邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1981, Part.1

恋のぼんちシート/ザ・ぼんち(1981)

ザ・ぼんちのデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位、「ザ・ベストテン」では最高4位を記録した。

1980年からの漫才ブームで特に人気があったのはB&B、ザ・ぼんち、ツービート、島田紳助・松本竜介、西川のりお・上方よしおあたりで、それぞれレコードも出していたのだが、ここまでヒットしたのはこの曲ぐらいであろう。

作詞・作曲は近田春夫、編曲はムーンライダーズの鈴木慶一だが、歌詞にはテレビ朝日系のワイドショー番組「アフタヌーンショー」を題材にしたザ・ぼんちの持ちネタが引用されていたりもする。

このレコードが発売された1981年の元旦にニッポン放送系では「ビートたけしのオールナイトニッポン」が放送を開始したのだが、番組では後にこの曲はダーツ「ダディ・クール」のパクリではないのか面白おかしく取り上げたりもする。しかし、作曲者の近田春夫があっさりと認めたことによりそれほど盛り上がらず、それについてビートたけしが愚痴っていた。

ジャケット写真は男性ファッション雑誌「MEN’S CLUB」のパロディーで、タイトルは近田春夫が作詞したジューシィ・フルーツ「恋はベンチシート」に由来している。

ツッパリHigh School Rock’n Roll(登校編)/横浜銀蠅(1981)

横浜銀蝿の2作目のシングルでオリコン週間シングルランキング、「ザ・ベストテン」共に最高2位のヒットを記録した。

不良少年のことをヤンキーと呼ぶのは関西以外ではもっと後になってからのことで、当時はツッパリと呼ぶことが多かった。校内暴力が社会現象化したり暴走族の写真集が売れまくったり、猫にツッパリやスケバンの格好をさせた「日本暴猫連合 なめんなよ」なる写真集や関連グッズ(又吉&なめんなよ「なめんなよ」なるレコードまでもが発売されてオリコン週間シングルランキングで最高5位のヒットを記録したり、個人的にも妹がお年玉で買っていた記憶がある)がものすごく売れていたり、ツッパリ文化は当時のトレンドでもあった。

学歴社会の歪みだとかそういうこともいわれていたような気もするのだが、リーゼント、サングラス、革ジャンなどをトレードマークとしているようにも見える横浜銀蝿のブレイクもまた、そんな時代の気分を反映していたように思える。

ツッパリの日常的なあるあるのようなものをテーマにした歌詞がおそらくは受けていたのだが、ロックンロールチューンとしてもかなり良い。この後、嶋大輔や紅麗威甦(グリースと読む。杉本哲太もメンバーであった)、マスコットガール的存在の岩井小百合など銀蝿一家と呼ばれる一大勢力を築いたりもした。

春咲小紅/矢野顕子(1981)

矢野顕子の5作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高5位を記録した。カネボウ化粧品のCMソングで、作詞をコピーライターの糸井重里が手がけている。

イエロー・マジック・オーケストラのツアーに参加していたことにより、新しい世代にも知名度が上がっていたタイミングでのリリースであった。編曲のymoymoとは、イエロー・マジック・オーケストラとそのツアーメンバーたちのことである。

街角トワイライト/シャネルズ(1981)

シャネルズの3作目のシングルでオリコン週間シングルランキング、「ザ・ベストテン」いずれにおいても1位に輝いた。一部メンバーの不祥事によって謹慎をしていたシャネルズの、復帰後初となるシングルである。

やはりドゥーワップ的な要素を取り入れた歌謡ポップスなのだが、キャッチーでありながら切なげな感じがとても良い。

個人的にはこの曲のコーラスをカセットテープの多重録音によってコピーしたりして遊んでいたことなどが懐かしく思い出される。

ルビーの指環/寺尾聰(1981)

寺尾聰の6作目のシングルでオリコン週間シングルランキング、「ザ・ベストテン」いずれにおいても週間のみならず年間1位に輝き、「第23回日本レコード大賞」「第12回日本歌謡大賞」「FNS歌謡祭」で大賞を獲得、「NHK紅白歌合戦」にも出場するなど、とにかくヒットしまくっていた。

「ザ・ベストテン」では10週連続1位を記念して贈られたルビー色の椅子が、その後もずっとスタジオに設置されていた。この曲のヒットによってそれ以前にリリーズされていたシングル「SHADOW CITY」「出航 SASURAI」も売れはじめ、「ザ・ベストテン」で3曲同時ランクインを成し遂げたりもした。これら3曲すべてを収録したアルバム「Reflection」もオリコンのアルバムランキングで年間1位である。

都会的な大人の哀愁を感じさせるこの曲がなぜここまでの大ヒットになったかはよく分からないのだが、当時この曲はとにかくよく売れていた。

俺は絶対テクニシャン/ビートたけし(1981)

ツービートのデビューシングルとしてリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高77位を記録した。レコードはツービート名義でリリースされ、A面にテクノ歌謡的なビートたけし「俺は絶対テクニシャン」、B面にムード演歌的なビートきよし「茅場町の女」を収録していた。

漫才ブームで一般大衆的に最も人気があったのはB&Bやザ・ぼんちであり、ツービートは毒舌が売りだったこともあり万人受けというタイプではなかった。1981年の元旦からはじまった「ビートたけしのオールナイトニッポン」はその芸風やキャラクターにマッチしたコンテンツであり、ビートたけしを人気漫才師の1人から若者たちのカリスマ的存在へと押し上げるきっかけになったように思える。

ザ・ぼんち「恋のぼんちシート」が大ヒットしたことから、同じ人気漫才師であるビートたけしもこの曲をヒットさせようとラジオでいろいろな作戦をリスナーと共有していたのだが、楽曲そのものが「ピコピコ パコパコ スコスコ キンキン」(作詞は来生えつこ)というフレーズからはじまる下ネタ満載の内容であり、いずれにしてもヒットさせるのはなかなか難しかったのではないかと思える。

「ビニール本」「夕ぐれ族」などといった当時を思わせるフレーズが入っていてなかなか楽しいのみならず、音楽的にもテクノ歌謡としてひじょうに楽しめるものになっていて、後に電気グルーヴの石野卓球によってカバーされたりもしている。作曲は遠藤賢司である。

咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3/ユー・アンド・ミー・オルガスムス・オーケストラ(1981)

スネークマンショーのアルバム「スネークマン・ショー」からシングルカットされ、オリコン週間シングルランキングで最高58位を記録した。

元々は1970年代から放送されていたラジオ番組から派生したユニットであり、伊武雅刀、小林克也が参加している。アルバムにはスネークマンショーのコントの間にイエロー・マジック・オーケストラやシーナ&ザ・ロケッツの楽曲が収録されていて、当時のリスナーからはイエロー・マジック・オーケストラ関連作品の1つとして認識されていた(「急いで口で吸え!」のキャッチコピーと共に)。

当時まだそれほどメジャーではなかったラップを取り入れた初期の邦楽ソングだということもでき、作曲・編曲は細野晴臣だが、ブロンディ「ラプチュアー」あたりからの影響が感じられたりもする。

シンデレラサマー/石川優子(1981)

石川優子の7作目のシングルでオリコン週間シングルランキングで最高10位、「ザ・ベストテン」では最高7位を記録した。

日本航空のCMソングに起用された夏らしく軽快なポップソングで、石川優子にとって初のトップ10ヒットとなった。「ザ・ベストテン」にもランクインを果たしたのだが、放送がある木曜日には大阪のMBSラジオで笑福亭鶴光、角淳一と共に「MBSヤングタウン」にレギュラー出演していたため、スタジオからの中継で歌っていたことが思い出される。

E気持/沖田浩之(1981)

沖田浩之のデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高8位を記録した。

原宿の歩行者天国で踊っていた竹の子族の出身で、テレビドラマ「3年B組金八先生」の第2シリーズに出演していたことでも知られる。ファンからはヒロくんの愛称で親しまれていた。

タイトルの「E気持」がRCサクセション「キモちE」から影響を受けたものかどうかは定かではない。恋愛の段階におけるAがキスでBは…というような、当時の若者たちの間で流行していた恋のABC的な概念が歌詞では取り上げられている。

「大人は昔の自分を忘れてしまう生きものさ」「ついてこいよ」というようなジェネレーションソング的なところや、親衛隊がコールしやすいように工夫されているようにも思えるイントロなどもとても良い。