ポリス「高校教師」【Classic Songs】

1980年10月11日付の全英シングル・チャートでは、ポリス「高校教師」が3週目の1位を記録していた。この後、もう1週だけ1位でその翌週にはバーブラ・ストライザンド「ウーマン・イン・ラヴ」に抜かれている。2位はフランスのグループ、オタワンの「D.I.S.C.O.」で、3位はマッドネス「バギー・パンツ」であった。マッドネスはこの翌年にホンダ・シティという自動車のCMに出演し、日本でも有名になったスカリバイバルの代表的なバンドだが、同じシーンからはザ・スペシャルズ「ステレオタイプ/インターナショナル・ジェット・セット」も先週の25位から6位に大きく順位を上げている。スカはジャマイカ発祥の音楽で後にレゲエにも発展していくのだが、ポリスも当時はニュー・ウェイヴにレゲエのリズムを取り入れていることで話題になっていた。また、この週の全英シングル・チャートで4位にランクインしているスティーヴィー・ワンダー「マスター・ブラスター」もレゲエのリズムを取り入れているのみならず、レゲエの神様とも呼ばれるボブ・マーリーに捧げる内容となっていた。

ポリスはプログレッシヴロックバンド、カーヴド・エアのドラマー、スチュワート・コープランドがジャズフュージョンバンド、ラスト・イグジットのボーカリストでベーシストであったスティングを説得するなどして1977年に結成されたロックバンドで、レゲエのリズムを取り入れたシングル「ロクサーヌ」が全英シングル・チャートで最高12位のヒット、この曲も収録したデビューアルバム「アウトランドス・ダムール」が全英アルバム・チャートで最高6位といきなりブレイクを果たした。翌年には2作目のアルバム「白いレガッタ」が全英アルバム・チャートで、シングルカットされた「孤独のメッセージ」「ウォーキング・イン・ザ・ムーン」が全英シングル・チャートで1位に輝き、すでに大人気バンドとして知られるようになる。スティングが出演したモッズのバイブル的な映画「さらば青春の光」が公開されたのも、この年である。ここでまったくの余談だが、日本のお笑いコンビ、さらば青春の光の名前はやはりこの映画に由来しているのだが、コンビ名を決めた前日に先輩芸人のみなみかわがたまたま見ていた映画のうちの1本がこれだったためであり、メンバー自身に思い入れあって付けたわけではないようである。ちなみにもう1つの候補は「復讐するは我にあり」だったということで、確かにこっちの方が売れそうである。

それはそうとして、当時、ポリスは日本の音楽雑誌などでもわりと取り上げられがちであり、音楽リスナーにはかなりアクセスしやすかった印象がある。個人的に当時は中学生で、この年から洋楽のレコードを買うようになったのだが、NHK-FMで放送されたポリスのライブはカセットテープに録音(当時でいうところのエアチェック)していて、ラジカセでよく聴いていた記憶がある。また、この年にポリスは初来日公演を行ってもいるのだが、京大西部講堂では複雑な事情により運営をめぐってポロモーターと学生側が対立し、ステージに学生たちが乱入するという騒動が起こったりもしている。

「高校教師」はポリスの3作目のアルバム「ゼニヤッタ・モンダッタ」からの先行シングルとしてリリースされた。英語でのタイトルは「Don’t Stand So Close to Me」であり、まったく「高校教師」という文言は入っていないのだが、歌詞の内容は女子生徒の存在に惑わされる若い男性教師の独白となっていて、邦題としては適切だと思われる。この曲を作詞作曲したスティングには教育実習生の経験があり、実体験がモチーフになっているのではないかともいわれていたが、後にインタヴューにおいて完全なフィクションであると説明されている。ロリータコンプレックスの語源ともなったロシア人作家、ウラジミール・ナボコフの1955年の小説「ロリータ」についても歌詞でふれられている。静かに不穏な感じではじまり、途中からキャッチーになる曲調も分かりやすくてとても良かった。

この曲は全英シングル・チャートで4週連続1位の大ヒットとなったのみならず、年間チャートにおいてもバーブラ・ストライザンド「ウーマン・イン・ラヴ」、ケリー・マリー「フィールズ・ライク・アイム・イン・ラヴ」、ABBA「スーパー・トゥルーパー」などを抑えて1位に輝いている。ポリスで年間シングル・チャート1位というと、アメリカでは1983年に「見つめていたい」がマイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」、アイリーン・キャラ「フラッシュダンス~ホワット・ア・フィーリング」、メン・アット・ワーク「ダウン・アンダー」などを抑えて記録している。それではこの曲の場合、イギリスではどうだったのかというと、「高校教師」と同じく4週連続1位だったにもかかわらず、年間チャートでは16位に終わっている。ちなみに1983年の全英シングル・チャートではカルチャー・クラブ「カーマは気まぐれ」が1位で、次いでビリー・ジョエル「アップタウン・ガール」、UB40「レッド・レッド・ワイン」、デヴィッド・ボウイ「レッツ・ダンス」などとなっている。

「高校教師」はイギリスのみならずアメリカでもヒットして、全米シングル・チャートで最高10位と初のトップ10入りを果たしている。ダリル・ホール&ジョン・オーツ「キッス・オン・マイ・リスト」が1位だった週である。「高校教師」も収録したアルバム「ゼニヤッタ・モンダッタ」はイギリスの全英アルバム・チャートでは「白いレガッタ」に続いて1位、アメリカの全米アルバム・チャートでは「白いレガッタ」の最高25位から大きく順位を上げて最高5位のヒットを記録した。どうやら造語らしいこのアルバムタイトルもよく分からないのだが、日本語に近いニュアンスもある。当時はお金(ゼニ)をあげて揉んでやった、というような何やら怪しげな意味を持っているのではないか、などと言い出す男子中学生も身の回りにいた。1981年の元旦からはじまった「ビートたけしのオールナイトニッポン」の話題などと共に、そんなことを学ランを着て話していた。

そして、「ゼニヤッタ・モンダッタ」からは「ドゥドゥドゥ・デ・ダダダ」もシングルカットされ、全英シングル・チャートで最高5位、全米シングル・チャートで最高10位のヒットを記録するのだが、これもよく意味が分からない曲であった。しかも、「全米トップ40」やシャネルズの歌詞などでおなじみの湯川れい子が日本語詞を書いた日本語バージョンもリリースされていて、ラジオでよくかかっていた。「ドゥドゥドゥ・デ・ダダダはオレの言葉さ」などと、スティングがカタコト気味に歌っていた記憶がある。オリコン週間シングルランキングでは、最高50位だったようである。

この後、ポリスは1981年に「ゴースト・イン・ザ・マシーン」、1983年に「シンクロニシティー」とアルバムを発表する度にアメリカなどでもヒットの規模を大きくしていったのだが、バンドとしてはそれ以降、スタジオアルバムを発表していない。1986年に新しいアルバムをつくろうと集まったようなのだが、「高校教師」のリミックスバージョンしか完成しなく、これはベストアルバム「ポリス・ザ・シングルス~見つめていたい」から「高校教師’86」としてリリースされ、全英シングル・チャートで最高24位を記録した。スチュワート・コープランドが落馬して足を骨折したため、ドラムスは打ち込みで収録されている。