ビリー・ジョエルの名曲ベスト20
ビリー・ジョエルの名曲ベスト10をやってみようと思い立ったのだが、結論からいってしまうとうまくまとまらずに、ベスト20になってしまった。
まず特に70年代から80年代にかけて数多くのヒット曲があるのに加え、ヒット曲ではないのだがファンからとても人気がある隠れた名曲のようなものも少なくはない。また、ビリー・ジョエルといえば日本の音楽ファンにもひじょうに人気があるわけだが、好まれる曲の傾向が海外とはやや異なっているようなところもある。どちらともありで、両方楽しめるのはお得だとも思える。
これらをすべて考慮した上でできるだけ適切にバランス取ろうとしてみると、10曲ではとても足りないということになってしまう。それでなんとか完成したのがこのベスト20なのだが、もちろんディフィニティヴなものではあり得なく、こういうのもあるという程度にご覧いただければ幸いである。
20. You May Be Right – Billy Joel (1980)
1980年のアルバム「グラス・ハウス」からの先行シングルで、全米シングル・チャートで最高7位を記録した。邦題は「ガラスのニューヨーク」である。
アルバムのジャケットで黒の革ジャンにブルージーンズ姿のビリー・ジョエルは、ガラス張りの建物に向かって石を投げようとしている。バラードを得意とするピアノマンの印象も強かったであろうビリー・ジョエルが、このアルバムではロックンロール的な反逆のイメージをあえて狙ったようにも思える。
当時の日本人にとってニューヨークという街は強い憧れの対象であり、ビリー・ジョエルのプロモーションにあたっても、ニューヨーク出身であることは強調されていた印象がある。アルバムタイトルが「グラス・ハウス」で、冒頭にガラスが割れる音が入っているこの曲の邦題が「ガラスのニューヨーク」になったのもおそらくそのような気分によるものだと思われる。
この年を舞台にした小説「なんとなく、クリスタル」において、田中康夫はビリー・ジョエルに「ニューヨークの松山千春」という註釈をつけていた。
19. We Didn’t Start The Fire (1989)
アルバム「ストーム・フロント」から先行シングルとしてリリースされ、全米シングル・チャートで1位に輝いた。邦題は「ハートにファイア」である。
ビリー・ジョエルが生まれた1949年以降に起こった歴史上の出来事が次々と挙げられ、ミュージックビデオもそれにほぼ対応している。「ロックンローラーのコーラ戦争」、つまりかつては反逆の音楽であったはずのロックンロールでさえもが、いまやコーラを売るための広告媒体に成り下がってしまったということだと思われるが、そこまできたところで「もう我慢できない」と歌って怒りをあらわにする。
この曲が全米シングル・チャートを駆け上がっていて、6位まで上がっていた1989年11月11日にベルリンの壁が崩壊し、世界の様子はまた大きく変わっていった。
18. Big Shot (1978)
1978年のアルバム「ニューヨーク52番街」からシングルカットされ、全米シングル・チャートで最高14位を記録した。このアルバムも原題が「52nd Street」であるのに対し、邦題ではニューヨークが強調されている。
アルバムの1曲目に収録されたアップテンポな楽曲で、ミック・ジャガーがかつて妻であったビアンカに対して歌うのをイメージしていたともいわれている。
「ニューヨーク52番街」はビリー・ジョエルが「ストレンジャー」で大ブレイクした後にリリースしたアルバムだが、全米アルバム・チャートで1位に輝いた上に、グラミー賞でも最優秀アルバム賞を受賞した。
1982年に日本でコンパクトディスクが初めて発売された時、カタログの1番目はこのアルバムであった。また、2010年代後半以降のアナログレコードブームを受けて、2018年にソニーが国内生産を開始した時にも、洋楽第1弾としてこのアルバムが選ばれている。
17. Captain Jack (1973)
ビリー・ジョエルの2作目のアルバム「ピアノ・マン」に収録された曲で、シングルカットはされていないが人気が高く、ビリー・ジョエル自身にとってもひじょうに重要な楽曲となっている。
というのも、デビューアルバム「コールド・スプリング・ハーバー」が思うように売れず、カリフォルニアに渡ってバーでピアノの弾き語りなどをして暮らしていた頃、フィラデルフィアのラジオ局がこの曲のライブ音源を流したところ反響が大きく、それがきっかけでコロムビアレコードと契約することになったというのだ。
ニューヨーク郊外のアパートに住んでいた頃に、ビリー・ジョエルが日常的に目撃していたという、高い教育を受けさせてもらえていない若者たちが売人から麻薬を買い、住宅に入っていく様子などからイメージをふくらませて書かれたとされている。歌詞に「masturbate」という単語が出てくるのも印象的である。
16. Tell Her About It (1983)
1983年のアルバム「イノセント・マン」から先行シングルとしてリリースされ、全米シングル・チャートで1位に輝いた。邦題は「あの娘にアタック」である。
前作の「ナイロン・カーテン」がシリアスすぎる内容ゆえか、セールスが当時のビリー・ジョエルにしてはいまひとつで、批評家からの評価も芳しくはなかった。それから1年も経たずに発表されたニューアルバムは逆にエンターテインメントに徹した作品となっていて、これは大いに受けて6曲のシングルヒットを生んだ。
アルバムは全体的にビリー・ジョエルが影響を受けた懐かしのポップミュージックを下敷きにしているようで、年上からの恋のアドバイスという内容を持つこの曲には、特にシュープリームスあたりのモータウンのヒット曲からの影響が感じられた。
フィル・コリンズ「恋はあせらず」、ホリーズ「ストップ!イン・ザ・ネー、ウ・オブ・ラヴ」といったシュープリームスのカバーや、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「マンイーター」、日本では原由子「恋は、ご多忙申し上げます」など、この頃にはなぜかモータウンビートを用いたヒット曲がわりと多かった印象がある。
旭川のとある高校では2学期がはじまるとすぐに、学校祭のイベントのために好きな曲のアンケートが全校生徒に対して実施された。邦楽では杏里「CAT’S EYE」、そして洋楽ではビリー・ジョエルのこの新曲が圧倒的な強さで最も評をあつめていた。このイベントを企画して実際にアンケートを集計した本人が言っているのだから間違いはない。
15. Allentown (1982)
アルバム「ナイロン・カーテン」から2枚目のシングルとしてカットされ、全米シングル・チャートで最高17位を記録した。
「ナイロン・カーテン」はビリー・ジョエルにとっての「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」だと本人からも語られていて、シリアスなテーマが扱われていたり、音楽的にも実験性が見られる意欲作であった。しかし、セールス的には当時のビリー・ジョエルにしてはいまひとつで、評価も厳しいものであった。しかし、ファンからの人気はそれほど低くはないような気もする。
アメリカの不況をテーマにしたこの曲は、「ナイロン・カーテン」からカットされたシングルの中で最もヒットしたのだが、それでもトップ10入りを逃がしていた。シリアスなテーマを扱ったポップソングとしてはひじょうにクオリティーが高く、ビリー・ジョエルらしいポップセンスも感じられるとは思えるのだが。
14. Honesty (1978)
アルバム「ニューヨーク52番街」から3枚目のシングルとしてカットされ、全米シングル・チャートでは最高24位を記録した。
日本のファンにはこのアルバムに収録された曲の中で最も人気が高いというか、ビリー・ジョエルの全楽曲の中でもかなり人気が高い方の曲なのではないかというような気もする。ネッスルチョコホットという粉末のココアのようなもののテレビCMで流れていたのを覚えている人たちも多いのではないかと思われる。当時、ココアを飲むと頭が良くなるという説がなぜか流布していたような印象があり、特に中学生などには人気があった記憶がある。
それはそうとして、この曲によって「Honesty」というい単語が正直、誠実というような意味を持ち、「ホネスティ」というローマ字読みではなく、「オネスティ」と読むのだと知った日本人は少なくはないような気がする。カラオケにもわりと早くから入っていたし、わりと歌いやすかったりもする。
メロディアスなピアノのバラードで途中にドラマティックな展開もあり、なんとなく都会的なムードも漂っている。当時、日本のファンがビリー・ジョエルに求めていたものがこの曲に凝縮されているような気もする。
アメリカではシングル・チャートの最高位がそれほど高くはない上に、1985年に初のベストアルバム「ビリー・ザ・ベスト」がリリースされた時にも初回盤を除いては収録されていなかったが、日本盤には「グラス・ハウス」からの「ドント・アスク・ミー・ホワイ」に替わって収録されていた。
13. It’s Still Rock And Roll To Me (1980)
アルバム「グラス.・ハウス」から2枚目のシングルとしてリリースされ、全米シングル・チャートで1位に輝いた。ビリー・ジョエルの全米シングル・チャートでの1位は、意外にもこれが初めてであった。邦題は「ロックンロールが最高さ」である。
パンク/ニュー・ウェイヴ以降の1980年のラジオにおいて、この曲はコンテンポラリーなヒット曲として機能していた記憶がある。
ロックンロール賛歌のように聴こえるこの曲が、実はけしてセンチメンタルな懐古趣味ではなく、ニュー・ウェイヴに対するビリー・ジョエルからの回答的になっているところがとても良い。
12. Goodnight, Sigon (1982)
アルバム「ナイロン・カーテン」から3枚目にして最後のシングルとしてカットされ、全米シングル・チャートでは最高56位を記録した。
とはいえ、この順位が示している以上によく知られ、印象にも残っている曲である。
ビリー・ジョエル自身はベトナム戦争で戦ってはいないが、帰還した友人たちの話を聞いて書かれたのがこの楽曲だという。
直接的な主張ではなく、具体的な描写を連ねていくことによってメッセージを伝えていくタイプの楽曲であるように感じられ、ボーカルパフォーマンスもひじょうにエモーショナルである。
プロペラの羽根の音で始まるイントロも印象的である。
11. Vienna (1977)
大ヒットアルバム「ストレンジャー」のB面1曲目に収録され、シングルとしては「素顔のままで」のB面として発売されている。
ビリー・ジョエルがまだ幼い頃に、父は家を出ていってしまったという。そして、大人になってからウィーンの街に訪ねていった、その時のことがこの曲にインスピレーションをあたえたようだ。
ビリー・ジョエル自身によって、特に気に入っている自作曲の1つとして挙げられている。
10. My Life (1978)
「ニューヨーク52番街」から最初のシングルとしてリリースされ、全米シングル・チャートで最高3位を記録した。
当時の日本の若者たちからやや盲目的に憧れられてもいた、理想化されたアメリカの自由で陽気なイメージを体現した曲のように感じられた。
歌詞の初めの方に「American way」「west coast」「L.A.」といった単語が出てくるのも良かったし、人に何て言われようと気にしない、これは僕の人生だから、というようなフレーズについてもそうである。
9. Movin’ Out (Anthony’s Song) (1977)
アルバム「ストレンジャー」からシングルカットされ、全米シングルチャートで最高17位を記録した。日本ではシングルとしては「ストレンジャー」のB面として発売された。
労働者階級ものの1つであり、資本主義社会の歯車となり、小金を貯めて贅沢を夢見るようなことから、自分は降りて気楽にやるぜ、というようなことが歌われている。
ビリー・ジョエルの楽曲を使ったミュージカルのタイトルにもなった。
8. Summer, Highland Falls (1976)
1976年のアルバム「ニューヨーク物語」(原題:Turnstiles)に収録された曲で、邦題は「夏、ハイランドフォールズにて」である。
隠れた名曲枠にしては順位が高すぎるような気のするのだが、ビリー・ジョエル自身が特に気に入っている自作曲に挙げているのみならず、実際にとても良い曲である。
「人々はいまは良い時代ではないと言うけれど、僕が知っているのはこの時代だけなんだ」というような歌い出しからして、若さが迸っているようで良いものである。
「ニューヨーク物語」はリリース当時それほどヒットしなかった(全米シングル・チャートでは最高122位)こともあり、この曲についても1981年のライブアルバム「ソングズ・イン・ジ・アティック」で初めて聴いた人がわりと多いような気もする。
7. The Stranger (1977)
大ヒットしたアルバム「ストレンジャー」のタイトルトラックで、海外ではほとんどの国でシングルカットしていなく、人気曲ランキングのような企画でもほとんど挙がることがないような気がする。
しかし、日本では独自にシングルカットされ、1978年の夏にオリコン週間シングルランキングで最高2位(その週の1位はピンク・レディー「モンスター」であった)の大ヒットを記録している。当時、まだ洋楽を主体的には聴いていない旭川の小学生でも知っているほどこの曲はヒットしていたし、ラジオや喫茶店の有線放送などでもよくかかっていた。きっかけとなったのは、テレビCMだったといわれているが。
ピアノのイントロに口笛のメロディーがわりと長めに続いて、それから急にアップテンポになる構成も特徴的であった。
都会的でお洒落な感覚が受けていたようにも思えるが、実は人間の持つ二面性というような心理的なテーマを扱っていたのであった。
この曲がなぜ当時の日本であれほどまでもヒットしたのかについてはよく分からないのだが、あまりにも記憶に残りすぎていて、やはりこのようなリストに入れないわけにはいかないような気がする(先ほども話題にしたように、海外のこの手のリストにはほとんど入っていなかったと思う)。
6. Uptown Girl (1983)
「イノセント・マン」からシングル・カットされ、全米シングル・チャートで最高3位、全英シングル・チャートでは初の1位に輝いている。
ワーキングクラスの男性が裕福な女性に分不相応な恋をするという内容の曲だが、階級社会のイギリスではより受けやすいところがあったのだろうか。2001年にはウェストライフによるカバーバージョンも、全英シングル・チャートで1位に輝いている。
音楽的にはオールディーズ路線で、とてもキャッチーで分かりやすい。日本で90年代の初めに大ヒットしたKAN「愛は勝つ」の曲調もこの曲にインスパイアされたといわれている。KANはビリー・ジョエルの大ファンとして知られている。
この曲のミュージックビデオに裕福な女性役で出演しているクリスティ・ブリンクリーはビリー・ジョエルと結婚することになるが、後に離婚している。
5. Only The Good Die Young (1977)
「ストレンジャー」から3枚目のシングルとしてカットされ、全米シングル・チャートでは最高24位を記録した。邦題は「若死にするのは善人だけ」である。
アップテンポで軽快な曲調とビリー・ジョエルの乗りに乗ったボーカルが魅力的な曲である。
歌詞で主人公の男性はカトリックの女の子に求愛をするのだが、このくだりにカトリック関係の人たちからクレームが寄せられ、放送禁止になったりもしていたという。しかし、これが逆に宣伝になって、アルバムの売れ行きが伸びたともいわれている。
いずれにしても、ここでのボーカルパフォーマンスは絶好調なのだが、主人公は実在のモデルが存在するといわれるカトリックの女の子をモノにできなかったようだ。
4. Just The Way You Are (1977)
「素顔のままで」で知られるとても有名な曲で、アルバム「ストレンジャー」から最初のシングルとしてリリースされ、全米シングル・チャートで最高3位を記録した。グラミー賞では最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞を受賞している。
あまりにも有名すぎて聴かれすぎたような気もしなくもないのだが、やはり良い曲には違いがないし、こういうリストには入れておくべきではないかと思う。
サザンオールスターズの桑田佳祐は嘉門雄三の名義でリリースした1982年のライブアルバムで「さよならハリウッド」「ガラスのニューヨーク」をカバーしたり、原由子のリードボーカル曲で高田みづえのカバーバージョンがヒットした「私はピアノ」の歌詞では「雨のふる夜にはビリー・ジョエル」というフレーズを書くなど、ビリー・ジョエルが好きなのだろうと思わされるところがある。
「素顔のままで」についても、「素顔で踊らせて」には「素顔のままでいい」というフレーズがあったり、「ボディ・スペシャルⅡ」の歌詞には「ありのままに Just the way you are」と原題まで登場している。
3. New York State Of Mind (1976)
ビリー・ジョエルが「ストレンジャー」でブレイクする1つ前のアルバムが「ニューヨーク物語」だが、原題は「Turnstiles」であり、ここでもニューヨークのイメージを強調していこうというような意図があったのではないかとも感じられる。
それはそうとして、このアルバムそのものは全米アルバム・チャートで最高122位とそれほどヒットしなかったのだが、「ニューヨークの想い」の邦題でも知られるこの曲はビリー・ジョエルのレパートリーの中でもひじょうに人気が高いといえる。
デビューアルバムが売れなかった後、ビリー・ジョエルはカリフォルニア州に渡り、バーでピアノ弾き語りをやったりしていたというのだが、やはり故郷のニューヨークに帰ることになった。この曲はその途上のグレイハウンドバスの中で書かれたといわれているようだ。
タイトルがあらわしているように、ニューヨークへの想いが歌われていて、これもあって田中康夫は「なんとなく、クリスタル」でビリー・ジョエルに「ニューヨークの松山千春」と註釈をつけたのかもしれない。
2. Scenes From An Italian Restraunt (1976)
アルバム「ストレンジャー」のA面最後に収録された曲で、邦題は「イタリアン・レストランで」である。シングルカットはされていないがひじょうに人気が高く、また、ビリー・ジョエルのバラードとアップテンポの曲での魅力が1曲のうちでどちらも味わえるという特徴も持つ。
白ワインか赤ワイン、それともロゼはどうだろうか、というような歌い出しからとても洒落ていて良い感じの再会が歌われるのだが、それから近況や過去の思い出話に花が咲いたりもする。曲調はバラードだったりアップテンポになったりジャズのようだったりと変化していき、約7分半という長めの曲だが飽きさせることがない。ビートルズ「アビイ・ロード」に収録されたメドレーにインスパイアされたともいわれている。
ヒット曲ではないのだが、ビリー・ジョエルの代表的な名曲として評価が定着しかけている(いや、もうしているだろうか)ような気がする。それにしても、「ストレンジャー」というのはすごいアルバムだったのだなということを改めて思い知らされるのである。
1. Piano Man (1973)
ビリー・ジョエルの2作目のアルバム「ピアノ・マン」のタイトルトラックで、最初のヒットシングルでもある。全米シングル・チャートでの最高位は25位であった。
アルバム「ストレンジャー」以降のヒット曲を中心に考えた場合、「ピアノ・マン」は初期の代表曲という印象ではあるのだが、ビリー・ジョエルで最も有名な曲といえばこれというコンセンサスは形成されているようでもある。
デビューアルバム「コールド・スプリング・ハーバー」が売れずに、ロサンゼルスのバーでピアノ弾き語りをしていた頃の体験が元になった曲だという。歌詞に登場する様々なキャラクターにも、モデルがそれぞれ実在しているようだ。