邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1972

ぼくの好きな先生/RCサクセション(1972)

RCサクセションの3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高70位を記録した。当時は忌野清志郎、小林和生、破廉ケンチの3人組で、フォーク的な編成であった。

忌野清志郎が高校生の頃に教わっていた美術教師のことが、「劣等生のこのぼくにすてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない」などと歌われている。

音楽性はフォークソング的でもあるのだが、忌野清志郎のボーカルはすでに個性的であり、ダイヤの原石的な輝きを感じさせる。

あの鐘を鳴らすのはあなた/和田アキ子(1972)

和田アキ子の11枚目のシングルでオリコン週間シングルランキングでの最高位は53位、「第14回日本レコード大賞」では最優秀歌唱賞を受賞している。作詞は阿久悠で作曲・編曲が森田公一である。

「和製リズム・アンド・ブルースの女王」のキャッチコピーでデビュー以降、「どしゃぶりの雨の中で」「笑って許して」などをヒットさせ、それらに比べると「あの鐘を鳴らすのはあなた」は当時それほどヒットしていなかったのだが、時を経るにつれて代表曲として知られるようになっていった印象がある。

1991年にリクルートの就職情報誌「就職ジャーナル」のテレビCMに使われたり、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災といった大災害による苦難が大衆に降りかかる度に、人々を勇気づける楽曲としての強度がより実感されていったようにも感じられる。

芽ばえ/麻丘めぐみ(1972)

麻丘めぐみのデビューシングルでオリコン週間シングルランキングで最高3位、「第13回日本レコード大賞」では最優秀新人賞に輝いている。

正統派アイドルという言葉が持つ漠然としたイメージを最初に体現していたのが麻丘めぐみだったのではないか、となんとなく思ったりもするのだが、当時、リアルタイムでアイドルファンをやっていたわけではないので、正確なところはよく分からない。

それにしてもこの曲はバスドラムのイントロからして期待感を高めてくれるのだが、ボーカルも歌詞もメロディーも最高で、「悪い遊び憶えていけない子と 人に呼ばれて泣いたでしょう」「誰か人に心を盗みとられ 神の裁きを受けたでしょう」といったフレーズのところもいたいけでとても良い。

作詞は千家和也で作曲が筒美京平であり、この後、桜田淳子、岩崎宏美、ピンク・レディー、松本伊代、小泉今日子へと連なっていくビクターのアイドルポップス名曲列伝のスタートにふさわしい名曲である。

どうにもとまらない/山本リンダ(1972)

山本リンダの20枚目のシングルで、オリコン週間シングルで最高3位のヒットを記録した。後にピンク・レディーに数々のヒット曲を提供したりもする阿久悠・都倉俊一コンビによる楽曲で、都倉俊一はこの曲と井上順「涙」で「第14回日本レコード大賞」作曲賞を受賞している。

祝祭的なリズムとパンチのあるボーカル、テレビではヘソだしルックでの情熱的なダンスのインパクトも強く、「恋した夜はあなたしだいなの」とわりと大人な内容にもかかわらず、当時の子供たちにも大いに受けた。山本リンダにとっては1966年のデビュー曲「こまっちゃうナ」以来、久々のヒット曲となった。

学生街の喫茶店/ガロ(1972)

ガロの3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで7週連続1位、1973年の年間シングルランキングではぴんからトリオ「女のみち」「女のねがい」に次ぐ3位を記録し、「NHK紅白歌合戦」にも出場を果たした。

作詞は山上路夫で作曲がすぎやまこういち、アメリカのCS&N的な音楽性が特徴であったガロにしては特に歌謡曲的な楽曲であったが、あまりにもヒットしすぎたがためにすっかりこの曲のイメージが付いてしまい、それにメンバーは苦しめられたともいわれる。

過ぎ去った青春を懐かしむ、ノスタルジックな内容の楽曲であり、歌詞には「片隅で聴いていたボブ・ディラン」というフレーズも入っている。

当初はシングル「美しすぎて」のB面扱いだったのだが、少しずつ評判になっていき、ジャケットをこの曲メインのものに変更、翌年に発売から半年以上を経て大ヒットを記録した。

傘がない/井上陽水(1972)

井上陽水のアルバム「断絶」からシングルカットされ、オリコン週間シングルランキングで最高69位を記録した。

都会では若者の自殺が増えているという記事を新聞で読んだのだが、自分にとっての問題はそんなことよりも、雨の日に恋人に会いにいかなければいけないにもかかわらず傘がないことなのだ、ということなどが歌われている。

1960年代後半の政治の季節を経て、社会問題から自分自身を切り離して、個人の生活を重視するようになった若者たちは「しらけ世代」などとも呼ばれるようになるのだが、そのような変化をヴィヴィッドに捉えた楽曲として高く評価されがちである。

2011年の東日本大震災やそれにまつわる原子力発電にまつわる議論など以降、井上陽水はこの曲はいまの時代にはふさわしくないかもしれない旨の発言もしていた。

旅の宿/よしだたくろう(1972)

吉田拓郎(当時はよしだたくろう)の4枚目のシングルでオリコン週間シングルランキングで5週連続1位、年間シングルランキングでは宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」、小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」、ビリーバンバン「さよならをするために」に次ぐ4位を記録した。

「浴衣のきみは尾花の簪 熱燗徳利の首つまんで もういっぱいいかがなんてみょうに色っぽいね」と、タイトルの通り「旅の宿」に恋人と泊まる時の情緒がカジュアルな和テイストで表現されている。

少し後にリリースされる大ヒットアルバム「元気です。」には、よりシンプルなアレンジの別バージョンが収録されていた。作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎である。

春だったね/よしだたくろう(1972)

吉田拓郎(当時はよしだたくろう)の大ヒット作にして最高傑作ともいわれがちなアルバム「元気です。」の1曲目に収録された楽曲である。

ハーモニカやオルガン、ボーカルスタイルなどにボブ・ディランからの影響が感じられなくもない。作曲は吉田拓郎だが作詞は田口淑子で、「僕を忘れた頃に君を忘れられない そんな僕の手紙がつく」という最初の歌詞の時点で優勝確定である。

個人的にこの曲を幼稚園児であったリアルタイムでは知らなかったのだが、80年代に深刻な片想いをしている相手と離れ離れにならざるをえなく、苦悩をかかえている時期にたまたまラジオで初めて聴いて、深く感じ入った記憶がある。

男の子女の子/郷ひろみ(1972)

郷ひろみのデビューシングルで、オリコン週間シングルで最高8位を記録した。当時はジャニーズ事務所に所属していて、デビュー前はフォーリーブスの弟分的な存在としてステージに立っていた。

当初は本名の原武裕美として活動していたようなのだが、旭川のファンによる「レッツゴーひろみ」という声援が元となり、郷ひろみになったともいわれている。

「男の子女の子」というタイトルは郷ひろみの中性的で個性的な魅力をあらわしてもいるのだが、ポップでキャッチーな楽曲と、なんといっても唯一無二のボーカルが危うくも素晴らしい。

作詞は岩谷時子、作曲は筒美京平で、やはり筒美京平が作曲・編曲したオックス「ダンシング・セブンティーン」が参照されているともいわれる。

み空/金延幸子(1972)

金延幸子のデビューアルバム「み空」のタイトルトラックで、細野晴臣が編曲を手がけている。

ジョニ・ミッチェル的でもある音楽性は当時の日本のポピュラー音楽界におけるメインストリームにはならなかったのだが、一部の音楽ファンたちの間では高く評価され、1990年代に小沢健二がライブ会場で流したことによって、新しい世代のリスナーを獲得することになった。

喝采/ちあきなおみ(1972)

ちあきなおみの13枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高2位、「第14回日本レコード大賞」では対象に輝いている。

吉田旺による歌詞は亡くなった恋人を思いながらステージで歌う歌手を主人公にしているが、偶然、ちあきなおみにもそれに似た経験があったことから、実体験を元にした楽曲としてプロモートされた。

中村泰司によるドラマティックなメロディーとちあきなおみの素晴らしいボーカルパフォーマンスも感動的なこの楽曲を、「ミュージック・マガジン」は2021年に発表した「昭和歌謡ベスト・ソングス100 [1970年代編]」において、尾崎紀世彦「また逢う日まで」に次ぐ2位に選出している。

春夏秋冬/泉谷しげる(1972)

泉谷しげるのアルバム「春夏秋冬」のタイトルトラックで、加藤和彦がプロデュースを手がけている。実況録音バージョンがシングルとしてリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高46位、1988年にはRCサクセションの仲井戸麗市やルースターズの下山淳なども参加した豪華すぎるバックバンド、LOSERを従えた新録音バージョンが最高25位を記録している。

後に俳優やタレントとしても活躍する泉谷しげるの人間味溢れるボーカルによって、高度成長期で変わりゆく都会で生きていくことにまつわる迷いのようなものが歌われた名曲である。

1980年代の若者の一部には、山口県出身のシンガーソングライター、SIONによるカバーバージョンの印象も強いかもしれない。

少女/五輪真弓(1972)

五輪真弓のデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高30位を記録した。

この曲も収録したアルバム「少女」はデビュー作でありながらロサンゼルスで制作されていて、現地のミュージシャンたちが主に参加している。

和製キャロル・キング的な評価もされがちではあるのだが、デモテープを聴いたキャロル・キング本人もレコーディングに参加していたという。シンガーソングライター的なレコードとしてひじょうに素晴らしく、エバーグリーンな魅力が感じられもする。

個人的にはやはり幼稚園児だった当時はリアルタイムでは知らないのだが、後に札幌の親戚の家に泊まりにいった時に、叔父からカセットテープに録音したこの曲を聴かせてもらい、そのクオリティーに驚かされた記憶がある。