菊池桃子の名曲ベスト10
菊池桃子は1968年5月4日に東京の品川区で生まれ、1983年にラジオ、雑誌、翌年には映画、レコードでデビューを果たすとたちまち大人気となり、1985年からはシングルが7作連続でオリコン1位を記録した。1988年にはバンド、ラ・ムーのボーカリストとして活動を開始するが、当時は時代を先取りすぎていたのか、それほど正当に評価されなかった。ところが時を経て2010年代後半以降のシティ・ポップ・リバイバルの流れで再評価されるようになり、2021年には楽曲のストリーミング配信も開始された。今回はそんな菊池桃子の楽曲の中から、これは特に名曲なのではないかと思えるものを泣きながら10曲だけに絞ってあげていきたい。
10. SUMMER EYES – 菊池桃子 (1984)
1984年7月10日にリリースされた菊池桃子にとって2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高7位を記録した。デビュー・シングルの「青春のいじわる」に続いて、作詞が秋元康で作曲・編曲が林哲司である。当時のアイドルポップスの中ではシティ・ポップ的だった記憶があるのだが、いま聴いてみるとそれほどでもない。とはいえ、菊池桃子の音楽性がこの後、さらにシティ・ポップ化していくため、それらと比較するとということかもしれない。当時のアイドルはデパートの屋上でキャンペーンというものを行いがちであり、ミニコンサートと握手会のようなものである場合が多く、いまでいうところのリリースイベントにあたる。この曲のキャンペーンで札幌のデパートの屋上に来た時に、シングルを買って見にいった記憶がある。初めて参加したアイドルの握手会であった。この頃から特徴的なウィスパーボイスで歌われていて、この曲においては「少しうつむいて」の後に小さな「ん」が入っているように聴こえなくもないところが、たまらなく好きだった。当時は、私はこんなにも好きなのにあの人は振り向いてくれない、というような暑苦しくも図々しい片想いのかたちというものが見受けられがちであり、個人的には恋愛というのは好きになった方が一方的に悪いという考えを持ちながらもなかなか賛同を得られていなかったため、「ごめんね好きだったこと」と歌われるこの曲で、菊池桃子のことがさらに好きになった記憶がある。
9. OCEAN SIDE – 菊池桃子 (1984)
菊池桃子のデビュー・アルバム「OCEAN SIDE」は1984年9月10日に発売され、この頃にはすっかりファンになっていたため、もちろん発売されてすぐに買った。アイドルのデビュー・アルバムなのにジャケットが顔写真のアップではなく、海に仰向けで浮いているというわりと攻めた感じではあったのだが、アルバムの内容がまたさらにすごかったのである。菊池桃子のボーカルはシングルと同じくウィスパーボイスなのだが、サウンドがバリバリのフュージョン/AOR的な演奏となっていて、そのバランスがひじょうに独特であった。このような音楽に相応しい、まったくマッチョ的ではなく軟弱にも聴こえる男声コーラスがまたとても良い。菊池桃子のアルバムはこの先もこんな感じではあるのだが、これが後にシティ・ポップとして再評価されることになるとは、この時には想像することすらできなかった。
8. もう逢えないかもしれない – 菊池桃子 (1985)
1985年以降、菊池桃子はシングルを7枚連続で1位にするわけだが、しかもその時期というのはおニャン子クラブ関連のレコードがヒットチャートを荒らしまくっていた時期であり、その中で確実に1位を継続していたところに人気の高さがうかがえるというものである。この曲も基本的にはウィスパーボイスで歌われているのだが、他の曲に比べるとやや素に近いように思えるところもあり、そこがまたとても良い。特に「そんな怒った顔を はじめて見たわ」のところにドキッとさせられる。恋が終わってしまいかねない不安な感じが絶妙に表現されていて、「あなたに枯れ葉の音がした」といったフレーズも効いている。
7. Nile in Blue – 菊池桃子 (1987)
1987年7月7月29日にリリースされた11枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでの最高位は2位、連続1位の記録がついに途絶えた。この次の「ガラスの草原」が最高4位で、ソロ歌手としてのリリースはここで一旦終了することになる。サウンド面ではシンセサイザーやシンセベースなどが効果的に用いられて、後にラ・ムーで展開される音楽性に少しずつ近づいていたようにも思える。個人的には当時よりも圧倒的に現在の方が楽しめるタイプの楽曲である。
6. 夏色片想い – 菊池桃子 (1986)
シングル曲においてはシティ・ポップ要素はわりと抑えられてもいたため、普通にアイドルポップスとして認識されていたように思える。この曲などもまったくそうであり、片想いのいたいけな感じがヴィヴィッドに表現されたとても良い曲である。「聞いて un deux trois」以下のところが特にキャッチーで、とても親しみやすい。
5. Rainy Night Lady – RA MU (1988)
1988年9月14日にリリースされた、ラ・ムー唯一のアルバム「THANKSGIVING」の1曲目に収録された曲である。アイドルの菊池桃子がロックバンドを結成、とわりと話題になっていたラ・ムーだが、ロックというよりはファンクとかR&Bなのではないかとか、サウンドはカッコいいのだがボーカルが相変わらずのウィスパーボイスでまったく合っていないのではないか、などとわりとネタ的に消費されていき、セールスも2枚目のシングル「少年は天使を殺す」がオリコンで最高4位を記録したのをピークに下降していき、翌年のシングル「青山Killer物語」(オリコン最高19位)が最後のリリースとなった。しかし、いま聴くと確実にカッコよく、ボーカルにもウィスパーボイスならではの素晴らしさが感じられる。
4. Mystical Composer – 菊池桃子 (1986)
菊池桃子の楽曲がストリーミングで配信開始されたところ、日本のリスナーにはかつてのヒット曲がよく聴かれているのだが、海外のリスナーに最もよく聴かれているのは3作目のアルバム「Adventure」に収録されたこの曲なのだという。竹内まりやのアルバム「VARIETY」から「プラスティック・ラヴ」が海外のリスナーによって発見された時に近い感覚がある。竹内まりやの「VARIETY」は菊池桃子のデビュー・シングル「青春のいじわる」の4日後(1984年4月25日)に発売されていた。
3. 渋谷で5時 – 鈴木雅之、菊池桃子 (1993)
ラ・ムーでの活動を終了した後、菊池桃子は歌手としての活動を行わず、女優業などを中心に活動することになった。1991年には自作曲も収録したアルバム「Miroir-鏡の向こう側に-」をリリースし、1993年には鈴木雅之のアルバム「Perfume」に収録された「渋谷で5時」にデュエットで参加した。鈴木雅之の希望によってオファーが出されたのだが、歌唱力に自信が持てず、一度は断っていたのだという。この曲は鈴木雅之のシングル「違う、そうじゃない」のカップリングとしてカットされた後、1996年に別ミックスがマキシシングルでリリースされ、東京テレメッセージのCMソングにもなった。若者の街、渋谷でも「渋谷系」的というよりは、よりコンサヴァティヴな恋人たちを描いていると思われるが、後に野宮真貴にカバーされるなどして、「渋谷系」クラシックスの1つとされる場合もある。
2. 卒業-GRADUATION- – 菊池桃子 (1985)
菊池桃子の5枚目のシングルで、オリコンで初めて1位に輝いた曲である。個人的にちょうど高校を卒業する年に発売されたのだが、この年には他に尾崎豊、斉藤由貴、倉沢淳美も「卒業」というタイトルのそれぞれ別の曲をリリースしていた。大学受験のために泊まっていた東京のホテルの部屋で友人たちと騒いだ後、灯りを消してラジオをつけたまま寝ようとしていると、文化放送の「ミスDJリクエストパレード」でこの曲がかかり、とてもセンチメンタルな気分になったことが思い出される。春の木漏れ日のようなイントロが素晴らしく、それだけで意識がタイムスリップしてしまうのだが、それから一気に聴いてしまえる。一般的に菊池桃子の代表曲といえば、これでほぼ間違いがないはずであった。
1. 愛は心の仕事です – RA MU (1988)
菊池桃子のことはデビューした年にとても大好きでレコードも毎回買っていたのだが、「卒業-GRADUATION-」のタイミングで個人的にも高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめることになった。夏休みに実家に帰ってみると、その後は妹が菊池桃子のレコードを買い続けているようであった。ラ・ムーでの活動が開始された頃には大学の春休みで帰省していたのだが、テレビで見てこれはかなり微妙なのではないかと妹との間でも意見が一致していた。当時、一般的にそう見られていた印象があるのだが、当時からこの音楽性を高く評価していた人もいたのだろうか。2016年にとあるDJパーティーに足を運んでみたところ、生前のECDが蛭子能収デザインの東京オリンピックのTシャツを着て、小泉今日子「Fade Out」、レベッカ「MOON」と共にこの曲もかけていて、もしかするとこれはとてもカッコいいのではないかと感じた。このイベントは、いま思うと偶然にもこの年の菊池桃子の誕生日に開催されていた。この間に自分自身や世の中に一体どのような変化が起こって、このようになったのかは定かではないのだが、約30年ぐらいも経てばそれは変わるというものなのだろうか。妹にも意見を聞いてみたいところである。