フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」が発売される前の年までのことについて。
1989年は1月8日から平成元年であった。前の年の秋から昭和天皇のご容体が悪化していることが報道されはじめ、テレビでは自動車のCMで井上陽水が「みなさんお元気ですか?」と言っているのは好ましくないのではないかということで、その部分の音声が消されたりしていた。その少し前に夏休みがあり、帰省して留萌の祖父母の家に行ったのだが、お小遣いをもらったのでヨシザキというレコード店でRCサクセションの「カバーズ」を買った。妹はレベッカの「OLIVE」を買っていた。9月1日に尾崎豊の「街路樹」が発売され、9月17日からソウルオリンピックが開催された。
秋には近田春夫&ビブラトーンズとプラスチックスの作品が初CD化されたり、岡村靖幸のシングル「聖書<バイブル>」「だいすき」やエレファントカシマシのアルバム「エレファントカシマシⅡ」などを気に入って聴いていたことが思い出される。年末年始にも帰省していたのだが、昭和最後のレコード大賞は光GENJIが「パラダイス銀河」で受賞して、これは家族で見ていたのではないだろうか。東京、というか厳密には相模原に戻ることになっていた日の朝に起きると、昭和天皇が崩御したということであった。
旭川から汽車で札幌、それから新千歳空港に行く途中のどこかで号外を受け取り、それで新元号が「平成」に決まったことを知った。なんだかいま一つパッとしないような気もしたのだが、そのうち慣れるものなのだろうか、などと思っているうちに光GENJIのアルバムタイトルが「Hey! Say!」だというのでさすがだなと思ったりした。
小田急相模原から柴崎に引越したのだが、予定日に住むはずのワンルームマンションがまだ出来ていないということで、2週間ぐらい笹塚のホテルに無料で宿泊することができた。引越しの作業の最中にラジオから中山美穂の「ROSÉCOLOR」が流れてきて、とても良い曲だなと思った。それでやっと引越しことができたのだが、テレビでカップ焼そばのCMがよく流れていて、それで使われているグラス・ルーツ「今日を生きよう(Let’s Live For Today)」がとても良かった。このCMを長らく日清のシーフード焼そばのものだと思い込んでいたのだが、数年前にエースコック大盛りいか焼そばのものだったことが分かった。それから、近所のローソンでアルバイトをはじめた。
青山学院大学の青山キャンパスといえば、正門を入って少し歩き、左に曲がった地下に食堂があり、その上に購買会があった。設置されたラジカセでリック・アストリーのユーロビートが流れていて、それに合わせてワンレン、ボディコンの女学生が踊っていた。食堂でスパゲティーメイト(またはコンビ)かサービスランチあたりを一人で食べていると、厚木キャンパスのいくつかの講義で一緒だった男子と一緒になった。彼は確かベース化何かを弾いていて、英国音楽愛好会とかいう組織に所属していたような気がする。最近、聴いている音楽について軽く話をしたと思うのだが、そこで彼がフリッパーズ・ギターについて言及していた。
調べによるとデビューアルバム「three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった」は、その年の8月25日に発売されていたようだ。ポップ・ミュージックは大好きで、「ミュージック・マガジン」などを参考に渋谷ロフトのWAVEや宇田川町にあったFRISCOやタワーレコード、気合いとお金がある時には六本木WAVEまで行って、CDをよく買っていた。この年ならば岡村靖幸「靖幸」(私がこの渋谷ロフトのWAVEでこのアルバムを買ったのはおそらく7月13日だが、同じ日に山口県では道重さゆみが誕生していた)、いとうせいこう「MESS/AGE」、デ・ラ・ソウル「3フィート・ハイ&ライジング」、佐野元春「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」、パール兄弟「TOYVOX」辺りを気に入って聴いていたような気がする。
J-WAVEの開局は1988年10月1日だが、「TOKIO HOT 100」という番組は当時からずっと続いている。一時期、これのダイジェスト版がテレビで深夜に放送されていて、時々、チェックしたりもしていた。確かフリッパーズ・ギターの曲がランクインしていて、数十秒間ぐらいは流れたのではないだろうか。学食で彼が言っていたのはこれか、と思い聴いていたのだが、英語の歌詞でイギリスのインディー・ポップのような音楽をやっているな、と感じていた。というか、その説明はもうすでに彼から受けていたのだと思う。ネオアコことネオ・アコースティックと呼ばれるタイプの音楽は、まだ旭川の高校に通っていた頃に少し流行っていて、アズテック・カメラ「ハイ・ランド、ハード・レイン」、エヴリシング・バット・ザ・ガール「エデン」などは聴いていた。ザ・スタイル・カウンシル「カフェ・ブリュ」にはエヴリシング・バット・ザ・ガールのトレイシー・ソーンもゲストで参加していたこともあって、同じようなカテゴリーの音楽として認識していたような気がする。
しかし、1989年当時、このような音楽は一般的に流行ってはいなく、メインストリームではボビー・ブラウンだとかポーラ・アブドゥルなどがひじょうに売れていて、音楽ジャーナリズム的にはパブリック・エナミーやLLクールJなどのようなヒップホップが新しくてカッコいいものとされていた。インディー・ロックのような音楽はそのジャンルのファンは相変わらず聴いているのだが、けしてメインストリームではなく、この傾向は今後ますます強まっていくだろうというようなムードが高まっていた。好きな人達はそのような状況とは関係なくずっと聴いていたと思うのだが、そうでもない人達にとってはインディー・ロックの最後の砦のように思われていなくもなかったザ・スミスが1987年に解散してから、私自身の意識もそんな感じになっていた。
という訳で、当時、フリッパーズ・ギターがやっていた音楽はおそらくかつて好きだったジャンルに近くもあるのだが、いま聴かなければいけないというような必然性は特に感じなかった。そういった訳で聴いていなかったところもあるのだが、1990年1月25日にリリースされたシングル「フレンズ・アゲイン」はあっさり買っていたりもする。
日本でCDことコンパクトディスクが初めて発売されたのが1982年の秋だったのだが、これが一般的に普及して、販売枚数でLPレコードを抜いたのは1986年だったようだ。私が本厚木の丸井で生まれて初めてCDプレイヤーを買ったのも、やはり1986年のことであった。しかし、当時、CDが発売されていたのは主にアルバムで、シングルは相変わらずアナログレコードでしか買うことができない場合がほとんどであった。
日本で8センチCDが発売されたのは1988年からであり、縦長のパッケージに収納されていたことから、短冊CDなどとも呼ばれるようになっている。1990年当時、個人的にこの縦長のパッケージに収納されたCDシングルを買うことがちょっとしたブームにもなり、少し気になる曲があればすぐに買っていた。高野寛「虹の都に」、ドリームズ・カム・トゥルー「笑顔の行方」、EPO「エンドレス・バレンタイン」などと共に、フリッパーズ・ギター「フレンズ・アゲイン」もそんな中の1枚だった。この曲は「オクトパス・アーミー 渋谷で会いたい」という映画の主題歌でもあったのだが、これには同じローソンでパートタイマーとして働いていた主婦の娘も女優として出演していた。
「フレンズ・アゲイン」についてだが、とてもセンスの良い音楽ではあるのだが、歌詞が英語だということもあり、あくまでこういったタイプの音楽が好きな人達に向けられたものであり、それ以上の広がりはないのではないか、というような印象を持っていた。
それで、初めて日本語の歌詞を歌ったシングルだという「恋とマシンガン」が5月5日に発売される訳だが、これも同じ日にリリースされたたま「さよなら人類」などと一緒に、何枚か買ったCDシングルのうちの1枚であった。それほど期待をすることもなく、再生していったのだが、これにはガツンとやられたのであった。音楽的にはザ・スタイル・カウンシルとかネオ・アコースティックとか、おそらくそれ以外からの影響が感じられるもので、「三宅裕司いかすバンド天国」などによって大衆化もしていたバンドブーム全盛の当時の日本のポップ・ミュージックとはほとんど関係がないように思えた。そして、日本語の歌詞が楽曲のセンスを殺すことのない、実にオリジナリティーに溢れたもので、こんなことが可能だったのかと驚かされたのであった。
6月6日には「恋とマシンガン」を収録したアルバム「カメラ・トーク」がリリースされ、渋谷ロフトにあったWAVEで買って聴くのだが、これにも圧倒された。当時、すでにネオ・アコースティックとかそういうこともいわれていたような気がするのだが、オリコンで最高17位を記録した「恋とマシンガン」に続く2曲目「カメラ!カメラ!カメラ!」がチープにも感じられる打ち込みサウンドのようなものだった時点で、これはかなり期待できるぞと思わされたのだった。その後、ネオ・アコースティックやインディー・ポップだけではなく、ボサノバやハウス・ミュージックやサーフ・ロックなど、様々な要素を取り入れ、その上でクオリティーが高くリアリティーも感じられる楽曲が次から次へと続いていき、これはすごい作品なのではないかと感じたのである。
その夏、渋谷(のWAVEやFRISCOやHMVやタワーレコードや大盛堂書店や旭屋書店やパルコブックセンター)でCDや本を買った後、意味もなく調布行きのバスに乗るということをよくやっていた。電車に乗ればそれほど時間をかけずにすぐ帰れるのだが、あえてわざわざ遠回りするバスに乗り、ディスクマンで買ったばかりのCDを聴きながら本を読み、飽きると適当な停留所で降りて散歩したりもしていた。「カメラ・トーク」もよく聴いていたのだが、特に「ビッグ・バッド・ビンゴ」の印象がとても強く、「ハイファイないたずらさ きっと意味なんてないさ」というフレーズを必要以上に重く受け止めていたりした。
「ミュージック・マガジン」「ロッキング・オン」「ロッキング・オンJAPAN」「クロスビート」などは毎号読んでいて、CDもたくさん買っていたのだが、1枚ごとに対する思い入れはそれほど強くなくなっていたような気がする。それでも、「カメラ・トーク」以外で特に気に入っていたのは、やはりパブリック・エナミー「ブラック・プラネット」、ニューエスト・モデル「クロスブリード・パーク」、ピチカート・ファイヴ「月面軟着陸」などであった。
この頃、イギリスではマッドチェスター・ムーヴメントが巻き起こっていて、そのことは音楽雑誌で読んで知っていたのだが、いま一つどういうものなのかよく分かっていなかった。ザ・ストーン・ローゼズのデビュー・アルバムは実はすでに買っていたのだが、当時はサウンド的な目新しさに重点を置いて音楽を聴いていたこともあり、何だかよく分からずにFRISCOと同じビルに入っていたRECOfanに売却してしまった。当時からミーハーな音楽ファンだったので、ヒット曲がたくさん入っている「NOW」シリーズなどをたまに買っていたのだが、これにハッピー・マンデーズ、インスパイラル・カーペッツ、プライマル・スクリームなどの曲も入っていて、インディー・ロックとダンス・ミュージックの融合などともいわれるマッドチェスター・ムーヴメントというのはなるほどこういうやつか、と思ったりもした。
青山キャンパスからバスに乗って六本木に行き、WAVEと青山ブックセンターに行くことが秋ぐらいからまた個人的に流行りはじめて、WAVEで大々的にディスプレイされているCDは気になって買ったりもしていた。ソウル・Ⅱ・ソウルのボーカリストだったキャロン・ウィーラーの「UKブラック」は気に入ってよく聴いていた。また、日本人アーティストによる新作は渋谷ロフトのWAVEで買うことが多く、岡村靖幸「家庭教師」、ユニコーン「ケダモノの嵐」は気に入っていた。そういえばフリッパーズ・ギターのシングル「カメラ!カメラ!カメラ!」が9月25日にリリースされていて、これも渋谷ロフトのWAVEで買ったような気がする。シングルといってもこれは8センチの短冊型ではなく、アルバムと同じ12センチでマキシシングル的なパッケージに収納されていた。日本で短冊型のCDシングルが主流だったのは、おそらく1998年ぐらいまでだったのではないだろうか。この年にデビューしてブレイクしたMISIAの「つつみ込むように…」が8センチと12センチの両方でリリースされていた印象が強く、その年末にデビューした宇多田ヒカル「Automatic」も同様で、12センチの方がより多く売れていたはずである。
このシングルに収録された「カメラ!カメラ!カメラ!」は、「カメラ・トーク」に収録されたチープにも聴こえる打ち込みっぽいバージョンとは違っていて、よりインディー・ポップ的になっている。こちらのバージョンの方をより好んでいる人達がわりと多く、その理由も理解できるような気がするのだが、個人的には圧倒的に「カメラ・トーク」収録のバージョンの方が好きである。このシングルには他に「カメラ・トーク」から「ビッグ・バッド・ビンゴ」のリミックスバージョンである「ビッグ・バッド・ディスコ」と、「クールなスパイでぶっとばせ」のライブバージョンが収録されていた。
11月21日にはシングル「ラブ・トレイン」が発売され、これはなんとなく渋谷センター街の現在はドン・キホーテになっているONE-OH-NINEにあったHMVで買ったような気がするのだが、もしかすると違っていたかもしれない。この曲もインディー・ポップ的であり、ファンがフリッパーズ・ギターに求める王道的なタイプのサウンドだったかもしれないのだが、個人的にはそれほどハマらなかった。それよりもカップリング曲の「スライド」の方がキャンディ・フリップみたいで面白いなと感じていた。
キャンディ・フリップというのは当時、イギリスでビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をハウス・ミュージック風にカバーしてヒットさせていた2人組である。「MIX」という日本の音楽雑誌でも表紙を飾っていた。この「MIX」というのは「フールズメイト」の別冊だということだったが、なかなか面白そうだったので確かつつじヶ丘のかもしだ書店あたりで買ったのではなかったかと思う。
「フールズメイト」という音楽雑誌はずっと以前からあって、旭川の書店でもよく見かけたのだが、「ロッキング・オン」などと比べると何だか自分の趣味嗜好には合わないような印象がずっとあって、一度も買ったことがなかった。「カメラ・トーク」が気に入ったこともあって、イギリスのインディー・ロックなどにも再び興味がわいていくのだが、「ミュージック・マガジン」「ロッキング・オン」「クロスビート」などを読んでいても、どうもなかなかリアルタイムのイギリスのポップシーンというものがヴィヴィッドに伝わってこないな、などと感じていた時に「MIX」を見つけ、これはなかなか良いのではないかと思った。
六本木WAVEに行くとハッピー・マンデーズ「ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス」が、1階の時点で大々的にディスプレイされていた。ポップアート的なアートワークにも良さを感じたのだが、これはインディー・ロックのジャンルを超えた最新型のポップ・ミュージックとしての強度を備えたアルバムなのではないかという予感がなんとなくして、買って聴いてみたところすぐに気に入った。3階の売場にそのうち「NME」の年間ベスト・アルバムのページもディスプレイされ、それでもこのアルバムが1位に選ばれていた。
イギリスのインディー・ロックではライドという新しいバンドが話題になっているということであった。その年、年末年始はやはり帰省することにしていた。羽田空港に行く前に渋谷のFRISCOに行き、ライド「ノーホエア」のCDを買った。ディスクマンで聴くと音楽雑誌で読んでいた通り、ノイジーなギターと繊細なボーカルとの組み合わせが新しく感じられた。大晦日に行われた「第32回日本レコード大賞」では、フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」が最優秀アルバム・ニュー・アーティスト賞を受賞した。
(次回に続く)