フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」発売30周年について。
フリッパーズ・ギターの2作目のアルバム「カメラ・トーク」は1990年6月6日にリリースされたので、ちょうど発売30周年になる。発売日かその前日に、大学の授業の帰りに渋谷ロフトにあったWAVEで買い、京王線柴崎駅から徒歩6分ぐらいのところにあったワンルームマンションのステレオではじめて聴いたのだが、その時からすでに大好きだった。しかし、それから30年経ってもまだ、変わらぬ熱量で好きでいられるアルバムになるとは、当時はおそらく思っていなかった。というか、30年後が訪れることなど、それほど真剣に信じていなかったかもしれない。
いまでも時々、このアルバムを聴くのだが、懐かしいとはまったく思わない。この30年間、一時的に聴かなくなった時期もあったのだが、比較的、コンスタントには聴いている。ポップ・ミュージック史における1966年と1967年は、私にとっては1989年と1990年で、「リボルバー」と「ペット・サウンズ」は、岡村靖幸「靖幸」とフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」なのではないかと思っている。世間一般的にはそれぞれ「家庭教師」「ヘッド博士の世界塔」の方が名盤だとされているし、その理由も分かるのだが、逆張りでもなんでもなくて、個人的には「靖幸」と「カメラ・トーク」の方が重要である。日本のポップ・ミュージック史的にではなく、あくまで自分という人間の成長過程において、という意味なのだが。
一言でいうと、それは「青春」ということではないのかと思う。「靖幸」の1曲目、「Vegetable」には「青春しなくちゃまずいだろう」というフレーズがあるし、「カメラ・トーク」には「青春はいちどだけ」という曲が収録されている。
30年も前の感覚を思い出すことは、とても難しい。それでも、リリース当時、これをはじめて聴いて、どんな風に感じただろうかということをできるだけ思い出すようにしながら、「カメラ・トーク」をまた聴いてみた。それについて、これから記録していきたい。
「恋とマシンガン」はテレビドラマ「予備校ブギ」の主題歌で、オリコン週間シングルランキングでも最高17位と、そこそこヒットした。17位から20位までの間に1ヶ月以上ランクインしていたため、この最高位が示す以上の体感ではヒットしていたと思われる。この前の年から「三宅裕司のいかすバンド天国」というテレビ番組が土曜日の深夜にはじまり、いわゆるアマチュアバンド合戦的な趣旨の番組なのだが、これが大ヒットして、バンドブームが一気に大衆化する。原宿の歩行者天国では日曜日に多くのアマチュアバンドが演奏をしていて、女子中高生などに人気があった。パンク・ロック的なサウンドに分かりやすい歌詞をのせた音楽がビートパンクと呼ばれて流行していたが、すでに20歳を超えていた私には、単純すぎるように思えていた。
青山学院大学の学生食堂にいると、厚木キャンパスでオーラルイングリッシュなどで一緒だった英国音楽愛好会の男子がいて、最近、聴いている音楽などについて、サービスランチかスパゲティーメイト辺りを食べながら話していた。その時に、彼からフリッパーズ・ギターの名前が出た。インディー・ポップのような音楽を英語の歌詞でやっているバンドで、とてもセンスが良さそうだとは思ったが、それ以上の興味は持てなかった。しかし、やはり英語の歌詞で歌われた「Friends Again」のCDシングルを、翌年に私は買っていたのだった。
「恋とマシンガン」はフリッパーズ・ギターが日本語の歌詞でリリースした最初のシングルで、これを私は興味本位で買った。そして、衝撃を受けた。当時、流行していたビート・パンク的な音楽とは異なり、ひじょうに複雑な音楽性であり、歌詞も日本語なのだがステレオタイプではない、まったく新しく、意味があるのか無いのかよく分からないのだがなんとなく伝わり、それを良いと思うようなもので、これはかなりすごいのではないかと思った。
日本のロックには基本的に男らしさのようなものが付きまとうものだったのだが、フリッパーズ・ギターの日本語のポップスはまったくそんなことがなく、それがある意味、洋楽のインディー・ポップっぽいなと思った。
「恋のマシンガン」でいえば、「ダーバダダーバダ」というようなスキャットのようなものではじまるのだが、当時、日本のメインストリームのポップスでこんなものは無かったので、これはなんだかカッコいいぞと思った。後に映画「黄金の七人」のサウンドトラックからの引用だなどといわれるようになるのだが、当時はそんなものはまったく知らなくて、どこからこんなアイデアが出てくるのだと、軽く衝撃であった。
「ミニコミ『英国音楽』とあのころの話 1986-1991」という素晴らしい本があり、それを読むとフリッパーズ・ギターの出現がけして突然変異的だったわけではなく、そこに至る草の根的なシーンというものが実はちゃんと存在していたのだということが分かる。しかも、著者の小出亜佐子さんは、青山学院大学で私の何年か先輩であった。それほど近くにありながら、私にはまったく無縁な世界だったわけである。
とにかく、「ダーバダダーバダ」というような音楽といえば、ネスカフェゴールドブレンドのCMぐらいでしか知らなかったので、これはえらいことだぞ、と思ったのだった。そして、「本当のこと隠したくて 嘘をついた出まかせ並べた やけくその引用句なんて!」である。
佐野元春の「ガラスのジェネレーション」は「本当のことを知りたいだけ」であり、「ダウンタウン・ボーイ」では「本当のものより きれいなウソに 夢をみつけてるあの娘」が登場し、「スターダスト・キッズ」では「本当の真実がつかめるまで Carry On」であった。また、尾崎豊の表現においては、「真実」というキーワードが重要とされていた。
オリジナルなものはすべて出尽くしたなどともいわれていた時代、過去のレコードからのサンプリングを用いたヒップホップが新しいアートフォームだといわれていた。サンプリングの手法はポップ・ミュージック全般にも影響を及ぼすが、そこには「やけくその引用句」というような気分もあったのかもしれない。プライマル・スクリームの「スクリーマデリカ」は発売当時、日本のパンク/ニュー・ウェイヴに造詣が深い音楽評論家から酷評されてもいた。
2013年、大森靖子は「君と映画」において、「オリジナルなんてどこにもないでしょ それでも君がたまんない」と歌った。それに、私はオリジナリティーを感じた。
「恋とマシンガン」はすでにシングルで聴いて、知っていた。先行シングルをアルバムの最初に持ってくるパターン、そして、2曲目がアルバムjの印象としてはとても重要になる。これに心をつかまれたと言っても、過言ではない。そう、打ち込みである。「三宅裕司のいかすバンド天国」、つまりイカ天、あるいは原宿の歩行者天国、つまりホコ天でビート・パンクがブーム、それでそのような音楽性のバンド、あるいはそれに対するアンチテーゼとして、「恋とマシンガン」と同じ日にアルバム「スチャダラ大作戦」でデビューしたスチャダラパーのヒップホップなどがあった。いわゆるギター・ロックをベースとした音楽で打ち込みというのはとても珍しい印象があったし、しかも、イギリスで台頭していたクラブ・カルチャーの影響を受けた新世代のバンドたちともまた違い、ダンス・ミュージックの要素を取り入れたというようなものではなく、あくまでチープな打ち込みという感じであった。これがとても良かった。
「カメラ!カメラ!カメラ!」のことで、後にギター・ポップ・ヴァージョンというのがリリースされ、当時、これも買ったのだが、現在は再発されたCDやストリーミングサービスで聴けるアルバムにも追加されている。これはこれでとても良いのだが、「カメラ・トーク」の2曲目に収録されていたのは、この打ち込みのヴァージョンで良かったと思う。これによって、アルバムの音楽性がヴァラエティーにとんでいることを予感させたし、その後に続く音楽がまさにそれに相応しいものだったからである。
直接ではなく、カメラ越しに見つめる、この感覚が「恋とマシンガン」の「本当のこと隠したくて 嘘をついた出まかせ並べた」と同様に、シャイなハートに響きまくった。このモチーフはイギリスのインディー・ポップ・バンド、ウドゥ・ビー・グッズの「カメラ・ラヴズ・ミー」にも通じるものだと、後におしゃれな女の子からもらったカセットテープで知るのだが、当時はそんな趣味の良い音楽のことはまだ知らない。どちらかというと、1980年にヒットして、当時、熊本の大学生だった宮崎美子を一躍、スターにしたミノルタカメラのテレビCMや、くちびるをツンと尖らせる女の子が歌詞に登場するところが共通している、翌年の大滝詠一「君は天然色」を思い出したりもしていた。
「想い出はモノクローム 色を点けてくれ」と、失われてしまった青春を蘇らせようとする「君は天然色」に対し、「カメラ!カメラ!カメラ!」は「このままでいたいと僕は思うから」と、青春を終わらせまいと抵抗を試みるのであった。そして、「くやしいけど 忘れやしないだろう!」と歌われているように、それはどうやら失敗に終わった。
「本当のこと何も言わないで別れた」と、この曲にも「本当のこと」というワードが登場している。そして、これはラスト・アルバムとなった翌年の「ヘッド博士の世界塔」まで続き、「DOLPHIN SONG」において、「ほんとのことが知りたくて 嘘っぱちの中旅に出」たが、「ほんとのこと知りたいだけなのに 夏休みはもう終わり」と歌われる。
「カメラ・トーク」の3曲目には、「クールなスパイでぶっとばせ」が収録されている。スパイ映画のサウンドトラックを思わせるインストゥルメンタル曲だが、ミケランジェロ・アントニオーニ監督による1967年の映画「欲望」のサウンドトラックからの影響が指摘されたりもした。カメラマンを主人公にしたサスペンス映画で、やはりカメラのイメージがひじょうに強い。この映画は六本木WAVEに併設されたシネ・ヴィヴァン六本木でリバイバル上映もされたが、ここでは小山田圭吾と交流があり、後に「デス渋谷系」などとも呼ばれる暴力温泉芸者の中原昌也がアルバイトをしていたりもした。
当時、「渋谷系」という言葉はおそらくまだ発明されていなく、後に「渋谷系」と呼ばれるジャンルのアーティストたちの多くを、六本木WAVEで見かけることがよくあった。「渋谷系」を広めたのはセンター街のONE-OH-NINEにあった頃のHMV渋谷だといわれているが、ここがオープンしたのは「カメラ・トーク」がリリースされてから約5ヶ月後の1990年11月16日である。「カメラ・トーク」がリリースされた頃の渋谷といえば、アメリカンカジュアルをベースとした「渋カジ」ファッションや、不良中高生、チーマーのメッカというイメージであった。この年に公開された「渋カジ」映画、「オクトパスアーミー シブヤで会いたい」には、フリッパーズ・ギターの音楽が使われていた。
「ラテンでレッツ・ラブまたは1990サマー・ビューティー計画」は、ボサノバ調のポップスである。ここまで、まったく異なったタイプの曲ばかりが続く。「カメラ・トーク」のCDを買った時に、オレンジ色のキーホルダーのようなものを特典でもらったのだが、それには「Double K.O. Corp.」と印刷されていた。これはフリッパーズ・ギターの2人、つまり、小山田圭吾、小沢健二のソングライターチームとしての名称らしく、2人共、名前のイニシャルがK.O.であることがその由来となっている。渡辺満里奈に書き下ろした「大好きなシャツ(1990年旅行作戦)」のタイトルは、ヘアカット100「フェイバリット・シャツ」からだと思われるが、サブタイトルには「ラテンでレッツ・ラブまたは1990サマー・ビューティー計画」との共通点が見られる。
晴れた夏の日を思わせるおしゃれで爽やかな曲で、中性的なヴォーカルも素敵である。「バカバカしいメガネ」で出かけるというのも良いが、一人の日曜日にオムレツを焼いているというイメージにも感激しながら憧れた。エースコック大盛りいか焼そばなどをつくって食べている場合ではない、と思わされた。結局、変わらなかったけれども。そして、間奏がザ・スタイル・カウンシルのアルバム「アワ・フェイヴァリット・ショップ」に収録された「オール・ゴーン・アウェイ」からの明らかな引用で、これもまた最高であった。
フリッパーズ・ギターが解散した後の話だが、おしゃれな女の子からカセットテープももらったことがあり、それにクロディーヌ・ロンジェの「フー・ニーズ・ユー」も入っていて、「ラテンでレッツ・ラブまたは1990サマー・ビューティー計画」の最初のメロディーがまったく同じじゃないかと、度肝を抜かれた。
lyrical school「夏休みのBABY」のように「夏最高!」と毎年、盛り上がりまくっている私はもちろん夏をテーマにしたポップスも大好きなのだが、この曲の「気がつけばすぐに夏は終わる過ぎてゆく」は、サザンオールスターズ「Melody」の「いい女には forever 夏がまた来る」と対になっている。
そして、「バスルームで髪を切る100の方法」である。この曲は「恋とマシンガン」のシングルにも収録されていて、すでにかなり気に入っていた。どこが良いかというと、まずザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」に似ているところである。パクりとかそういう次元の話ではなく、その精神性を血肉化し、その上で日本語のポップスとしてアップデートしている感じである。男の子がテレビを眺めてチョコレートをほおばっているというのが、まず良い。そして、「しゃくに触わる」とか「クソタレな気分蹴とばしたくて」とか「バスルームでひとりきり大暴れ」とか、言っていることが完全にパンク・ロックである。「ピストルなら いつでもポケット」の中にあるわけだが、この曲のエンディング、「ワンハーンドレーッド」の最後の「ド」は、かなり溜めた後で、「ド」」と「ダ」との中間のような音として発せられている。これに、私はセックス・ピストルズ「アナーキー・イン・ザ・UK」の最後の「I get pissed, destroy」の「destroy」が、「デーストロォォォォォイアアアァ」というように歌われているのに近いものを感じる。
このようなアティテュード的にはパンクな気分が、「ティーワゴン滑りだしていく」「明るい食堂」などという、アニエスベー、アフタヌーン・ティー的な舞台装置を用いて歌われているところがゴイスーである。「ありふれてる話」というのも良いし、テーブルのオレンジを噛じったり手袋を脱いで待ったりするのも、それほど特別なことではないにしろ、当時の、そして、いまでも私からすると自分ではやらないし、なんか良いな、と思わせるポイントなのである。
ちなみにオレンジを噛じるといえば、伊藤銀次の1983年のアルバム「STARDUST SYMPHONY 65-83」に収録され、シングルでもリリースされた「泣きやまないでLOVE AGAIN」の「オレンジかじってた 君の青いシャツがほしくて いつのまにかさらっていたのさ」というフレーズが好きだった。
「カメラ・トーク」の収録曲には日本語と英語のタイトルが付けられているが、「バスルームで髪を切る100の方法」の英語のタイトルは「HAIRCUT 100」で、ニック・ヘイワードが在籍したバンドの名前である。フリッパーズ・ギターはライヴでヘアカット100の曲をカヴァーしていて、解散後にリリースされたライヴ・アルバムにも音源が収録されている。ヘアカット100のデビュー・アルバム「ペリカン・ウェスト」は1982年のリリース時におしゃれな音楽の代表みたいな感じで、当時、旭川で高校1年だった私は当麻町から通っていた悪そうでおしゃれな女子から買うように言われたが買わずに、マイケル・マクドナルド「思慕(ワン・ウェイ・ハート)」の方を買った。彼女とは高2の夏休みに、札幌にRCサクセションとサザンオールスターズのライヴを観に行ったが、途中で置き去りにされた。
「青春はいちどだけ」の英語のタイトルは「カラー・フィールド」で、テリー・ホールが一時期やっていたイギリスのバンド名だと思われる。1985年のはじめ、つまり私が大学受験のために東京に行く少し前に「シンキング・オブ・ユー」という曲がイギリスでヒットして、わりと気に入っていた。東京で一人暮らしをはじめてから、池袋パルコのオンステージヤマノでアルバムを買った。「カメラ・トーク」がリリースされた時にWAVEがチラシをつくったのだが、その裏面ではフリッパーズ・ギターがおすすめのレコードを紹介していて、その中にカラーフィールドの「シンキング・オブ・ユー」も入っていた。
ネオ・アコースティック的な楽曲で、アズテック・カメラからの影響が指摘されるが、当時はすぐには分からなかった。アズテック・カメラの「ハイ・ランド、ハード・レイン」は高校生の頃に当麻町から通っていた友人に借りて、かなり気に入っていた。
「ビッグ・バッド・ビンゴ」が打ち込みで、緩急が良い感じである。ジェイムス・ブラウン「ファンキー・ドラマー」をベースとするドラム・ビートが、当時、いくつものポップ・トラックで用いられていたが、これもその1つだと思われる。暑い夏の日にポータブルCDプレイヤー、ディスクマンで「カメラ・トーク」などを聴きながら、よく渋谷から調布行きのバスに意味なく乗ったりしていたが、この曲の印象が最も強い。世界の終わりを待つというイメージは、20世紀にはよく用いられていたが、それ以上に「ハイファイないたずらさ きっと意味なんてないさ」「少しだけシャイなふりをした 変な角度のウィンク」というようなフレーズに、たまらない気分になっていた。「カレイドスコープ・ワールド」は、スウィング・アウト・シスターのアルバム・タイトルからだろうか。
かと思えば、次はサーフ・ロックの「ワイルド・サマー/ビートでゴーゴー」である。「ヘッド博士の世界塔」ではビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」からの影響が見られたが、「カメラ・トーク」のこの曲では同じビーチ・ボーイズでも歌詞に「リトル・ホンダ」や、エンディングでは「カリフォルニア・ガールズ」が引用されていたりもする。他にも「ワイプ・アウト」やジャンとディーンなど、清々しいまでの直球ぶりだが、「間抜けヅラをしたマッチョマン」が敵対する概念として規定されているところにも好感が持てた。
「偶然のナイフ・エッジ・カレス」は当時、最もハートにヒットした曲だったかもしれない。80年代に活動していたスコットランド出身のバンド、フレンズ・アゲインの「ハニー・アット・ザ・コア」からの引用も見られる楽曲だが、歌詞には「憎しみ」や「軽蔑」といった言葉が並ぶ。「間抜けな言葉で僕を取り囲む 得意げな薄ら笑いに腹が立つのさ」には「大人は判ってくれない」的な青春のエッセンスを感じ、「思い切り胃を蹴り上げたら 君はどんな顔をするのかと思う」にはハッとさせられた。「セシル・ビートン」はウドゥ・ビー・グッズの曲のタイトルにも登場するイギリスの写真家で、ここでもカメラのイメージが用いられている。
「南へ急ごう」は歌詞がない曲で、ダバダバと歌われる。次の「午前3時のオプ」もまた、ひじょうに密度が濃い曲のため、「偶然のナイフ・エッジ・カレス」との間にこの曲が入っているのは、アルバム全体の流れ的にもとても良い。
「午前3時の」という歌詞からはじまる曲といえば、私にとっては中原理恵「東京ららばい」とWHY@DOLL「Dreamin’ Night」との間にこの曲があるのだが、真夜中ではあるのだが、アスファルトは熱く焼けている。「僕たちの目は見えすぎて ずっと宗教のように絡まるから」、ポップ・ソングの歌詞に「宗教」という歌詞が出てきてドキッとした。
「恋とマシンガン」には「そして僕は喋りすぎた」という歌詞があるが、この曲では「いつでも僕の舌はいつも空回りして 言わなくていいことばかりが ほら 溢れ出す」である。最近の小沢健二のツイートのことを思って、少し可笑しい気分になった。「花束をかきむしる 世界は僕のものなのに!」は「17歳の僕」なので、これもまた青春についてなのだった。
「全ての言葉はさよなら」といえば「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」だが、当時と現在との変わったところと変わらなさを考えると、いろいろ思うところはある。このアルバムを当時、リアルタイムで聴くことができ、フリッパーズ・ギターという現象であり、小さな革命にとても遠いところ、周縁のうちでも端の方から参加できたことはとても良かった。その立場からの感想以外を、私はこのアルバムに対して持つことが出来ない。
「カメラ・トーク」はリリースから30年が経った現在の世界に起きている問題を解決するのに役立つ内容を、あまり含んでいないかもしれない。あの時に感じたことなども深く影響した上で現在があるわけであり、その感覚を持ちながら現在の様々な問題にどう正しく対処していくかということになっていくのだろう。
1990年の東京におけるリアリティーに対しての真剣な表現がこのアルバムに込められているため、その強度が今日においても、少なくとも私にとっては強く響いてくる。ヒリヒリするような感覚である。だから、これはやはり青春のアルバムなのであり、私の心のあり方というのも、良くも悪くもまだそうであるということを認めざるをえない。