スウェード「ザ・ドラウナーズ」
スウェードのデビュー・シングル「ザ・ドラウナーズ」は1992年5月11日にリリースされ、全英シングル・チャートで最高49位を記録した。「NME」「メロディー・メーカー」といったイギリスの音楽新聞でひじょうに話題になっていたわりにはそれほどヒットしていない印象なのだが、そもそも需要に対する供給がじゅうぶんではなかったのではないか、という気がすなくもない。というのも、当時、やはり「NME」のレヴューや記事を読んでこのシングルを買いたいと思ったのだが、WAVE、HMV、ヴァージン・メガストア、タワーレコードといった大手チェーンはもちろん、西新宿のラフ・トレード・ショップのような、この手のジャンルに俄然強めなセレクトショップに行っても、しばらくは買うことができなかったからである。
当時は現在のようにインターネットも普及していなければ、スマートフォンなどというものも無い。実際に音源を聴くことに対するハードルはわりと高めで、文字による情報だけで想像をふくらませざるをえない状況というのも結構あった。日本では手に入りにくいCDやレコードをカセットに録音して、通信販売で売るという、おそらく著作権的にアウトな商売も実在していたレベルである。それはそうとして、当時のイギリスのインディー・ロック界の状況はというと、80年代後半から90年代初頭にかけて盛り上がったマッドチェスターやインディー・ダンス、つまりインディー・ロックにダンス・ビートを取り入れたような音楽はすでに下火になっていた。日本の一部のファンがこれらの音楽のことを「おマンチェもの」などと呼びはじめた頃から、これはそろそろヤバいのではないかとなんとなく感じていたのだが、やはりさもありなんという感じではあった。日本ではマッドチェスターやインディー・ダンス的な要素も入ったアルバム「ヘッド博士の世界塔」をリリースしたフリッパーズ・ギターも解散した。
そして、1991年秋にリリースされたニルヴァーナ「ネヴァーマインド」が予想を遥かに超える大ヒットで、翌年にはマイケル・ジャクソンの「デンジャラス」を抜いて、全米アルバム・チャートの1位にまでなってしまう。そうなると、グランジ・ロックと呼ばれるラウドでヘヴィーで、何やら陰鬱なタイプのことを歌いがちな音楽がトレンドになり、イギリスの音楽メディアでさえもこれらを積極的に取り上げるようになる。イギリスのインディー・ロックでもワンダー・スタッフなどに人気があったり、30代にして半ズボンを着用し、政治的メッセージ性が強い曲を歌いがちなカーターUSM「1992:愛のアルバム」は1992年5月4日にリリースされ、全英アルバム・チャートで初登場1位を記録したりしていた。マニック・ストリート・プリーチャーズのデビュー・アルバム「ジェネレーション・テロリスト」もこの年の2月10日に発売されていたのだが、この頃にはまだイロモノ的に見ている人たちも少なくはなかった。それでも全英アルバム・チャートで最高13位なので、わりと売れていたということになる。あと、ザ・キュアー「ウィッシュ」などは普通に売れていて、全英アルバム・チャートで1位、全米でも最高2位を記録していた。日本の「ミュージック・マガジン」を愛読しているようなタイプの音楽ファンは、XTC「ノンサッチ」などをありがたがっているようであった。
ブラーはこの前の年にインディー・ダンス的な「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」がヒットするのだが、この年にリリースした「ポップシーン」がいま一つ売れず、この後にアメリカ・ツアーに出て深刻なホームシックに陥る。この体験がさらに翌年にリリースされるアルバム「モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ」のデフォルメしたイギリス性のようなものにつながっていくわけであり、どう転がるか分からないものである。ちなみに、個人的に初めて買った「NME」は「ポップシーン」の時のブラーが表紙の号で、確か日本の神社のようなところで撮影されたような写真が使われていたような気がする。
ブラーのデーモン・アルバーンは、この年の半ばにエラスティカを結成するジャスティーン・フリッシュマンと付き合って、後にブリットポップのロイヤル・カップルなどとも呼ばれるようになる。このジャスティーン・フリッシュマンがそもそもスウェードのオリジナル・メンバーで、1988年にロンドンで同じ大学に通っていたブレット・アンダーソンと、その幼なじみであるマット・オズマンとの3人で結成されている。マット・オズマンはベーシストであり、ブレット・アンダーソンもジャスティーン・フリッシュマンもギターは弾くのだが、リードギターを弾くほど上手くはなかったので、ちゃんとしたギタリストを募集しようということになり、「NME」に広告を出す。スウェードの音楽はデビュー当時、ザ・スミスやデイヴィッド・ボウイと比較されたりもしたのだが、この時のギタリスト募集広告に、すでにその名前は入っていたのだった。他にはロイド・コール&ザ・コモーションズとペット・ショップ・ボーイズ、そして、重要なのは音楽おたくはお断り、というような文言が入っていたことである。これに応募してきたのが、バーナード・バトラーであった。
ラジオ番組のデモテープ合戦で勝ち抜き、インディー・レーベルのコンピレーションカセットに楽曲が収録された後に、シングルをリリースしたりもするのだが、出来が気に入らずに500枚プレスしたもののほとんど捨てたという。ドラマーは不在だったのでリズムマシンを使っていたのだが、後にエラスティカに加入するジャスティン・ウェルチが一時的に在籍していたこともあったようである。しかし、やはりちゃんとしたドラマーを募集しようと広告を出したところ、なんと元ザ・スミスのマイク・ジョイスからも応募があったという。ザ・スミスに影響を受けているバンドに、元ザ・スミスの自分が入るのは良くないのではないか、とも思い、結局は加入しなかったようだ。そして、サイモン・ギルバートが加入することになった。
ブレット・アンダーソンとジャスティーン・フリッシュマンはカップルでもあったのだが、1991年には破局を迎え、ジャスティーン・フリッシュマンはブラーのデーモン・アルバーンと付き合うようになった。それでもバンドには残っていたのだが、ブラーのビデオ撮影に参加したとジャスティーン・フリッシュマンが話すのにブチ切れ、ブレット・アンダーソンがバンドから追い出したのだという。それから、ブレット・アンダーソンはバーナード・バトラーとの親交を深め、とにかく曲をつくりまくったという。この件がなければ、その後のスウェードの成功はなかったとまでいわれている。そうしていくうちに、ライブなどでもジャーナリストの目に留まるようになり、「NME」などに好意的なライブ評が載ったりもする。
1992年に入るとインディー・レーベルのヌードと契約が決まり、「メロディー・メイカー」ではデビュー・シングルの発売前だというのに、「スウェード:イギリスで最高の新人バンド」の見出しと共に表紙に掲載されることになる。そして、「NME」にもシングル・オブ・ザ・ウィークのレヴューが載った。「NME」ではヴァーヴやクリエイション・レコーズからデビューしたアドラブルと共に、ニュー・グラムなどと表現されていたが、これはまったく普及しなかった。レヴューや記事を読んだ感じだと、グラム・ロックやザ・スミスなどからの影響が感じられ、当時のインディー・ロックに欠けていたセクシーでグラマラスな魅力に溢れているという感じであった。これはレコードを買うしかないだろうと思い、ラフ・トレード・ショップなどに行くのだが、待てど暮らせど入荷していない。あるいは、すぐに売り切れているのか。
やっと買うことができたのは、おそらく発売から1ヶ月ぐらいたった頃ではなかっただろうか。買ったのは12インチ・シングルだったのだが、帰宅してラフ・トレード・ショップの白い袋から取り出し、レコードをターンテーブルに載せる。プレイヤーの再生ボタンを押すとアームが動き、レコードの上にゆっくりと落ちるのだが、次の瞬間、スピーカーから聴こえたのは何かのはじまりを予感させるドラムビートであり、その後のギターリフで完全にこれは好きに違いないと確信した。そして、ブレット・アンダーソンのセクシーなボーカルである。歌詞は何も言っていないようでもあり、すべてを語りつくしているともいえる。要は陶酔状態であるわけだが、「We kiss in his room to a popular tune」というような身も蓋もないフレーズも含め、アドレナリンラッシュが感じられ、これはすごいものを買ってしまったと思った。それから、繰り返し、こればかり何度も何度も聴き続けていた。B面に収録された「マイ・インサティアブル・ワン」もとても良かったのだが、これはモリッシーがカバーしたことでも話題になった。
当時、とあるCDショップで働いてもいたのだが、そこではイギリスのインディー・ロックなどにはほとんど力を入れていなかったので、スウェードのシングルももちろん入荷していなかった。ある日、ソニーの社員だという女性からスウェードについての問い合わせを受けたが、当然、在庫はないと伝えることしかできない。それでも、ここ日本においてスウェードに注目してくれていることがあまりにもうれしく、個人的にレコードを録音したカセットを差しあげることになった。それから少したった頃、同じソニーの女性社員が店にやってきて、イギリスでスウェードのライブを見たがとても良かったことと、スウェードのCDをソニーから出すことが決まったことを教えてくれた。
スウェードの次のシングル「メタル・ミッキー」はイギリスでこの年の9月14日に発売され、全英シングル・チャートで最高17位を記録した。この時には、すぐに買うことができた。日本では「ザ・ドラウナーズ」「メタル・ミッキー」の2枚のシングルに収録された計6曲を1枚のCDに収録して、「ザ・ドラウナーズ」としてソニーから1,800円で発売された。帯には「大衆を堕落させる知的なエロスー。」というコピーが印刷されていた。CDショップで洋楽国内盤の担当だったので、いよいよこのCDをレコメンドできるとあって、とてもうれしく感じたことが思い出される。