コーネリアス「夢中夢」【Album Review】

コーネリアスの6年ぶり通算7作目のオリジナルアルバム「夢中夢」がリリースされた。先行して公開されていたトラックの感じからシンガー・ソングライター的なアルバムになっているのではないか、というような推測もされがちではあったのだが、音楽的にはまたしてもポップ・ミュージックの最新型を更新するような素晴らしい作品であるのと同時に、現在社会における存在価値をも強く感じられるように思える。個人的にかつてフリッパーズ・ギターのライトでカジュアルなファンであり、解散後、小山田圭吾がコーネリアス名義で発表した作品もフォローはしてきたが、このような感想を持つのは、もしかすると初めてである。

アルバムの1曲目に収録された「変わる消える」は、2022年7月22日の時点ですでにリリースされていた。この曲の作詞は2017年のアルバム「Mellow Waves」からの先行トラック「あなたがいるなら」などと同じ、坂本慎太郎である。この曲以外は収録された全曲を小山田圭吾が作詞・作曲、楽器もすべて演奏しているようだ。

「あなたがいるなら」についていうと、リリース当時、もはやエレクトロニック・ミュージックのアーティストのような感じにもなっていたコーネリアスの久々の歌モノという時点でかなりインパクトがあり、しかも内容が素晴らしかった。「あなたがいるなら この世はまだましだな」と歌われるこの曲はひじょうに純度が高いラヴソングとして認識することができるが、その前提条件として「この世」はろくでもないところだという共通認識がある。

「変わる消える」はサウンドが刺激的であるのに加え、どんなに好きで愛おしく感じているものであっても、いずれはすべて消えて無くなってしまうという真実が、小山田圭吾のメロウなボーカルによって歌われているところがとても良い。また、歌詞の一部はやはりどうしても一昨年の夏、フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」が発売30周年を迎えたそのすぐ後に起こった、過去のインタヴュー記事をきっかけとした騒動を思い起こさせてしまう。

そして、この曲がリリースされた後に小山田圭吾が敬愛するアーティストやクリエイターの何名かが亡くなったのだが、そうすると「好きな人いるなら会いに行かなきゃ 今すぐ はやく」というようなフレーズにもより深い意味合いが感じられてきたりもする。急激に変化していく都市や街の風景とノスタルジー、その他、様々な意味での「もうどこにもない さみしい」という感覚が素直に歌われているように感じられる。

アルバムの2曲目に収録された「火花」もまた、アルバムに先行して公開されていたトラックだが、シンセポップ的なサウンドがベースにはなっているものの、特に印象的なのはザ・スミスなどイギリスのインディー・ロックを思い起こさせもするギターであろう。個人的にとても好きなジャンルの音楽ということもあるが、いまこのタイミングで小山田圭吾がまたこういったタイプの楽曲を新曲としてやっているという事実が実に味わい深い。

次の「Too Pure」からはアルバムで初めて公開された楽曲が続くが、まずこの曲はギターを主体としたインストゥルメンタル曲である。小山田圭吾の名前を世に知らしめた小沢健二さとのバンド、フリッパーズ・ギターが特に影響を受けたといわれていた、ネオ・アコースティック的な感じもあったりはするのだが、よりミニマルであったり小鳥の囀りのような効果音が使われていたりもする。かと思うとまた別のなんとなくサイケデリックな感じのギターも聴こえてきて、盛り上がりのピークを迎える少し前に消えてしまったりと、かなりおもしろい。

「時間の外で」はアブストラクトでアンビエントなサウンドが特徴で、現在・過去・未来や夢と現実との境界があやふやになっていくような、まどろんだ感覚を味わうことができる。「狂った世界」というフレーズも歌詞には出てくるが、現実逃避的でもあるのかもしれない。そして、こういった表現を切実に必要とし、これらが癒しや救いになるであろう人たちというのも少なくはないように思える。

個人的に深い失望を味わうような機会が先頃にあり、セルフセラピー的にはじめた行為というのが、過去と現在との境界があやふやであるような文章を書くことであった。

3分40秒あたりからの「過去も未来もない」というところに宿る解放感のようなものが、たまらなく良い。

「環境と心理」は小山田圭吾が高橋幸宏、砂原良徳、TOWA TEIといったアーティスト達と共にメンバーとして活動をしていたバンド、META FIVEの楽曲のカバーであり、オリジナルでも小山田圭吾がリードボーカルを取っていた。

アルバム収録曲の中でも最もメロディーがはっきりしていて、キャッチーでもあるこの曲には、テクノポップ的な実験性が感じられるが、シティ・ポップ的だともいうことができ、さらにはオフコース「Yes-No」あたりを思い起こさせるところもあったりする。

「Night Heron」は架空の映画サウンドトラック的で、ファンキーなインストゥルメンタル曲である。このアルバムは楽曲それぞれのクオリティーも高いのだが、バラエティーにとんでいて曲順にも工夫が感じられる。電車の窓から外を眺めながら、イヤフォンでこの曲を聴いていると、まるで1980年代に初めてヘッドフォンステレオを装着して街を歩いた時のような、見慣れた風景が映画的な色合いを帯びていく感覚を味わうことができた。

「蜃気楼」にはシンセポップやニュー・ウェイヴ的なテイストが感じられるのだが、リズムがいろいろ変化していったり、一筋縄ではいかないところがとても良い。「現実 軌道修正 綺麗な結末が来ればいいのに」という、おそらくは切実な想いがあくまで平熱気味に歌われ、「鏡花水月」という趣のある言葉が用いられているところなども味わい深い。

「Drifts」は音楽的には実にアンビエントであり、小山田圭吾のボーカルは「気配」「匂い」「空気」「香り」といった、抽象的な単語を1つ1つ丁寧に歌っていく。加速した日常で忘れられそうになるが、大切にされるべきものについて歌われているようにも思える。

「霧中夢」はアルバムに収録された3曲目のインストゥルメンタル曲で、環境音楽的な楽曲である。そして、アルバムの最後には先行トラックとして公開もされていた「無常の世界」が収録されている。この曲においても、「Drifts」ほどではないにしても、歌詞は抽象化され、「誕生」「消滅」「繁栄」「衰退」などについて歌われ、「諸行無常」で締められる。滑らかなギターのサウンドがとても心地よい。

処方箋も特効薬もないまま、疲弊していくだけのようにも思える世界において、ポップ・ミュージックが果たす役割というのも様々だとは思うのだが、悲しみやさみしさといった感覚を共有し、寄り添うようような作品として、少なくとも個人的には機能しているように思える。

小山田圭吾はコーネリアスやフリッパーズ・ギターなどでの活躍において、ポップ・ミュージック史に残る素晴らしい作品を数多く発表していて、そういった意味ではより優れたアルバムは他にもあるように思えるのだが、様々なタイミングなどもあったとはいえ、個人的にはフリッパーズ・ギター時代の「カメラ・トーク」以来、最も切実な作品にこのアルバムを感じているような気もする。