邦楽ポップ・ソングス・オール・タイム・ベスト500:430-421

430. Little Jの嘆き/GREAT 3(1996)

GREAT 3の2作目のアルバム「METAL LUNCHBOX」に収録され、後にシングル・カットもされた。テレビ神奈川の「ミュージックトマトJAPAN」でよく流れていたイメージである。テレビ神奈川のサービスエリアは神奈川県内なのだが、渋谷区西原でもわりと良好に受信できていた。

それはそうとして「METAL LINCHBOX」のオリコン週間アルバムランキングでの最高位は37位なのだが、渋谷の輸入盤も扱っていたタイプのCDショップに限って集計すると、もっと高い順位にランクインしたような気がする。洋楽ロックやポップスやソウル・ミュージックのとても良いところを抽出して、日本語のポップ・ミュージックに応用しているようなところがこのバンドにはあり、海外のオルタナティヴ・ロックなどを聴いている人たちにもわりと人気があったような気がする。

この曲はボーカリストでソングライターである片寄明人の狂気スレスレの悲しみや致死量レベルの切なさのようなものが充填された名曲であり、「神様 あぁ 勝ち目はない 僕はダメだよ 憎めない さよならもいえない あぁ」というところでは、聴いている人の置かれた状況によってはベッドにダイブしてマットを連打せずにはいられない可能性もある。あとは取り壊されて門だけが残された家のインターホンを意味もなく押し続けているうちに突然に涙がこぼれてくるわけだが、「悲しいわけじゃないんだ 少し憂うつな気持ちだっただけさ」などと説明するくだりもとても良い。

429. WON’T BE LONG/バブルガム・ブラザーズ(1990)

バブルガム・ブラザーズの10枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高3位のヒットを記録した。「お笑スター誕生!!」の熱心な視聴者だったので、ブラザー・トムのことは警官コントの小柳トムとして知っていたし、ワニブックスから出ていた「小柳トムのいじわる警察官-職権乱用だよ、全員逮捕!」という本も旭川市豊岡8条1丁目の太陽堂書店で買って持っていた。ブラザー・コーンはあのねのねの清水国明の弟子であり、「ヤンヤン歌うスタジオ」などにも出演していたはずである。

この2人が日本のブルース・ブラザーズ的なイメージでバブルガム・ブラザーズを結成するのだが、ワシントンD.C.で生まれたゴーゴーという音楽がトレンド化した時にはそれを取り入れたアルバム「非難GO-GO」をリリースするなど、いろいろ面白いことをやっていた。ブラザー・コーンが佐野元春の中学生時代の同級生だったとかで、オープニングアクトを務めたりもしていたと思う。

それで、大ヒットしたこの曲なのだが、実はブラザー・コーンしか歌っていなく、出身地である高円寺の阿波おどりをイメージしている。「オリオリオリオー」のかけ声は、キャブ・キャロウェイ「ミニー・ザ・ムーチャー」からインスパイアされている。バブルガム・ブラザーズのそれまでのシングルと同様に、リリース時はそれほど売れていなかったのだが、発売から7ヶ月以上が経過した頃に思わぬ転機が訪れる。

1980年代前半に女子大生ブームを巻き起こしたフジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」がいよいよ最終回を迎えることになり、生放送中に番組にゆかりのあるタレントやアーティストたちがいろいろ出演していたのだが、そこでこの曲を流すとスタジオ内の出演者たちが盛り上がって踊り出すというノリが生まれ、何度もそれが繰り返された。お祭り的なムードと長く続いた番組が終わることに対するさびしさのようなものが入り混じり、そのBGMとしてこの曲は強く印象づけられた。

あの放送を一体どれぐらいの人たちが見ていたのかは定かではないのだが、それからこの曲は少しずつヒットしはじめた。当時、オリコン週間シングルランキングをすでにちゃんと追わなくなっていたのだが、「オールナイトフジ」が放送されていなかったはずの旭川に夏休みに帰省すると、西武百貨店のラジカセからこの曲が流れていて、もしかすると全国的な規模ですでに売れているのか、という気分になった。

1991年の「NHK紅白歌合戦」に出場する予定だったHOUND DOGがいろいろあって辞退したため、代わりにバブルガム・ブラザーズがこの曲で出ることになった。六本木のカラオケ店に行くと、お調子者のサラリーマン2人組がこの曲を歌っていた。カラオケボックスではなく、当時はまだたくさんあった、ステージ上で他のまったく知らない人たちの前で歌うタイプの店である。歌いながら「HOUND DOGのおかげで紅白に出れました」などとも言っていて、お前らがここでそれを言ってどうなるんだ、という気分になったことをどうでもいいのだが、なぜかずっと覚えている。

428. ROSÉCOLOR/中山美穂(1989)

中山美穂はレコードデビューするよりも前にテレビドラマ「毎度おさわがせします」に出演していたので、しばらくそのイメージが強かったような気がする。不良少女的な役柄で出演していて、C-C-B「Romanticが止まらない」が主題歌であった。個人的には大学受験のために宿泊していた品川プリンスホテルの部屋のテレビで見た記憶がある。

レコードデビューした当初のシングル「C」「生意気」「BE-BOP-HIGHSCHOOL」などもそういったイメージをトレースしたようだったのだが、竹内まりやが提供した「色・ホワイトブレンド」あたりからそうでもなくなり、同性からも憧れられるきれいな大人の女性的なイメージに少しずつシフトしていった印象がある。

15枚目のシングルで資生堂のキャンペーンソングでもあったこの曲などは実に上品なラヴソングであり、打ち込みのサウンドも心地よい。オリコン週間シングルランキングで1位、「ザ・ベストテン」では最高5位のヒットを記録した。

個人的には昭和から平成になったばかりで、通学する大学のキャンパスも厚木から青山に変わるので、小田急相模原から柴崎に引っ越す準備を段ボールと埃にまみれてやっていたところ、つけていたラジオからこの曲が流れて、とても良いなと感じたことが思い出される。

427. 悲しい色やね/上田正樹(1982)

上田正樹が1982年にリリースしたシングルで、有線放送から次第に人気が出ていって、翌年にはオリコン週間シングルランキングで最高5位、「ザ・ベストテン」で最高6位のヒットを記録した。

1970年代には上田正樹とサウス・トゥ・サウスというバンドで「この熱い魂を伝えたいんや」というアルバムを出したりもしていて、ハスキーなボーカルが特徴的である。林哲司のシティ・ポップ的な楽曲に、康珍化による関西弁の女性言葉の歌詞という組み合わせが見事にハマり、ソフィスティケイトされていながらも泥臭さが残る、とても良い感じの歌謡ポップスが完成した。

「オレたちひょうきん族」の「ひょうきんベストテン」のコーナーでは、明石家さんまがワイシャツとネクタイにメガネとヒゲという上田正樹のコスプレでこの曲を歌っていたような気がするが、他にも大竹まこと、くず哲也、綾田俊樹(東京乾電池)、稲川淳二、マギー司郎など同系統のルックスを持つタレントが増殖していって面白かった。

426. CRESCENT MOON/中島美嘉(2002)

中島美嘉がブレイクした頃、CDを扱う仕事で生計を立てていたのだが、リアルタイムのJ-POPにはそれほど興味が持てなくなって久しかった。それでも声がとても良いな、とは感じていた。そして、たまたま新宿のMY CITY(現在はルミネエスト新宿)のブティックの前を通りかかった時にたまたまこの曲がかかっていて、これはとても良いのではないかと感じてからずっと大好きである。

2枚目のシングルでオリコン週間シングルランキングでは最高4位を記録している。この後、「WILL」「雪の華」といったバラードを大ヒットさせ、おそらくこれらの方が代表曲と呼ぶにふさわしく、他にもオリジナル・ラヴ「接吻」のカバーや主演映画「NANA」の主題歌としてNANA featuring MIKA NAKASHIMA名義でリリースした「GLAMOROUS SKY」など良い曲がたくさんあるのだが、やはり個人的には「1、2、1、2、3、4」のカウントや「私の中の猫は鋭い爪かくしてじゃれる」というフレーズも最高なこの曲こそが至高だと感じる。

425. セクシー・バス・ストップ/浅野ゆう子(1976)

浅野ゆう子の楽曲はデジタル配信がされていないので、いまどきの風潮においてはアクセスのハードルがチト(河内)高めなようにも感じられるのだが、この「セクシー・バス・ストップ」はディスコ歌謡の名曲で、オリコン週間シングルランキングでも最高12位のヒットを記録している。

元々は筒美京平が企画したDr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレスという覆面ユニットの楽曲であり、浅野ゆう子のバージョンはカバーということになる。EPOが1987年のアルバム「POPTRACKS」で、サザンオールスターズ「いとしのエリー」、荒井由実「12月の雨」などと共にカバーしてもいた。

日本でディスコ・ブームが一般大衆レベルで盛り上がるのは、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」がアメリカよりも1年遅れて公開された1978年あたりだと思うのだが、その少し前の、まだより遊び人的だった頃のディスコ感覚とでもいうのだろうか。それにしても、当時まだ15歳だったはずの浅野ゆう子のパフォーマンス映像がイケていすぎてなかなかヤバめである。

424. Heaven’s Kitchen/BONNIE PINK(1997)

1990年代半ばの「渋谷系」的な音楽がトレンド化していた頃、スウェーデンのインディー・ロック・バンド、カーディガンズのアルバム「ライフ」もものすごく売れていた。そのプロデューサーだったのがトーレ・トハンソンで、その後、カジヒデキ、BONNIE PINK、原田知世といった日本のアーティストのプロデュースも手がけ、J-POP界にも少し影響をあたえた。

BONNIE PINKのこの曲も、当時、テレビ神奈川の「ミュージックトマトJAPAN」でよくビデオを見た記憶がある。オリコン週間シングルランキングでは最高50位、収録アルバム「Heaven’s Kitchen」は最高8位のヒットを記録した。レコーディングもスウェーデンで行われていて、ひじょうに洋楽テイストの強い音楽なのだが、それでもわりと売れていたことで、日本のポップ・ミュージック環境もかなり豊かになってきているのではないか、と感じさせたりもした。

423. デビュー~Fly Me To Love~/河合奈保子(1985)

1970年代後半はニューミュージックが全盛だった上に、歌謡ポップス界ではトップスターたちが大活躍していたことによって、フレッシュアイドルはなかなかブレイクしにくい状態にあり、ましてや芸能界的なアイドルポップスというのはやや時代遅れなのではないか、というような感じもあったりはした。これを一変させたのが1980年にデビューした田原俊彦と松田聖子であり、そのブレイクを先駆けとして、数年後にはヒットチャート上位の大半をアイドルポップスが占めるような状況になる。

そして、やはり1980年にデビューして、アイドルポップスの復権に多大なる貢献をしたのが、河合奈保子である。歌唱力がものすごく高く、同じ大阪出身ということで柏原よしえ(後に漢字の柏原芳恵に改名する)とも仲が良かった。水着グラビアにひじょうに人気があり、性格がとにかく明るく、常に元気よく返事をしていた印象が強い。伝説のミニコミ誌「よい子の歌謡曲」にはそんな河合奈保子を主人公にした「あしたのナオコちゃん」なる4コマ漫画も連載され、単行本にもなっていたはずである。

レコードもよく売れていて、「ザ・ベストテン」などの常連でもあった。しかし、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いたのはたった1曲、それが21枚目のシングルにあたる「デビュー~Fly Me To Love〜」である。林哲司によるシティ・ポップ的な楽曲と開放的なボーカルがマッチして、夏のはじまりのわくわくする感じをヴィヴィッドに表現しているといえる。

422. 思い出に間にあいたくて/松任谷由実(1987)

ユーミンこと松任谷由実が1987年にリリースしたアルバム「ダイヤモンドダストが消えぬまに」の収録曲で、シングルカットはされていない。松任谷由実はアルバムがとても売れるアーティストであり、あえてシングルを切らないこともあったのだが、このアルバムからは「SWEET DREAMS」が先行シングルとしてリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高7位を記録していた(「オレたちひょうきん族」の「ひょうきんベストテン」では山田邦子がこの曲を歌っていた)。

当時の日本はバブル景気の真っ只中で、村上春樹の小説「ノルウェイの森」がベストセラーになったり、よく分からない「純愛」ブームなるものが巻き起こっていたわけだが、松任谷由実が1980年代後半にリリースしたアルバム「ダイヤモンドダストが消えぬまに」「Delight Slight Light Kiss」「LOVE WARS」は「純愛三部作」と呼ばれたりもする。すべてオリコン週間アルバムランキングで1位に輝いていて、松任谷由実は恋愛の教祖として崇められがちであった。この頃の「純愛」ブームはある程度の経済的な豊かさを背景にしていた。

ホイチョイ・プロダクションの馬場康夫が監督した映画「私をスキーに連れてって」が公開され、ヒットしたのもこの年であり、松任谷由実の楽曲も効果的に仕様されていた。1980年のアルバム「SURF&SNOW」に収録されていた「恋人がサンタクロース」はそれ以前から人気があって、松田聖子がカバーしたりもしていたのだが、クリスマスソングの定番レベルにまでポピュラー化するのは、この映画以降だったような気もする。

しかし、バブル景気は刹那であって、当然やがて崩壊したのだが、当時はほとんどそれに気づいていなかったか、知っていたけれど空気を読んで黙っていたといえる。「ダイヤモンドダストが消えぬまに」というアルバムタイトルはそれに気づいていた可能性を示唆してはいるのだが、80年代後半的なデジタル感覚となぜかマイルドに切羽つまった感じが印象的なこの曲を、個人的には松任谷由実の代表曲の1つだと感じている。

421. Soul Life/近田春夫&ビブラトーンズ(1981)

近田春夫&ビブラトーンズの素晴らしいアルバム「ミッドナイト・ピアニスト」の収録曲で、同じ日に発売されたシングル「金曜日の天使」とは同じ曲だが歌詞が違っている。このランキングに「金曜日の天使」ではなく「Soul Life」の方を選んだ最大の理由は、正直いって「Soul Life」の方だけがデジタル配信されていてリンクが貼りやすかったからなのだが、後づけで良ければ他にもある。それは、「金曜日の天使」でのディスコは盛り上がっているのだが、「Soul Life」ではしらけていることである。そこではウェイターが「聴き飽きたテクノ・ポップ」に、あくびを嚙み殺してもいる。この前の年に盛り上がりまくったテクノポップブームはもうすっかり鎮火していて、その中心的存在であったYMOことイエロー・マジック・オーケストラはよりマニアックな音楽性のアルバム「BGM」「テクノデリック」をリリースしてセールスを大きく落としていたり、メンバーの細野晴臣はイモ欽トリオにテクノブームのパロディーにして鎮魂歌的でもある「ハイスクールララバイ」を提供してもいた。

それにしても、「終電車だって終わっちまっただ もう始発を待つしかないだ」というフレーズはあまりにも秀逸であり、新宿歌舞伎町の東亜会館系ディスコで踊った後に、とんねるず「嵐のマッチョマン」の歌詞にも登場する喫茶店、上高地で始発を待った経験のある当時の少年少女たちにとってはたまらないものがある。