小泉今日子「Fade Out」

「Fade Out」は小泉今日子の27枚目のシングルでオリコン週間シングルランキングで最高2位を記録した。トップアイドルとして大人気だった小泉今日子のアーティストパワーがこの高順位には影響していると思えるのだが、「花の82年組」の1人でデビュー8年目にしてこれだけの人気を保っているのは、かなり驚異的だということができた。

つまり、1985年以降のおニャン子クラブの社会現象的ともいえるブームを乗り越えたということなのだが、そのブレーン的存在でもあった秋元康が作詞したメタアイドルポップ的な名曲「なんてったってアイドル」を大ヒットさせたこともひじょうに大きい。

それで、この「Fade Out」なのだが、いわゆるアイドル歌謡としてはかなり攻めたタイプの楽曲となっている。なぜなら、当時のポップミュージック界におけるトレンドであったハウスミュージックを早くも取り上げているからである。

ハウスミュージックそのものでいうならばイギリスでは1987年にM/A/R/R/S「パンプ・アップ・ザ・ヴォリューム」がシングルチャートで1位になっていたりして、すでに一般大衆的にも知られていたのだが、いわゆるメインストリームにおけるポップスターがこれをわりと本気で取り上げたという点では、マドンナ「ヴォーグ」が1990年だったことを考えても、かなり早かったのではないかというような気もする。

小泉今日子がかねてから一緒に仕事をしたいと熱望していた近田春夫についに楽曲依頼したことがすべてのきっかけとなっているのだが、その頃、近田春夫はハウスミュージックにしか興味がなくて、それでも良いならという条件でオファーを受けたということである。

近田春夫はグループサウンズの時代から日本のポップミュージック業界で活動していたミュージシャンなのだが、1970年代後半にニッポン放送の深夜番組「オールナイトニッポン」や雑誌「POPEYE」の連載などにおいて、多くのリスナーに歌謡曲の楽しみ方を発見させた功績はひじょうに大きい。

テクノブームではジューシィ・フルーツ「ジェニーはご機嫌ななめ」、漫才ブームではザ・ぼんち「恋のぼんちシート」といったヒット曲を世に送りだし、RUN-D.M.C.がエアロスミスとコラボレーションした「ウォーク・ジス・ウェイ」をヒットさせた1986年の時点では、PRESIDENT BPMとして日本語ラップをいち早くやっていたりもした。

そのデビュー12インチシングル「MASSCOMMUNICATION BREAKDOWN」では「少年達の大好きなアイドルだって人間だ 性欲だってあるし金も欲しい」とアイドルをテーマにしてもいたのだが、1977年に近田春夫&ハルヲフォンというバンドを率いていた頃には、「T.V.エンジェル」というやはりアイドルのことを歌った楽曲をリリースしていた。

それはそうとして、小泉今日子はこの頃までずっとトップアイドルではあったわけだが、いわゆる中高生男子が憧れるタイプのフレッシュアイドルは次々と現れては消えたり消えなかったりしていて、この頃でいうと工藤静香、中山美穂、南野陽子、浅香唯あたりが四天王的な存在だったような気がする。

なぜなら個人的に当時、深夜のアルバイトをしていたコンビニエンスストアにこの4人の写真入りのうちわが入荷していたからである。実際に小泉今日子「Fade Out」が2位だった週のオリコン週間シングルランキングで1位だったのは、工藤静香「嵐の素顔」であった。

小泉今日子はいわゆるサブカル的というかちょっと文化人的な受け方をしていたうえに、クラブミュージック的なトレンドとも相性が合うのではないかというようなムードがなんとなく漂っていて、それが見事にハマったような感じではあった。

この傾向は1985年、小泉今日子がまだ「なんてったってアイドル」をリリースするよりも以前に、野々村文宏、中森明夫、田口賢司のいわゆる新人類トリオが朝日出版社から刊行されていた「週間本」の28冊目として「卒業 KYON2に向って」を出版したころからすでにマイルドに可視化されてはいた。

よくあるアイドル歌謡を少しハウスミュージック寄りのしたというレベルではなく、トップアイドルのシングルにしてはかなりゴリゴリにハウスミュージックだったわけで、それでも特に「Ah 今頃Discoでは Ah 友達が私達 待っているのに」あたりではメロディがかなり歌謡曲的になっているところがとても良い。

さらには「Ah 夜を求め 命燃やす さだめなのね」のくだりに至っては、マインド的には演歌にも近いグルーヴが感じられたりもする。それでその後のサックスがまた最高なのである。