邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1976, Part.2
どうぞこのまま/丸山圭子(1976)
丸山圭子の3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高5位を記録した。
作詞・作曲は丸山圭子で、青山望によるアレンジはAORの名盤としても知られるニック・デカロ「イタリアン・グラフィティ」をも参照したボサノバ調でで都会的なものになっている。
シティポップ的ではあるのだが、絶妙に歌謡曲的でもあるところがとても良い。椎名林檎がホリプロスカウトキャラバンに応募した際に歌った楽曲でもある。
青春時代/森田公一とトップギャラン(1976)
森田公一とトップギャランの7枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位、1977年の年間シングルランキングではピンク・レディー「渚のシンドバッド」に次ぐ2位にランクインしていた。
青春時代の切なさや苦しみのようなものをテーマにした楽曲として、大ヒットした。森田公一は1970年代に天地真理をはじめとした人気アイドルへの楽曲提供や「スター誕生!」の審査員として知られていたが、森田公一とトップギャランとしてはそれ以前から活動をしていた。
個人的には地元でもあった北海道留萌市出身の有名人として認識してもいたのだが、苫前町から当時としては大都会という印象しかなかった旭川市に引越す少し前に小学校の廊下で先輩が「青春時代のまん中は 胸にとげさすことばかり」と歌いながら歩いていたところ、お調子者の同級生が「うッ、胸にとげがささって痛い!」などと茶々を入れ、羽交い締めにされていた光景を鮮明に覚えている。
ペッパー警部/ピンク・レディー(1976)
ピンク・レディーのデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高4位を記録している。この年の大晦日に行われた「第18回日本レコード大賞」においては、この曲で新人賞を受賞している。最優秀新人賞は「想い出ぼろぼろ」の内藤やす子、他の新人賞受賞者は芦川よしみ、角川博、新沼謙治といずれも演歌歌手であった。
静岡県出身のミーとケイこと根本美鶴代と増田啓子はクッキーという名前の2人組として活動していて、フォークソング的な楽曲で挑んだ「スター誕生!」で合格したことがきっかけでデビューすることになった。レコード会社も当初はフォークデュオとしてデビューさせる予定だったのだが、ディレクターであった飯田久彦の強い説得によって、ピンク・レディーになった。
ネーミングはジンをベースとしたカクテルの名前に由来しているのだが、当時の印象としてはチープにアダルトな印象もあった。さらにデビュー曲「ペッパー警部」のテレビでのパフォーマンスがミニスカートの衣装で脚をパカパカ開く振り付けを含んでいるなど、インパクトは確実にあったのだが、下品とも捉えられかねないものであった(実際に「スター誕生!」で審査員を務めてもいた松田トシからは品がないと怒られたりもしていたという)。
個人的にも当時、小学生としてテレビで見ていて、気にはなったもののどうも色物的というのか、メジャーに売れるタイプではないのだろうな、という気がしていた。ところがみるみるうちに人気が出ていき、数ヶ月後にはすっかり国民的な人気スターになっていた。
特に小学校のクラスの女子の多くがピンク・レディーの振りまねをしていたり、男子はミー派かケイ派かの話題で盛り上がり、テレビCMにも数多く出演し、グッズもいろいろ発売されたりもしていた。
愛を囁き合ったりしているカップルを警察官が邪魔をするという内容は曽根史郎「若いお巡りさん」を思い起こさせたりもするのだが、実際の「警部」という階級に属する警察官はこの曲の歌詞にあるように街に出て職務質問的なことをしたりはしないのではないか、というようば話もあるようである。
ピンク・レディーがCMに出演してもいた「ペッパー」という薄型ラジオが発売されたりもするのだが、何だかあれはやたらと欲しかった記憶がある。
日本のポピュラー音楽史上で後に同レベルぐらいに国民的人気アイドルとして支持された例としては、2000年代はじめあたりのモーニング娘。が思い浮かぶのだが、人気もピーク時と比べると一旦落ち着いた2008年にこの曲をカバーし、オリコン週間シングルランキングで最高3位と、ピンク・レディーのオリジナルを1ランク上回っている。
SHININ’ YOU, SHININ’ DAY/Char(1976)
Charのデビューシングル「NAVY BLUE」のB面曲としてリリースされた後、アルバム「Char」の1曲目に収録された楽曲である。
世良公則、原田真二と共にロック御三家などとも呼ばれ、ルックスの良さなどからアイドル的な人気も高かった。シングルA面曲にはヒットを狙ったようなところも感じられたのだが、この曲はまず歌詞が英語であり、音楽的にも海外のAORなどからの影響がダイレクトに感じられ、当時の日本のポピュラー音楽界におけるメインストリームとはほとんど関係がなかったようにも思える。
とはいえ、いま聴くとただただカッコいいとしか言いようがなく、シティポップの名曲としても再評価されがちである。Charこと竹中尚人が当時まだ21歳だったという事実にもシンプルに驚かされる。
中央フリーウェイ/荒井由実(1976)
荒井由実の4作目のアルバム「14番目の月」に収録された楽曲で、シングルではリリースされていないが、代表曲の1つとして知られる。
タイトルの「中央フリーウェイ」とは中央自動車道に由来し、「調布基地を追い越し」という歌詞には個人的に調布市民として純粋にテンションが上がる。荒井由実(現在は松任谷由実)といえば八王子の由緒ある呉服店の娘というのはわりと知られた事実ではあるが、この曲は当時、交際中で後に夫となる松任谷正隆が荒井由実を都心から八王子まで車で送っていた頃のことを歌ったものだともいわれている。
とはいえ、「初めて会った頃は毎日ドライブしたのに このごろはちょっと冷いね 送りもせずに」と、早くも安定期に入りがちなところもまた乙なものである。荒井由実の音楽が最先端に都会的なことをやっていながらも、とても良い具合に一般大衆にもアピールしがちな原因の1つとして、八王子出身であることはわりと重要なのではないかというような気もして、そういった意味でこの曲はそれを象徴しているような気もする。
個人的に80年代で最も好きなアイドルこと松本伊代が夫で八王子出身のタレント、ヒロミが運転する車で八王子ラーメンを食べにいくというYouTubeの企画で、この曲を少しだけアカペラで歌うのを聴くことができた時には長生きはするものだと思ったのと同時に、いろいろ感慨深いものがあった。
失恋レストラン/清水健太郎(1976)
清水健太郎のデビューシングルでオリコン週間シングルランキングで1位、「第19回日本レコード大賞」では最優秀新人賞に輝き、「オヤジ、やったよ!」などと言っていた記憶がある。作詞・作曲・編曲はつのだひろである。
この曲だけがヒットしたいわゆる一発屋なのではないかと誤解されがちなのだが、この次のシングル「帰らない」もオリコン週間シングルランキングで1位、「遠慮するなよ」も最高3位のヒットを記録している。
後に薬物の不法所持で逮捕されたり、Vシネマの役者として有名になったりするのだが、ポップシンガーとしての側面はデジタル配信がされていないことなども含め、忘れ去られがちなような気もなんとなくしている。
ニューミュージック的な歌謡ポップスとして一般大衆的にも当時ひじょうに受けていた記憶があるし、いま聴き直してみても流行歌としての強度はかなりのものである。
S・O・S/ピンク・レディー(1976)
ピンク・レディーの2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで初の1位に輝いた。
イントロに「SOS」のモールス信号が収録されているため、ラジオではここだけカットして放送されたことも話題になった。
「男は狼なのよ 気をつけなさい」というようなことが歌われているのだが、これに対し岡林信康が「狼なんかじゃありません 男は悲しい生き物よ」と歌った「新説SOS」を発表し、これを笑福亭鶴光がカバーしたりもしていた。
大衆音楽的にポップでキャッチーなのだが、そこに健康的なお色気のようなものが絶妙にまぶされていて、それがとても良かったような気がする。
フィーリング/ハイ・ファイ・セット(1976)
ハイ・ファイ・セットの7枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いた。モーリス・アルバート「愛のフィーリング」のカバーであり、日本語詞はなかにし礼によるものである。
美しいハーモニーと都会的なセンスに溢れていながら、イージーリスニング的でもある音楽性がひじょうに受けていたように感じられる。このような楽曲が一般大衆的に大ヒットしていたことが、国民の生活水準の向上を証明しているような気もするのだが、特にそんなこともないのかもしれない。
1980年代前半に異色のお笑いタレントとしてテレビに出はじめていた竹中直人がこの曲のメロディーにのせて、「牛乳 冷たい牛乳 ゴツクンゴツクン飲む」などと歌っていたような気がする。「ゴックンゴックン」ではなく、「ゴツクンゴツクン」である。