山下達郎「クリスマス・イブ」とその時代の記憶

山下達郎の「クリスマス・イブ」といえばいまや日本で最も有名なクリスマスに関する曲といっても過言ではなく、2015年には30年間毎年ヒットチャートにランクインし続けた結果、ギネス世界記録にも認定されたという。何度も発売されているこの曲だが、2021年12月15日にはその現在までのところ最新バージョンにあたるシングル「クリスマス・イブ(2021 Version)」がリリースされる。内容は表題曲とカップリングの「ホワイト・クリスマス」に加えて、ステイホームなコロナ禍を反映して「Blow」「Misty Mauve」「Mighty Smile(魔法の微笑み)」のおうちカラオケ、「おやすみロージーーAngel Babyへのオマージュー」「Love Can Go The Distance」のおうちアカペラに「クリスマス・イブ」のオリジナルカラオケを収録した8曲入りとなっている。

それを記念してというわけでもないのだが、この名曲が初めてレコードとして発売されてからスタンダード化するに至るまでを偶然にもリアルタイムで体験することができたものの一人として、当時の社会的な背景や個人的な記憶などについて思い出したり考えたりしながら書いていきたい。

「クリスマス・イブ」は1968年6月8日に発売されたアルバム「MELODIES」の収録曲として、まずは世に出た。季節は初夏であり、しかも当時の山下達郎といえば「夏だ! 海だ! タツローだ!」というキャッチフレーズがあったぐらいに夏のイメージが強かった。このアルバムからの先行シングル「高気圧ガール」も全日空リゾートピア沖縄のキャンペーンソングとなっていて、やはり夏っぽい曲であった。

山下達郎といえばソロ・アーティストとしての活躍の前に伝説のバンド、シュガー・ベイブがあるわけだが、たとえば日本のロック&ポップス名盤として評価が定着している「SONGS」が発売された1975年に北海道の小さな町で小学生だった私が知っていたかというとまったく知らず、日本のポップソングといえばダウン・タウン・ブギウギ・バンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」、岩崎宏美「ロマンス」、布施明「シクラメンのかほり」のようなものとして認識していた。

70年後半には日本国民の生活水準が上がっていって、四畳半フォークからニューミュージックへとトレンドの変化もそれを反映していたように思える。この辺りを自らもちゃんと言ってしまっていたのが、ユーミンこと松任谷由実である。当時はまだ結婚していなくて荒井由実だったが、「あの日にかえりたい」がオリコン週間シングルランキングで1位、年間でも10位を記録したのは1976年であった。ちなみにその年の年間1位が、子門真人「およげ!たいやきくん」である。

それはそうとして、80年代はジュリーこと沢田研二がパラシュートを背負ってド派手な衣装で歌った「TOKIO」で幕を開けるのだが、同じく「テクノポリス」において東京をTOKIOと表現したYMOことイエロー・マジック・オーケストラが空前のテクノブームを巻き起こしたり、田原俊彦や松田聖子がデビューするとヒットチャートをも席巻し、アイドルポップスの復権を印象づけた。テレビではB&B、ザ・ぼんち、ツービート、紳助・竜介といった新感覚の漫才師たちが大人気であり、なんとなく時代がライトでポップな方向に向かっていっているような感覚があった。

そして、山下達郎はマクセルカセットテープのテレビCMで膝まで海につかりながら、朝日に向かって指でピストルを撃っていた。CMソングとして使われていた「RIDE ON TIME」はオリコン週間シングルランキングで最高3位のヒットを記録するのだが、「ザ・ベストテン」にはランクインしていなかったので、当時はそこまで売れていたとは知らなかった。

1981年にはオリコン年間アルバムランキングの1位と2位が寺尾聰「リフレクションズ」、大滝詠一「ロング・バケイション」で、タイプは違っているもののいずれも都会的な洗練が大衆に求められたことの証左でもあるように思える。そして、いずれにおいても多くの歌詞を書いていたのが松本隆であった。この年に漫才ブームは早くもやや落ち着きかけていたのだが、フジテレビ系で「オレたちひょうきん族」が放送を開始し、エンディングテーマ曲は1980年にデビューした女性アーティスト、EPOの「DOWN TOWN」であった。その曲はかつて山下達郎が所属していたバンドのカバーだということがいわれていた。

大滝詠一が当時、一般大衆的にはほとんど無名に近かった佐野元春、杉真理とナイアガラ・トライアングル名義で秋に化粧品のCMソングでもあったシングル「A面で恋をして」、翌年にはアルバム「ナイアガラ・トライアングルVol.2」そリリースし、ヒットさせる。山下達郎はアルバム「FOR YOU」をリリースし、オリコン週間アルバムランキングで1位に輝く。イラストレーターの鈴木英人によるジャケットアートワークはファッションアイテム化したようなところもあり、この前の年に創刊された雑誌「FM STATION」での表紙やカセットレーベルのイラストは大好評であった。夏にはベストアルバム「GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA」もリリースされ、最高2位を記録したのであった。

ちなみに1981年には松任谷由実が薬師丸ひろ子主演の映画「ねらわれた学園」の主題歌としてリリースした「守ってあげたい」が、オリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録した。当時の中高生にとって松任谷由実とは、少し年上の人たちが聴くアーティストという印象でもあったのだが、このヒットによって一気に親しみやすくなった。「守ってあげたい」のキャッチコピーは「才能のきらめきは不思議世代を惑わすか」であり、新世代のファン獲得を目的としていたのではないかと思われる。そして、それは見事に成功した。

クリスマスソングといえば当時はまだ「ジングル・ベル」「赤鼻のトナカイ」「きよしこの夜」といった、スタンダードナンバーを指すものであった。ただし、松任谷由実の「恋人がサンタクロース」は秘かに人気があったような気がする。この曲は1980年にリリースされたアルバム「SURF&SNOW」の収録曲で、シングルではリリースされていなかった。

クリスマスとは家族と過ごす特別な日だったのだが、いつしか恋人と過ごす日ということになっていた、などとよくいわれるのだが、日本におけるクリスマスの受容史をさかのぼっていくと、それ以前に非日常的な乱痴気騒ぎの口実のように捉えられていた頃もあったようであり、それは第2次世界大戦がはじまるよりも以前の話である。戦後の高度成長期に入ってから、クリスマスは家族で過ごす特別な日という概念は生まれたらしく、その歴史は意外と短かったのだということが分かったりもする。

それで、恋人と過ごすクリスマスなのだが、1983年ぐらいの女性向け雑誌ではクリスマスを恋人と過ごすことが提唱されたりもして、それは山下達郎の「クリスマス・イブ」がリリースされた年でもあった。とはいえ、この曲はご存知の通り、一人きりのクリスマスがテーマになっている。その前提として、理想的なのは恋人と一緒に過ごすことだということがあるのだが、そのイメージの形成において松任谷由実「恋人がサンタクロース」はわりと重要な役割を果たしていたようにも思える。

1982年に高校に入学した私は、放送部(その高校では放送局と呼んでいたが)の先輩から「ナイアガラ・トライアングル」の最初のアルバムを聴かせてもらったりするのだが、それで山下達郎や伊藤銀次も大滝詠一のナイアガラ一派だったということを知る。当時、伊藤銀次は佐野元春の作品にも深く関わっていた。佐野元春はナイアガラ・トライアングルへの参加を経て「SOMEDAY」のアルバムでブレイクするのだが、翌年にはベストアルバム「No Damage」がオリコン週間アルバムランキングで1位に輝き人気絶頂だったのだが、そのまま単身でニューヨークに旅立つ。

その頃、わりと気に入ってよく聴いていたカセットテープには、山下達郎「高気圧ガール」やイエロー・マジック・オーケストラ「君に、胸キュン。」が(一風堂「アフリカン・ナイツ」、沢田研二「晴れのちBLUE BOY」などと共に)入っていた。80年代に入ってからアイドルポップスもすっかり息を吹き返し、1982年には中森明菜や小泉今日子をはじめ、人気女性アイドルがたくさんデビューしたため、「花の82年組」などとも呼ばれていた。個人的に松本伊代と共に好きだったのが早見優で、ファンクラブにまで入っていたのだが、帰国子女的なポップ感覚が魅力なのにもかかわらず、なんとなく辛気くさいシングルが続いて歯がゆいと感じていた。ところが、ここでコカコーラのCMにも使われた「夏色のナンシー」がポップでキャッチーで素晴らしく、やはりヒットしたのであった。

早見優はインタヴューでハワイに住んでいた頃にビーチ・ボーイズやカラパナをよく聴いていたと言っていて、その影響で私もビーチ・ボーイズのベストアルバムを買ってみたりした。1982年の夏休みにはクラスメイトたちとキャンプに行ったのだが、私が持っていった山下達郎とビーチ・ボーイズのカセットテープはわりと好評であった。

そして、山下達郎の「MELODIES」も発売されてすぐに買ったのだが、旭川の平和通買物公園にあったミュージックショップ国原だったかイトーヨーカドーの地下にあった玉光堂だったかはよく覚えていない。山下達郎にとってはレーベルを移籍してから初のアルバムであり、収録曲の大半の歌詞も書くなど、それまで以上に気合いが入っているように思えた。当時、NHK-FMの「サウンドストリート」という番組で、木曜日を山下達郎は担当していたのだが(他の曜日は佐野元春、坂本龍一、甲斐よしひろ、渋谷陽一)、が「MELODIES」収録の「夜翔(Night-Fly)」について、こういうタイトルを付けるとすぐに日本人はドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」のパクりではないか、というようなことを言いたがる、などと言っていたことをなぜかしっかりと覚えている。

それはそうとして、1曲目の「悲しみのJODY(She Was Crying)」からすでに素晴らしく、「高気圧ガール」やB面1曲目のファンキーな「メリー・ゴー・ラウンド」などひじょうに充実していて、その最後であるB面5曲目に「クリスマス・イブ」は収録されていた。アルバムの最後にひっそりと収録されていた、などとも言われているのだが、当時から一つのハイライトだとは多くのリスナーが感じていたと思われ、特に一人アカペラのところなどは圧巻であった。

CDはこの前の年の10月から発売はされていたが、一般大衆にはまったく普及していなく、私が買った「MELODIES」ももちろんアナログレコードだった。針を落として再生していき、内周にいくにつれて音質が落ちていくのは構造上仕方がないことだというのだが、私が使っていたプレーヤーが良くなかったのか、「クリスマス・イブ」の肝心のコーラスのところでは音が潰れたようになっていて、フルには楽しめなかったような気もする。それでも、この曲がすさまじいクオリティーを備えていることはなんとなく伝わった。そして、一人きりのクリスマスという寂しげなシチュエーションも共感するにはじゅうぶんであった。しかし、聴いたのは6月のことであり、クリスマス気分はまったくない。これから夏に向かって盛り上がろうというのにクリスマスソング、このシュールな感じもそれはそれで楽しむことができたような気がする。

この年の12月14日に「クリスマス・イブ」はシングル・カットされるのだが、すでに約半年前に出たアルバムがかなり売れていたことに加え、限定生産だったこともあって、オリコン週間シングルランキングでの最高位は44位であった。

1985年の秋に発表されたプラザ合意がきっかけとなって、日本にバブル景気が訪れたとされている。おニャン子クラブがブレイクし、阪神タイガースが21年ぶりの優勝を果たし、「ビックリハウス」が休刊したのもこの年だったのだが、ドリフターズの長寿番組「8時だョ!全員集合」が秋で放送を終了した。その裏番組でもあった「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマ曲はEPOの「DOWN TOWN」から「土曜の夜はパラダイス」、麻香ヨーコ「グラマー・ボーイ」をはさんで山下達郎の「パレード」、ふたたびEPOで「涙のクラウン」、そして新録音された「DOWN TOWN」に続いて、この年の10月からは山下達郎「土曜日の恋人」が使われる。それ以降は「土曜日は大キライ」「SATURDAY NIGHT ZOMBIES」「恋はNo-return」から最終回の「卒業写真」まで、松任谷由実の曲が使われることとなった。

1986年に女性ファッション誌「non-no」の男性版として「MEN’S NON-NO」が創刊されると大人気となり、男の子もファッションやヘアスタイルなどにかなり気を遣うようになっていった。「POPEYE」「Hot-Dog PRESS」などではデートやセックスのマニュアルが掲載され、それに対応するように女性からの期待も高まっていった。これらにはほとんどお金がかかるわけであり、バブル景気が恋愛市場を潤したともいうことができる。村上春樹の小説「ノルウェイの森」は1987年9月4日に発売され、上下巻の表紙がそれぞれ赤と緑というクリスマスカラーであった。クリスマスプレゼントに贈ることが想定されていたなどともいわれていて、帯には「100パーセントの恋愛小説!!」というコピーが躍っていた。

この年の11月21日には原田知世と三上博史が主演した映画「私をスキーに連れてって」が公開され、松任谷由実の音楽が全編で使われている。「SURF&SNOW」に収録された「恋人がサンタクロース」「サーフ天国、スキー天国」などが新たなファンを獲得し、知名度を上げるきっかけとなる。12月5日には松任谷由実のアルバム「ダイアモンドダストが消えぬまに」がリリースされるのだが、これ以降、「Delight Slight Light KISS」「LOVE WARS」までが「純愛三部作」とされることになる。とんねるずが司会のお見合い番組「ねるとん紅鯨団」が放送を開始するのも、この年の10月3日である。

クリスマスイブの夜をいかに恋人とゴージャスに過ごすかというのが、当時の若者にとってはひじょうに切実な問題であり、特に赤プリこと赤坂プリンスホテルのスイートルームは宿泊料金が何万円もするにもかかわらず、9月にはクリスマスイブの予約がすべて埋まっていたともいわれる。クリスマスの朝にチェックアウトした後、翌年の分を即座に予約する者も少なくはなかったという。チェックアウトのために男性が長蛇の列を朝からつくるわけだが、待っている女性のほとんどは水色の紙袋、つまりプレゼントされたティファニーのオープンハートが入ったそれを持っていたともいわれている。

というような説明にいま一つ歯切れが悪いのは、この年のクリスマスイブの私が見栄を張ってアルバイトは休みを取ったものの、特に一緒に過ごす相手もいなく、部屋でピザーラの宅配ピザをつまみながら、桑田佳祐、松任谷由実、明石家さんまなどが出演した日本テレビの特別番組「メリー・クリスマス・ショー」を見ていたからである。

この年のトピックの一つとして、国鉄の分割民営化というのがある。これによってJR東海こと東海旅客鉄道も発足するのだが、その最初のPR企画としてヒットしたのが、東京発新大阪行き最終列車のひかり289号にスポットを当て、新幹線を舞台にした遠距離恋愛をテーマにした「シンデレラ・エキスプレス」である。これは、当時のJR東海の社員であった坂田一広が実際に遠距離恋愛をしていた実体験から生まれた企画だったのだという。CMソングを松任谷由実が担当した。

このヒットに続いてJR東海が手がけたのが、女の子たちの旅を応援する「アリスのエクスプレス」で、キャッチコピーは「距離に負けるな、好奇心」であった。そして、その次が同窓会的なコンセプトでCMソングにはベリンダ・カーライルが使われていた「プレイバック・エクスプレス」、そして、1988年には若者が都会での仕事のプレッシャーから逃れたりするために実家の親に会いに帰る「ホームタウン・エクスプレス」が制作される。この年のクリスマスシーズンにはこれのクリスマス篇が放送されるのだが、CMソングとして山下達郎が5年前にリリースした「クリスマス・イブ」が使われた。昭和で最後のクリスマスである。

遠距離恋愛をしているカップルの再会がテーマになっていて、おそらく地元で帰って来るであろう恋人を待つ女性を当時まだ15歳だった深津絵里が演じる。新幹線から大勢の人々が降りてくるのだが、その中に恋人の姿はなく、悲しくて涙ぐんでしまう。すると、柱の陰からムーンウォークをする恋人が出てくるという展開である。「きっと君は来ない ひとりきりのクリスマス・イブ」という歌詞をトレースするような悲しい内容かと思いきや、ハッピーエンドでオチをつける。「帰ってくるあなたが最高のプレゼント」というキャッチコピーも効いている。ちなみに撮影時に深津絵里は高熱を出していたため、化粧が厚めになっているという。

これが好評で翌年から「クリスマス・エクスプレス」というシリーズがはじまるのだが、これに伴いCMソングとして使われていた「クリスマス・イブ」の売り上げが伸びて、発売から6年後にしてオリコン週間シングルランキングで1位に輝いたのであった。雨は夜更け過ぎに雪へと変わるように、元号は昭和から平成に変わっていた。1989年のCMには当時、17歳の牧瀬里穂が出演していて、キャッチコピーは「ジングルベルを鳴らすのは帰ってくるあなたです」であった。この後、「クリスマス・エクスプレス」のシリーズは1992年まで続く。バブル景気が終わったとされる翌年のことである。

「クリスマス・イブ」は元々、竹内まりやのアルバム用に1981年ぐらいに書かれていたのだが、採用されなかったといわれている。クリスマスソングを書こうというつもりはなく、コード進行がバロックの「クリシェ」に近いことからクリスマスソングにしようと思いつき、パッヘルベルの「カノン」を間奏に入れようということもなったのだという。

山下達郎はシュガー・ベイブ時代に「雨は夜更け過ぎ」と歌い出される曲をつくりかけていて、1975年1月24日に新宿厚生年金会館で行われたコンサートで公開されるものの、結局は未完成に終わった。歌い出しの歌詞はこれに由来しているようだ。

クリスマスのスタンダードとして様々なシチュエーションでこの曲を聴くことがあり、個人的な思い入れなど持てなくなりそうでもあるのだが、やはりあの旭川の実家の部屋で初夏に聴いていたリアリティーがいまでも心に残っている。そういった意味で、思い入れの質が一般的なそれとはやや異なっている可能性がひじょうに高いのだが、それでもこの曲が大好きである。そして、クリスマスシーズンにもまた聴いている。

アーティストによっては一般的に代表曲とされているものが、実は自身ではそれほど思い入れがなかったりもするようだが、山下達郎の場合はおそらく最も有名なこの曲が本人にとっても自信作であるというのがまた良いものである。