シンディ・ローパー「シーズ・ソー・アンユージュアル」【Classic Albums】

シンディ・ローパーのデビューアルバム「シーズ・ソー・アンユージュアル」は1983年10月14日にリリースされ、翌年に全米アルバム・チャートで最高4位のヒットを記録した。当時は「N.Y.ダンステリア」という邦題で日本では発売されていたのだが、後にシンディ・ローパー本人から内容と合っていないというような指摘があり、「シーズ・ソー・アンユージュアル」に改題されている。このアルバムから最初のシングルとしてリリースされ、全米シングル・チャートで最高2位を記録した「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」も当初は「ハイ・スクールはダンステリア」という邦題であり、実際にこのタイトルで覚えている当時のリスナーも少なくはないのではないかと思われるのだが、やはり同じ理由によって改題している。ちなみにこれらの邦題はアルバムのジャケットアートワークのイメージから、当時の日本盤レコード会社の担当が付けたものらしい。ダンステリアというナイトクラブが当時、実際にニューヨークにあって、ひじょうにトレンディなスポットとして知られていたのだが、マドンナが主演した1985年の映画「マドンナのスーザンを探して」のディスコのシーンはここで撮影されていた。

それはそうとして、1984年といえば日本のいたいけな音楽リスナーにとっては、中森明菜「北ウィング」やヴァン・ヘイレン「ジャンプ」ではじまった印象が強いのだが、それからザ・スタイル・カウンシル「カフェ・ブリュ」、シャーデー「ダイヤモンド・ライフ」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」、プリンス「パープル・レイン」、サザンオールスターズ「人気者で行こう」、佐野元春「VISITORS」などの年でもあった。年末あたりには、マドンナが「ライク・ア・ヴァージン」でいよいよ本格的にブレイクを果たす。しかし、一年中ずっとヒットし続けていたアーティストといえば、実はシンディ・ローパーだったのではないかというような気もする。

1984年1月7日の全米シングル・チャートで1位だったのはポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン「SAY SAY SAY」だが、シンディ・ローパーのデビューシングル「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」は登場5週目で56位にランクインしていた。1月28日付で31位まで上がりトップ40入り、2月18日付ではついにトップ10入りを果たした。3月10日付で最高位の2位を記録するのだが、ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」を抜くことはできなかった。ちなみにこの週の3位はドイツのロックバンド、ネーナの「ロックバルーンは99」であった。この頃、旭川市内のとある公立高校の体育準備室では、「やっぱりネーナでも聴くしかネーナ」「U2聴いてユーウツになるよりいいべや」などというどうしようもない会話が交わされていたことは記録しておきたい。

マイケル・ジャクソン「スリラー」から「ビリー・ジーン」「今夜もビート・イット」が大ヒットしたり、カルチャー・クラブやデュラン・デュランをはじめとする第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン勢が全米シングル・チャートで猛威をふるいはじめたのはこの前の年であり、いまや映像ははっきりとヒットチャートに影響をおよぼしていた。シンディ・ローパーにとってデビュー曲にして初のヒット曲となった「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」も、やはりビデオにインパクトがあった。女の子はただ楽しみたいの、というタイトルにピッタリな元気いっぱいでカラフルな感じがとても良かった。女性アーティストいえばまだまだ可愛い子ちゃんかセクシー路線かというようなセクシズムがまかり通りがちな時代だったのだが、シンディ・ローパーのこの曲は明確に個性を主張していて、そこに新しさを感じたりもしていた。そして、あのイントロの最初の音色が最高で、新しい何かがはじまる気がした。

いまやフェミニズムアンセムとしても知られるこの曲だが、実はロバート・ハザードという男性アーティストが1979年にレコーディングしていた曲のカバーであり、歌詞も当初は男性の立場から書かれていたのを、シンディ・ローパーが書き換えたのだった。当時、「N.Y.ダンステリア」というタイトルでリリースされていた「シーズ・ソー・アンユージュアル」日本盤の帯には、「原宿とN.Y.がドッキング!?アンユージュアル感覚一〇〇%!?オンナのコの本音をレインボー・ボイスにのせて、シンディ・ローパー、ダンシング・デビュー!!」というコピーが躍っていた。「アンユージュアル」には「目立ちたがり」、「オンナのコ」には「みんな」とルビが振られている。このセンスは個人的にけして嫌いではない。というか、むしろ大好きの方により近いことを認めるにやぶさかではない。

ところが次のシングルがなんと、バラードの「タイム・アフター・タイム」である。「N.Y.ダンステリア」においては、「過ぎ去りし想い」という邦題が付いていた。この曲はアルバムのレコーディングの最後の方に完成したといわれている。アルバムのほとんどが出来上がっていたにもかかわらず、何かが足りないとも感じていたプロデューサーのリック・チャートフは、学生時代からの仲間でもあるフーターズのロブ・ハイマンとシンディ・ローパーに新たなもう1曲を要求し、それに応えるかたちで完成したのがこの曲だったという。当時、ロブ・ハイマンもシンディ・ローパーもそれぞれに恋愛についての問題をかかえていて、それが楽曲にも反映したという。タイトルについてはシンディ・ローパーがテレビ雑誌で見た1979年のSF映画「タイム・アフター・タイム」のタイトルから一時的に付けたものだが、あまりにもしっくりきすぎてそのまま採用されたようだ。

レーベルはシンディ・ローパーのデビュー曲として、この「タイム・アフター・タイム」を推していたようだが、これによってバラード歌手のイメージが付くことを嫌ったシンディ・ローパーの意見を採用して、「ガールズ・ジャスト・ワナ・ファン」の方が先にリリースされた。結果論にはなってしまうのだが、この選択は正解だったといえそうである。「ガールズ・ジャスト・ワナ・ファン」の元気いっぱいなイメージとのギャップと曲そのもののクオリティーの高さで「タイム・アフター・タイム」は大いに支持されて、全米シングル・チャートで初の1位に輝いた。

その次にシングルカットされた「シー・バップ」も「N.Y.ダンステリア」では「闇夜でShe Bop」という邦題が付いていたのだが、これもまた全米シングル・チャートで最高3位のヒットを記録する。シンセポップやニュー・ウェイヴ的なサウンドにシンディ・ローパーの個性的なボーカルもとても良いのだが、この曲のテーマは自慰行為でもあり、女性アーティストがこのような内容を明るく堂々と歌ってしまい、しかも大ヒットさせてしまうというのも当時としてはひじょうに新しかった。

この後、ジュールズ・シアーのカバーである「魅惑のスルー・ザ・ナイト」をシングルカットして、全米シングル・チャートで最高5位を記録する。さらにはアルバムの1曲目に収録されたロック調の「マネー・チェンジズ・エブリシング」が5作目のシングルとしてカットされ、全米シングル・チャートでの最高位は27位であった。

1つのアルバムからこれだけのヒット曲が生まれただけでもすごいことなのだが、他の収録曲もバラエティーにとんでいながら個性的でとても良い。プリンスのアルバム「ダーティ・マインド」に収録されていた「ホエン・ユー・ワー・マイン」、他にもシンセサイザーの導入具合がプリンス「1999」あたりに通じるところもあり、なかなか味わい深い。

翌年にはUSAフォー・アフリカのチャリティーシングル「ウィ・アー・ザ・ワールド」に参加し、並みいるビッグスターたちの中でブルース・スプリングスティーンに匹敵するインパクトをの残したりもした。

シンセポップ、ニュー・ウェイヴ、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン、プリンスといった、当時のトレンドがバランスよく配合されていながら、シンディ・ローパーの個性はじゅうぶんに生かされ、エバーグリーンなポップスとしての強度もかなりのものという、なかなか素晴らしいアルバムである。実は当時あまりちゃんと聴いていなかったリスナーにも、かなり楽しめる可能性は高いような気はする。