ジャーニー「ドント・ストップ・ビリーヴィン」【Classic Songs】
ジャーニー「ドント・ストップ・ビリーヴィン」は1981年10月19日にアルバム「エスケイプ」から2作目のシングルとしてカットされ、全米シングル・チャートで最高9位を記録した。アルバムからの最初のシングル「クライング・ナウ」は最高3位、3作目のシングルとしてカットされた「オープン・アームズ~翼をひろげて~」は最高2位を記録していて、この順位だけから判断すると、「ドント・ストップ・ビリーヴィン」の最高9位というのはヒットの谷間のように思えなくもない。しかし、長い年月をかけて、ジャーニーの代表曲であるだけではなく、ポップミュージック史に残る名曲として最も有名になったのは、「エスケイプ」発売日には「愛に狂って」という邦題も付いていた「ドント・ストップ・ビリーヴィン」であった。
ジャーニーは元サンタナのバンドメンバーであったニール・ショーンとグレッグ・ローリーを中心に1973年に結成され、当初はプログレッシヴロックから派生したタイプのインストゥルメンタル曲を主体としたロックをやっていた。その後、ボーカリストが加入するのだが間もなく解雇され、代わってスティーヴ・ペリーが加入することになった。エイリアン・プロジェクトというバンドでデビューすることが決まっていたのだが、メンバーの1人を交通事故で亡くしたことによってその話もなくなり、地元に帰って農場で働いていたという。ところが、エイリアン・プロジェクトのデモテープを当時のジャーニーのマネージャー、ハービー・ハーバートが聴いて感銘を受け、バンドに加入させることになった。
その後、ジャーニーの音楽性はそれまでのプログレッシヴなところもやや残しながら、スティーヴ・ペリーの伸びのあるボーカルを生かしたポップでキャッチーなものに変化していった。アルバム「インフィニティ」は全米アルバム・チャートで最高21位と、それまでを大きく上回るヒットを記録した。バンドがさらにポップでキャッチーな音楽性を追求していく過程で、メンバーチェンジがあったりもしたが、次のアルバム「エヴォリューション」が全米アルバム・チャートで最高20位、その次の「ディパーチャー」は最高8位と初のトップ10入りを果たした。
このタイミングでオリジナルメンバーでもあったキーボーディストのグレッグ・ローリーが脱退し、後任にベイビーズのジョナサン・ケインを推す。これによってベイビーズは解散することになるのだが、ボーカリストだったジョン・ウェイトは1984年にソロアーティストとしてのシングル「ミッシング・ユー」が全米シングル・チャートで1位を記録する。また、後にバッド・イングリッシュとして再結成し、1989年には「ホエン・アイ・シー・ユー・スマイル」が全米シングル・チャートで1位に輝いた。
それはそうとして、ソングライティングにもかかわるようになったジョナサン・ケインの加入が、ジャーニーの音楽をよりポピュラーなものにしたともいえる。1981年のアメリカではREOスピードワゴン「禁じられた夜」、スティクス「パラダイス・シアター」、フォリナー「4」といったいわゆる産業ロックのアルバムが大ヒットしていたのだが、ジャーニー「エスケイプ」の音楽性もそのようなトレンドにマッチしていたような気がする。全米アルバム・チャートでは初の1位に輝き、人気バンドとしての地位を確立することになった。
この頃、イギリスではすでにヒューマン・リーグ「愛の残り火」、ソフト・セル「汚れなき愛」などが全英シングル・チャートで1位を記録するなど、シンセポップがメインストリームでヒットしまくっていた。アメリカとイギリスでかなり異なったタイプの音楽が売れていた印象があるのだが、これが翌々年あたりになるとマイケル・ジャクソン「スリラー」からのシングルカット曲やカルチャー・クラブ、デュラン・デュランなどをはじめとするいわゆる第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン勢など、わりと似たような音楽が売れるようになっていた。これには1981年の夏にアメリカで開局した音楽専門のケーブルテレビチャンネル、MTVの影響が大きかったような気がする。
ジョナサン・ケインはミュージシャンとしての成功を夢見ていたが、なかなか思うようにいかないこともあり、あきらめて地元に帰ろうと思うこともあったという。そんな時に父によく言われていた言葉が「ドント・ストップ・ビリーヴィン」、つまり信じることをやめるな、というようなものだったらしい。ミュージシャン志望の若者の親というものは、一般的にいつまでも夢ばかり追いかけていないで就職しなさい、というようなことを言いそうなイメージもあるが、ジョナサン・ケインの場合はまったく逆だったということであり、それが「ドント・ストップ・ビリーヴィン」という名曲を生んだのであった。
この曲の歌詞はアメリカのみならず世界中から様々なジャンルの夢追い人があつまってくるハリウッドのサンセット・ブルーバードを舞台にしていて、スモールタウン・ガールやシティ・ボーイが真夜中の列車に乗って、どこへでも向かっていくところからはじまる。スティーヴ・ペリーはツアー中の眠れない夜に、ホテルの部屋の窓から外を眺め、歌詞のイメージを広げていったという。実にドラマティックに展開していくこの楽曲はまた、ひじょうにユニークな構造を持つことでも知られている。なんとサビが曲の最後の方まで出てこないのである。そして、歌詞に登場するデトロイト南部という地域は実際には存在しないらしい。
確かにとても良い曲ではあるのだが、しばらくの間は80年代の懐かしのヒット曲の域を出るものではなかったような気がする。それ以前にいわゆる産業ロック的な音楽というのは、ポップミュージック批評においては、なかなか正当に評価されにくいのである。1981年にREOスピードワゴンやジャーニーを聴いていたキッズたちの多くも、間もなくパンクやニュー・ウェイヴの影響を受けた音楽の方がカッコいいのだという価値観に傾いていくと、それらを聴いていた過去をなかったことにしがちだったりもした。
そして、この曲の再評価は2000年代に入ると、なぜか急速にすすんでいくことになる。まずは2003年のアメリカ映画「モンスター」のサウンドトラックに使われたことからはじまった、ともいわれているようである。シャーリーズ・セロンが主演した実在の連続殺人犯をテーマにした作品である。この映画は大きくヒットしたわけではないが、評価はわりとされていて、「ドント・ストップ・ビリーヴィン」もひじょうに印象的な使い方をされていた。
テレビの歴史上最も優れたドラマの1つとも評される「ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア」は1999年に放送が開始され、6シーズン続いた。最終回がアメリカで放送されたのは2007年6月10日だが、そのラストシーンで使われていたのが、これまた「ドント・ストップ・ビリーヴィン」であった。ジャーニーのような音楽というのはそれほどクールとは見なされてはいなく、たとえばマーティン・スコセッシやクエンティン・タランティーノ監督作品のサウンドトラックを好むような価値観にはマッチしないとされがちであった。しかし、この「ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア」のラストシーンにおける「ドント・ストップ・ビリーヴィン」はこれ以外には考えられないというぐらいのハマりようであり、産業ロックの懐メロとしてしか認識していなかったこの曲が実はこんなにもエモーショナルでドラマティックだったのかと、多くの人々に気づかせた可能性は高い。
あとは、2009年から2015年まで上演され、2012年にはトム・クルーズ主演で映画化もされたというロックミュージカル「ロック・オブ・エイジズ」でも、エンディングで「ドント・ストップ・ビリーヴィン」が使われていて、再評価に影響をあたえたといわれているようだ。
そして、特に大きかったのは大ヒットしたTVミュージカルコメディ「Glee」のキャストによるリメイクであろう。このバージョンは2009年にリリースされると全米シングル・チャートで最高4位と、ジャーニーによるオリジナルを超えるヒットを記録した。オリジナルとはまったくアレンジが異なるバージョンのヒットによって、楽曲そのものの良さとメッセージの普遍性がより明確になったともいえるかもしれない。
1981年に「エスケイプ」がリリースされた時、アメリカでは大ヒットしたのだが、イギリスでは全英アルバム・チャートで最高32位であった。「ドント・ストップ・ビリーヴィン」は全英シングル・チャートで最高62位である。しかし、その28年後となる2009年に人気オーディション番組「Xファクター」でこの年に優勝するジョー・マケルダリーが歌って注目をあつめると、ジャーニーによるオリジナルが再リリースされ、全英シングル・チャートで19位まで上がった。そして、年末に「Xファクター」で再びパフォーマンスされると、またしてもジャーニーのオリジナルが全英シングル・チャートをかけ上がっていき、最高6位を記録することになった。
ジョー・マケルダリーが歌う「ドント・ストップ・ビリーヴィン」のリリースも企画されるのだが、ジャーニーが断ったことにより実現しなかった。代わってマイリー・サイラス「ザ・クライム」をカバーし、クリスマスNO.1を狙うのだが、「Xファクター」出演者によるクリスマスNO.1を阻止しようとする音楽リスナーたちのキャンペーンにより、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン「キリング・イン・ザ・ネーム」が1位になった。