ビリー・ジョエルのアルバムベスト10

ビリー・ジョエルは1949年5月9日にニューヨークで生まれ、いくつかのバンドで活動した後、1971年にソロ・アーティストとしてデビューした。1973年には「ピアノ・マン」がヒット、低迷期を経て1977年にリリースしたアルバム「ストレンジャー」やシングル・カット曲が大ヒットしてからは、世界で最も有名なシンガー・ソングライターの1人となった。1993年の「リヴァー・オブ・ドリームス」を最後に新作は出さなくなってしまったが、それでもその人気には根強い人気がある。親しみやすいメロディーとニューヨークを連想させる都会的なイメージのおかげか、日本でも人気がひじょうに高く、70年代後半から80年代にかけては、洋楽の入門編的に聴かれる場合も少なくはなかった。雑誌「FM STATION」の人気アーティスト投票でもデュラン・デュラン、ビートルズ、佐野元春などを抑えて、1位に選ばれていたような記憶がある。今回はそんなビリー・ジョエルの楽曲ではなくアルバムにスポットを当て、全作品の中からベスト10を考えていきたい。

10. Storm Front (1989)

アーティストにとって初めてのベスト・アルバムの発売というのはキャリアの節目になりがちな印象があるのだが、ビリー・ジョエルの場合は1985年にリリースされた2枚組の「ビリー・ザ・ベスト」であった。このベスト・アルバムそのものはヒット曲が満載で新曲まで入った豪華なものだったが、その後にリリースされた「ザ・ブリッジ」がわりと微妙な感じであった。レイ・チャールズ、スティーヴ・ウィンウッド、シンディ・ローパーといった人気アーティストが参加していたり、先行シングルの「モダン・ウーマン」と次にカットされた「マター・オブ・トラスト」が全米シングル・チャートでトップ10入りを果たしはしたが、80年代的なサウンドに合わせようとしてどうにもいまひとつ、というような感じもあった。ファンとしてはそのあたりもまた楽しめたりもしたのだが、このアルバムを最後に「ストレンジャー」から続いていたフィル・ラモーンのアルバム・プロデュースは終了した。

そして、ソビエト連邦でのライヴ盤「コンツェルト – ライヴ・イン・U.S.S.R.」を挟んでリリースされた次のオリジナル・アルバムが「ストーム・フロント」であった。プロデューサーにはフォリナーのミック・ジョーンズを迎えている。ザ・クラッシュのミック・ジョーンズと名前は同じだが、もちろん別人である。ビリー・ジョエルのソングライティングやボーカルの良さをいかしながらも、サウンド的に同時代向けにアップデートしたようなところがあり、なかなかコンテンポラリーに良いアルバムとなっている。

アメリカの歴史上の様々な出来事を挙げていき、最後にブチ切れる「ハートにファイア」が先行シングルとしてリリースされ、全米シングル・チャートで1983年の「あの娘にアタック」以来となる1位に輝いた。バラードやラヴソングのイメージが強く、求められてもいると思うのだが、本来このような硬派なタイプの楽曲もひじょうにやりたいアーティストなのだろう。他には「愛はイクストリーム」が全米シングル・チャートで最高6位のヒットを記録している。

9. River of Dreams (1993)

1990年以降にリリースされた、ポピュラーのオリジナルアルバムとしては最後の作品である。全米アルバム・チャートで1位、全英アルバム・チャートと日本のオリコン週間アルバムランキングではいずれも最高3位のヒットを記録している。オルタナティヴ・ロックやヒップホップのメインストリーム化など、ポップ・ミュージックのトレンドもかなり変わっていたが、無理してそれに合わせようとするのではなく、シンガー・ソングライターとしての特徴を生かし、楽曲のクオリティーを上げていったような作品である。「ザ・リヴァー・オブ・ドリームス」が、全米、全英いずれのシングル・チャートでも最高3位のヒットを記録している。ジェームス・テイラーやキャロル・キングといったシンガー・ソングライターの作品にかかわってきたダニー・コーチマーをプロデューサーに起用している。

8. Piano Man (1973)

1971年にリリースされたビリー・ジョエルのデビュー・アルバム「コールド・スプリング・ハーバー~ピアノの詩人」は回転数が早い状態でマスタリングされているなど、正直しんどい仕上がりだったらしく、ビリー・ジョエル本人もブチ切れて投げ捨てたなどといわれている。ビリー・ジョエル人気が盛り上がり、無名時代にメンバーとして活動していたザ・ハッスルズのレコードまで発売されていた80年代の初め、このデビュー・アルバムだけは絶版状態であった。高校の修学旅行で東京での自由時間があった時、中古レコード店にてプレミア価格で手に入れ、喜んでいる男子生徒がいたのだが、その少し後にピッチも修正されたものが再発されて落ち込んでいた。

それはそうとして、デビュー・アルバムが売れず、ロサンゼルスやサンフランシスコでピアノの弾き語りで生計を立てていたビリー・ジョエルだが、「キャプテン・ジャック」という楽曲の音源が地元のラジオでヒットしたのをきっかけに、コロムビア・レコードと契約が決まる。ラリー・カールトン、ウィルトン・フェルダーといったフュージョン系のミュージシャンも参加したこのアルバムは、無名だが才能があるシンガー・ソングライターの良質な作品という感じでかなり良い。ビリー・ジョエルの楽曲の中でも最も有名だともいえる「ピアノ・マン」は全米シングル・チャートで最高25位を記録し、自身初のヒット曲となった。ビリー・ジョエルの音楽が好きになって、過去のレコードも買い集めていた中学生時代、このアルバムのジャケットが暗くて怖かった記憶がある。

7. Songs in the Attic (1981)

1981年の時点でビリー・ジョエルの人気は絶大であり、何か出せば売れるという状態ではあったのだが、新作を出すタイミングではない。そういった場合、ベスト・アルバムやライブ・アルバムを出してしまうというのはレコード会社ならよくやることだが、このアルバムの場合、ライブ・アルバムではあるのだが、ヒット曲が1曲も入っていないところが特別であった。

「ストレンジャー」が大ヒットする以前のアルバムには良い曲はたくさん入っていたのだが、それほど広く知られてはいなかったし、オリジナルのレコーディングに不満もあった。そこで、それらの思い入れがある楽曲の数々を、現在のバンドで演奏したものを出してみるのはどうだろう、となったのがこのアルバムだろうか。「さよならハリウッド」が先行シングルとしてカットされ、全米シングル・チャートで17位を記録した。サザンオールスターズの桑田佳祐が「ザ・ベストテン」か何かでビリー・ジョエルのものまねをしながら、この曲を歌っていたような気がする。デビュー・アルバムに収録されていたバラード「シーズ・ガット・ア・ウェイ」も全米シングル・チャートで最高23位となって、日の目を見た。

6. Turnstiles (1976)

ビリー・ジョエルは田中康夫の1980年の小説「なんとなく、クリスタル」において、「ニューヨークの松山千春」と註釈を入れられていたのだが、一般大衆的には都会的なイメージで通っていたような気がする。ニューヨークのイメージが重要で受けが良かったのだろうか、このアルバムにも「ニューヨーク物語」という原題とはあまり関係のない邦題がつけられていた。発売当時、全米アルバム・チャートでは最高122位と、あまり売れていない。この次の「ストレンジャー」が爆発的に売れるため、低迷期といえるだろうか。

しかし、代名詞的でもあるニューヨーク賛歌「ニューヨークの想い」など楽曲のクオリティーはひじょうに高く、後に再評価もされてきているのだが、まだまだ足りないという印象である。アメリカ西海岸からニューヨークに戻ったビリー・ジョエルの実体験とも重なる「さよならハリウッド」も、このアルバムで初めて発表された。最後に収録された「マイアミ2017」は未来にニューヨークが破壊され、移り住んだマイアミでかつてのニューヨークのことを思い出すという、SF的な楽曲であった。アナログ盤ではB面の1曲目に収録された「ジェイムズ」も隠れた名曲で、「ビリー・ザ・ベスト」のスペシャル・エディションには選曲されていることもあった。「ニューヨーク物語」という邦題は、このアルバムの内容にはちゃんと合っている。

5. An Innocent Man (1983)

この前に出た「ナイロン・カーテン」がシリアスな内容で、自信作であったにもかかわらずそれほど売れず、評価もあまり芳しくなかったからか、1年も空けずにリリースされたニュー・アルバムが、この「イノセント・マン」であった。前作とは打って変わって楽しさ満載のポップ・アルバムで、シングル曲も「あの娘にアタック」がアメリカ、「アップタウン・ガール」がイギリスのシングル・チャートでそれぞれ1位に輝いている。一般大衆がビリー・ジョエルに求めていたのはこの路線なのか、と思わせるほどに、シングル・カットされる曲が次から次へとヒットし続けた。

「アップタウン・ガール」は、KANの大ヒット曲「愛は勝つ」にインスパイアをあたえたことでも知られる。この曲がイギリスで大ヒットしたのは、金持ちの女性に身分不相応な恋をするという内容が階級社会のイギリス国民に受けたからだろうか、などと思ったりもした。「あの娘にアタック」はシュープリームス「恋はあせらず」を思わせるモータウンビートと、恋の手ほどき的な内容が特徴的である。これ以外にも、ドゥーワップやソウル・ミュージックなど、ビリー・ジョエルが幼い頃に親しんでいた音楽からの影響が感じられる楽曲がたっぷりと収録されている。

4. The Nylon Curtain (1982)

そして、ビリー・ジョエル自身は僕にとってのサージェント・ペパーズなどと自信たっぷりだったのだが、セールスも評価もいまひとつだった「ナイロン・カーテン」である。日本では相変わらず受けが良く、先行シングルの「プレッシャー」などはラジオでもよく流れていたのだが、全米シングル・チャートでは最高20位と、ビリー・ジョエルの新曲にしては低かった。精神的抑圧をテーマにするという、ポップソングとしてはかなり攻めた内容であり、一般大衆がビリー・ジョエルに求めたものとも少し離れていたのかもしれない。

他には不景気をテーマにした「アレンタウン」が全米シングル・チャートで最高17位、ベトナム戦争のことを歌った7分もある「グッドナイト・サイゴン~英雄達の鎮魂歌」もシングル・カットされ、最高56位を記録している。「ナイロン・カーテン」にはたとえば「シーズ・ライト・オン・タイム」のように、よりキャッチーな曲も収録されていたのだが、あえてシリアスなテーマを扱った曲ばかりシングル・カットしたところに、ビリー・ジョエルの意志を感じなくもない。個人的には意欲作であり、楽曲のクオリティーも高いと思えるので、発売時からずっと好きなのだが。ビリー・ジョエルがこういったタイプのアルバムをリリースするのは、後にも先にもこれっきりであった。

3. Glass Houses (1980)

ラヴソングやバラードの印象が強いビリー・ジョエルが、あえてロック的なアプローチを取ったアルバムという感じだが、1980年という時代を考えると、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズのようなニュー・ウェイヴ・バンドからの影響もあったように思える。全米アルバム・チャートでは1位、グラミー賞も獲得した上に、「ロックンロールが最高さ」が全米シングル・チャートで自身初の1位に輝いたりもした。この曲もよくラジオで流れていたのだが、「ストレンジャー」や「オネスティ」のビリー・ジョエルとはかけ離れた感じであった。

ジャケットではガラス張りの家に向かって、革ジャンにブルージーンズ姿のビリー・ジョエルが石を投げようとしているのだが、アルバムを再生するとまず最初にガラスの割れる音が聞こえる。原題は「You May Be Right」だが、邦題が「ガラスのニューヨーク」と、ここでもニューヨークが強調されている。桑田佳祐が嘉門雄三名義のライブ・アルバムで「ガラスのニューヨーク」やマーティ・バリン「ハート悲しく」、ザ・バンド「ザ・ウェイト」などと共にカバーしていた。

2. 52nd Street (1978)

邦題は「ニューヨーク52番街」で、やはりニューヨークが強調されている。実際にレコーディングが行われていたスタジオの住所がタイトルになっているらしい。「ストレンジャー」の大ヒットの次にリリースされたアルバムだが、全米アルバム・チャートではこの作品によって初めて1位に輝いている。ジャズ/フュージョン系のミュージシャンが多数参加したことが、音楽性にも反映している。これによって、特に日本では都会的に洗練された音楽の印象がさらに強まり、AOR的な音楽としても聴かれていたような気がする。

アメリカではシカゴのピーター・セテラも参加した「マイ・ライフ」が全米シングル・チャートで最高3位とこのアルバムからは最もヒットしているが、日本ではネッスルチョコホットのテレビCMにも使われたバラード「オネスティ」に人気があった。この曲によって、「オネスティ」という単語が英語で「誠実」を意味することを知った中学生は少なくないのではないだろうか。ちなみに、個人的には生まれて初めて買った洋楽のアルバムが「ニューヨーク52番街」で、それだけに思い入れもひじょうに強い。

1. The Stranger (1977)

ビリー・ジョエルのアルバムでベストな1枚となった場合、もうこれはほとんど一択だといっても良いのではないだろうか。クオリティーにおいて、とにかく突出している。日本では「ストレンジャー」のシングルが1978年の夏に大ヒットして、オリコン週間シングルランキングで最高2位を記録しているのだが、海外でこの曲はごく一部の国を除いてシングル・カットすらされていない。口笛のイントロと、その後で急にロック的になる展開などが印象的で、ラジオや喫茶店などでもよく聴いた記憶がある。当時、小学生で、洋楽を主体的に聴いてもいなかったのだが、この曲のことはよく知っていた。ちなみに「ストレンジャー」が2位だった週のオリコン週間シングルランキングで1位だったのはピンク・レディー「モンスター」で、10以内にはビー・ジーズ「恋のナイト・フィーバー」、アラベスク「ハロー・ミスター・モンキー」と、他にも洋楽が2曲ランクインしていた。

アメリカでは全米シングル・チャートで最高3位を記録し、グラミー賞では最優秀レコード賞を受賞した「素顔のままで」が最大のヒットだが、他にも後にビリー・ジョエルの楽曲によるミュージカルのタイトルにもなった「ムーヴィン・アウト」や「若死にするのは善人だけ」、評価がひじょうに高まってきている「イタリアン・レストランで」など、名曲のオンパレードである。「ストレンジャー」が都会的に洗練されたポップスに聴こえながら、人間の心に潜む多面性というような、わりと暗めのテーマを扱っているところなどもとても良い。