのだが、当時のヒップホップのステレオタイプであったコワモテっぽさが感じられる、わりと素朴な高校生ぐらいに見えた。文面でもそのような紹介がされていたような気がする。そのうち年間ベスト・アルバムにも選ばれていたりして、それからやっとこさCDを買った。

どこのCDショップで買ったのかはよく覚えていないのだが、当時の行動パターンからして、おそらく渋谷ロフト1階のWAVEか宇田川町にあった頃のタワーレコード渋谷店だったのではないかと推測される。帰って調布市柴崎にあったコーポオンタの一室のシステムコンポで初めて聴いたのだが、これがかなり良くてすぐに気に入ってしまった。

ヒップホップのアルバムのわりにはそれほどテンションが高くはなく、適度にマイルドでピースフルである。ヒップホップのサンプリングネタといえば、ジェームス・ブラウンなどのファンクやソウル・ミュージックの印象が強かったのだが、このアルバムではダリル・ホール&ジョン・オーツやスティーリー・ダンもサンプリングしていて、そこにもひじょうに親しみが持てた。

ジャケットは黄色く花びらのイラストなども描かれていて、ヒッピー的な印象もあった。全米シングル・チャートで最高34位を記録した「ミー、マイセルフ・アンド・アイ」のミュージック・ビデオは深夜のテレビ番組で見ることができ、デ・ラ・ソウルのメンバーは学校のクラスでイケていない方のタイプの学生を演じているようであった。ステレオタイプなスタイルを戯画的に描き、流行に流されず自分らしくあることをテーマにしているように感じられた。実はメンバーがこの曲を気に入っていないと知ることになるのは、まだずっと後であった。

ハードコアでマッチョ的でもあるギャングスタ・ラップに対し、デ・ラ・ソウルやア・トライブ・コールド・クエスト、ジャングル・ブラザーズやクイーン・ラティファなどネイティブ・タンと呼ばれる一派はよりコンシャスでポジティヴであり、文化系的でもあったように思える。この辺りが日本の音楽リスナーにも入り込みやすく、フリッパーズ・ギター「恋とマシンガン」や、たま「さよなら人類」などと同じく1990年5月5日にミニ・アルバム「スチャダラ大作戦」でデビューしたスチャダラパーなども、こっちの方に影響を受けていたような気がする。

日本ではパンクやニュー・ウェイヴを聴いていたようなタイプの人たちが初めにヒップホップを評価し、ソウル・ミュージックやR&Bのリスナーからははじめのうちは軽視されていたような気もするのだが、完全に気のせいかもしれないし、大貫憲章と中村とうようの例に引っ張られすぎかもしれない。

それはそうとして、「3フィート・ハイ・アンド・ライジング」はアイデアとユーモアにも溢れた本当に良いアルバムなので、より多くのリスナーが聴きやすくなったのはとても良いことである。メンバーのトゥルーゴイ・ザ・ダヴが配信解禁を目前にして亡くなったことについては実に残念であり、冥福をお祈りしたい。

De La Soul – Me Myself and I
De La Soul – Say No Go
De La Soul – Eye Know
De La Soul – The Magic Number
De La Soul – Buddy