フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」の発売まで半年ぐらいの個人的な思い出について。

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(前回から続く)

1991年の元旦には旭川の実家にいて、父が運転する車で留萌の祖父母の家に遊びに行ったような気がする。それよりも前だったか後だったかは定かでないのだが、旭川市内の駅からはわりと離れた店でもCDは売られていて、そこで種ともこ「音楽」とFLYING KIDS「新しき魂の光と道」を買ったのであった。

大学は実はもう卒業していなければならなかったのだが、諸事情により(という程のことでもないが)まだ在籍していて、ローソンのアルバイト代は月額20万円を超えていた。家賃と光熱費と食費以外のほとんどをCDと本と雑誌にあてていたのだが、このままではいけないという気分もあるにはあった。というか、実際のところは相当であった。それで、自分は何がしたいのかというと六本木WAVEで働きたいと思い、毎週、買物に行ってはいたのだが、募集告知などはどこにも無かった。どうすれば入ることができるのだろう、やはりコネが無ければダメなのだろうか。いろいろなことを考えていた。

聴く音楽はイギリス寄りになっていき、マッドチェスター系のインディー・ロックだとか808ステイトだとかのテクノだとかのCDを買っていた。ある日、六本木WAVEに行くと1階の入口近くにKLFの「ホワイト・ルーム」が大量にディスプレイされていて、よく分からなかったのだが買って聴いたりもしていた。分かりやすいところではジーザス・ジョーンズ「ダウト」がリリースされていて、東芝EMIが猛烈にプッシュしていたであろうこともあって、日本でもわりと人気があった。ペット・ショップ・ボーイズの「ビヘイヴィアー:薔薇の旋律」は前の年の秋に出ていたのだが、シングル・カットされた「ビーイング・ボアリング」を「TOKIO HOT 100」で聴いて、これはかなり良いぞと思ったりしていた。

MTVの番組を萩原健太と光岡ディオンが深夜にやっていて、それで見たGO-BANG’S「Bye-Bye-Bye」のビデオで思わず泣いてしまったことにより、精神的にかなり弱っているのではないかと自覚した。この曲を収録したアルバム「サマンサ」はマンチェスターでミックスダウンされているということであった。電気グルーヴがメジャーデビューしたのもこの頃だったと思う。

フリッパーズ・ギターは3月20日にシングル「グルーヴ・チューブ」をリリースするが、これが「カメラ・トーク」までとはかなり違ったダンス・ポップになっていて、これは良いぞと興奮を覚えた。インディー・ポップやネオ・アコースティックのイメージが強くもあったので、これはかなりの路線変更のようにも思えたが、「カメラ・トーク」の時点で実際にはかなりバラエティーに富んだ音楽性であり、しかもイギリスのポップ・ミュージックシーンに呼応しているとも考えれば、この流れは実に自然なように思えた。一方でKAN「愛が勝つ」、小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」などがヒットしていた日本のメインストリームとは、ますます関係がなくなりつつあるようでもあった。

とはいえ、フリッパーズ・ギターは雑誌などのマスメディアにはかなり露出していて、爽やかそうにも聴こえる音楽性にもかかわらずかなりの毒舌というところが面白がられてもいたように思える。特に「宝島」で連載していた「フリキュラマシーン」などにおいては、全方位的にほとんど悪口しか言っていないように思える回もあったような気がする。

そして、やはりフォトジェニックであることやファッション性という部分もひじょうに重要であり、いたいけな女子高生を虜にして、マンションの一室にあるようなマニアックなレコード店でよく分からないインディー・ポップの7インチ・シングルなどを買う行為をおしゃれなことにしたという事実がある。

私だってフリッパーズ・ギターが大好きだったのだが、そういったキラキラしたおしゃれな人達と出会う機会はまったく無かった。そういった人達は果たして本当に存在しているのだろうか、一体どこに行けば出会えるのだろう、そんなことを考えながら、CDショップと書店と大学とアルバイト先にしか行っていなかった。渋谷ロフトのWAVEに行くと募集広告が出ていたので、店員に声をかけてみた。たとえ六本木ではなかったとしても、WAVEならばまあ良いか、という気はしたのだが、果たして私のような者が働くことができるのだろうか、おそらくダメなのだろうな、などと思っているうちに、なぜか六本木WAVEの面接を受けられることになり、受けたのだがやはり私のような者が受かるはずはないというような気はなんとなくしていた。

結果はこちらから電話で問い合わせることになっていたのだが、一応、気合いを入れるためにイギリスでリーバイスのCMに使われたとかでリバイバルヒットしていたザ・クラッシュ「ステイ・オア・ゴー」を聴いて勢いをつけた後で電話をすると、あっさり受かっていた。

そこで実際にフリッパーズ・ギターが好きな人達に何人も出会うことができ、やはりこういう人達は実在していたのだと感激したのであった。土曜日は午後から閉店までの勤務のことが多く、前の夜に放送された「BEAT UK」のビデオを見てから出勤したりしていた。セイント・エティエンヌ「ナッシング・キャン・ストップ・アス」、エレクトロニック「ゲット・ザ・メッセージ」、コーラ・ボーイ「7ウェイズ・トゥ・ラヴ」などをかなり気に入って聴いていた。

六本木WAVEは現在、六本木ヒルズの入口辺りになっている場所にあった。すぐ近くに1階にベーカリーのポンパドウル、上の方の階にインドカレー店のMOTIが入ったビルがある。どちらも休憩時間によく利用した。六本木WAVEの裏側だった場所も現在は六本木ヒルズの敷地内となっているのだが、当時は小さな公園や喫茶店などがあった。メイ牛山のハリウッドビューティーセンターもこの並びにあったはすである。

ある日の夕方の休憩時間、おそらくポンパドウルで買ったパンをかじりながら、六本木WAVEの裏にあった公園で、私よりも少し後に入った同年代の男子と話していた。彼はネオ・アコースティックやインディー・ポップなどを好んでいて、アノラックというよく分からないジャンルの音楽のバンドをやっているということであった。アノラックというのはおそらくアウターウェアの一種で、北海道で子供時代に着ていたような記憶があるのだが、それが音楽とどう関係があるのかさっぱり分からなかった。

日本のポップ・ミュージック界においてどのようにしてフリッパーズ・ギターのようなバンドが現れたのか、まるで突然変異のように思っていたのだが、実は日本にもインディー・ポップなどを愛好する草の根的なサークルのようなものがあり、そういった蓄積があってこそだったのだということを後に知るのだが、そういった人達にとってアノラックと呼ばれる音楽はわりと身近なものだったようである。

私がフリッパーズ・ギターの音楽に反応した理由の一つというのは、そのルーツの一部になっているかもしれないアズテック・カメラだとかザ・スタイル・カウンシルだとかの音楽を高校生ぐらいの頃にリアルタイムの流行りの音楽として聴いていたからに過ぎず、それよりもマイナーだったりアンダーグラウンドだったりするものについては、ほとんどちゃんと聴いていなかった。「カメラ・トーク」が出たぐらいの頃に、六本木WAVEに行くとフリッパーズ・ギターのチラシが置かれていて、裏面にはネオアコ名盤選のようなものが載っていたのだが、知っているものもあれば知らないものもあった。

その日、六本木公園というストレートな名称だったということをたったいま調べて知ったその公園で私と話していた彼は、英字新聞のようなものを読んでいた。プイライマル・スクリームがちょうどシングル「ハイヤー・ザン・ザ・サン」をリリースするぐらいのタイミングだったのではないだろうか。プライマル・スクリームのボーカリストであるボビー・ギレスピーはそのインタビューにおいて、自分達がつくっている音楽はインディー・ロックとしてどうだというような話ではなく、かつてのマーヴィン・ゲイの名盤などにも匹敵するようなものを目指しているのだ、というようなことを言っている、と彼は解説してくれた。

それまで私はイギリスのインディー・ロックのファンなどというのはそのジャンル内だけに閉じこもっているようなものなのだろうと勝手に思っていたのだが、なるほどプライマル・スクリームというのはそのような志を持ったバンドなのか、と認識を新たにしたのだった。そして、当時の私はポップ・ミュージックを表面的なサウンド面での新しさを重要視して聴いていたところが多分にあるのだが、一方でたとえば60年代のビートルズなどを超える音楽は今後、生まれることはないのだろうとも感じていた。ところが彼いわく、たとえばザ・ストーン・ローゼズはかつての歴史的名盤と比較しても遜色がないようなクオリティーの音楽をやっていて、しかも新しくて同時代なのだから最高である、とも。そして、インディー・ポップやネオ・アコースティックのCDやレコードをたくさん聴いてきたが、中でもフリッパーズ・ギターが一番好きだということも言っていた。彼がその時に読んでいた英字新聞のようなものが「NME」であり、私も翌年3月のブラーが表紙の号から買いはじめるようになる。

ブラーといえばこの年の5月に「ゼアズ・ノー・アザーウェイ」が全英シングル・チャートで最高8位のヒットを記録していたのだが、その音楽性といえばインディー・ロックにダンスビートを取り入れたようなものであり、いわゆるマッドチェスター・ムーヴメントの後追いのように認識していた。音楽的には好きなタイプだったのだが、それほど長くは続かないと思っていた。ところが当時、六本木公園などで音楽の話をよくしていた彼の認識だとブラーは天才音楽集団である、ということであった。彼は知り合いのレコード店のためにプライマル・スクリーム「ハイヤー・ザン・ザ・サン」のコメントカードを書かなければいけないということだったが、この曲をどう評価するべきか苦悩して、休日に何十回もリピート再生したと言っていた。そして、90年代の半ば、家族旅行中に喘息で亡くなったと知らせを受けた。

インディー・ロックにダンス・ビートを取り入れたタイプの音楽はイギリスのみならずアメリカにも飛び火していて、この年の7月にはEMF「アンビリーヴァブル」が1位、ジーザス・ジョーンズ「ライト・ヒア、ライト・ナウ」が2位を記録したりもしていた。一方、全英シングル・チャートでは7月10日付で映画「ロビン・フッド」のテーマソングであったブライアン・アダムス「アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー」が1位になり、その後、16週連続のギネス記録をつくることになる。

また、映画といえばアメリカでは7月3日に公開された「ターミネーター2」のテーマソング、ガンズ・アンド・ローゼズ「ユー・クッド・ビー・マイン」が全英シングル・チャートの3位に初登場している。この他に当時を思い起こさせてくれるヒット曲といえば、ポーラ・アブドゥル「ラッシュ・ラッシュ」、カラー・ミー・バッド「アイ・ワナ・セックス・ユー・アップ」、ヘヴィー・D&ザ・ボーイズ「ナウ・ザット・ウィーヴ・ファウンド・ラヴ」、インコグニート「オールウェイス・ゼア」、オマー「ゼアズ・ナッシング・ライク・ディス」、レニー・クラヴィッツ「イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー」などが挙げられるが、個人的にはアンスラックス・フィーチャリング・チャックD「ブリング・ザ・ノイズ」、ビリー・ブラッグ「セクシュアリティー」なども印象深い。

ところで六本木公園には清涼飲料水の自動販売機も設置されていたのだが、とにかくカルピスウォーターがものすごく売れていた。一つの自動販売機の中でかなりの面を占拠していた印象があるのだが、それでも常に売り切れていたような気がする。ご存知、カルピスをあらかじめ希釈した飲みものなのだが、この年の2月に初めて販売され、大ヒット商品になった。

ピチカート・ファイヴは1990年にボーカリストの田島貴男が自身のバンド、オリジナル・ラヴ(現在の表記はOriginal Love)での活動に専念するため脱退、新ボーカリストとして元ポータブル・ロックの野宮真貴を迎えた。6月1日にミニアルバム「最新型のピチカート・ファイヴ」、7月1日に「超音速のピチカート・ファイヴ」を発売、8月1日にも「レディメイドのピチカート・ファイヴ」が発売される予定になっていた。オリジナル・ラヴは6月14日のシングル「DEEP FRENCH KISS」に続いて7月12日にはメジャーデビューアルバムにして2枚組の「LOVE! LOVE! & LOVE!」がリリースされる予定になっていた。

フリッパーズ・ギターが「恋とマシンガン」をリリースした1990年5月5日にアルバム「スチャダラ大作戦」でデビューしたのが、スチャダラパーである。当時、果たして日本にヒップホップは根づくのだろうかということはひじょうに疑問視されていたような気がする。この年の2月14日にアルバム収録曲「N.I.C.E.GUY」のリミックスバージョンをリリースした後、ソニーと契約、7月25日に「スチャダランゲージ~質問:アレは何だ?~」でメジャーデビューを果たすことになる。

「スチャダラ大作戦」をプロデュースしていたのが高木完で、「N.I.C.E.GUY」をリミックスしたのが藤原ヒロシ、この2人はかつてTINNIE PUNXというヒップホップユニットとしても活動していたが、初のシングル曲はPredident BPM「NASU-KYURI」のカップリングとして収録された「I Luv Got The Groove」であった。President BPMの正体は近田春夫で、最初のシングル「Masscommunication Breakdown」がリリースされたのはRUN D.M.C.「ウォーク・ディス・ウェイ」がヒットした1986年、日本でヒップホップをはじめたのはひじょうに早かったといえる。

その後、JAGATARAのOTOなどもメンバーとして迎えた人力ヒップホップバンド、ビブラストーンを結成、1989年のライブアルバム「Vibra is Back」(CHIKADA HARUO &VIBRASTONE名義)に続いて、初のスタジオアルバム「ENTROPY PRODUCTIONS」をこの年の7月3日にリリースした。これは好きでよく聴いていた。この年の梅雨は長かった。フリッパーズ・ギター、待望のアルバム「ヘッド博士の世界塔」がリリースされるまでは、あと少しだった。

(次回に続く)

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