邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1993, Part.1

世界を止めて/ザ・コレクターズ(1993)

ザ・コレクターズの3作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高91位を記録した。

1986年に加藤ひさしらによって結成されたバンドで、バンドブームの時代に活動を開始するのだが、60年代イギリスのロックバンドから影響を受けた音楽性はブームとは一線を画すものであり、一時期はネオGSにカテゴライズされ、後の「渋谷系」にも影響をあたえたのではないかといわれたりもする。

フリッパーズ・ギターの作品にも手がけたサロン・ミュージックの吉田仁をプロデューサーに迎えたアルバム「UFO CLUV」にはバンドの本来の魅力を保持したまま、より邦楽ロック&ポップスとしても開かれた感覚があり、特にシングルカットもされたこの曲は大阪のFM802でヘビーローテーションに選ばれるなど、幅広いリスナーを獲得した。

渡良瀬橋/森高千里(1993)

森高千里の19作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高9位を記録した。

栃木県足利市に実在する渡良瀬橋を舞台にしたご当地ソングで、橋から夕日を見ながら別れた恋人のことを思い出すという内容になっている。

橋をモチーフにした歌詞をつくろうと地図を見ていたところ、渡良瀬川という文字がとても気に入り、後に現地を訪れた際のイメージを元に書き上げられている。歌詞に登場する八雲神社や「床屋の角にぽつんとある公衆電話」も実在している。

森高千里は熊本出身で現地にはそもそも縁もゆかりもなかったのだが、この曲の歌詞は現地の出身者という設定で書かれている。後に足利市で行われたライブではこの曲で観客による大合唱が起こり、思わず涙してしまうということもあった。

後に渡良瀬橋と夕日が見える場所に歌碑が建立されたりもしている。

ドラムスやピアノ、ノスタルジックな気分をかき立てる間奏のリコーダーは森高千里自身によって演奏されている。

2004年には松浦亜弥のカバーバージョンがオリコン週間シングルランキングで最高6位のヒットを記録している。

負けないで/ZARD(1993)

ZARDの6作目のシングルでオリコン週間シングルランキングで1位、年間シングルランキングでは6位を記録している。

元々は織田哲郎のアルバム用につくられた楽曲に坂井泉水の歌詞をつけて歌ってみたところとても良かったので、ZARDのシングルとしてリリースすることになったようだ。

それまでラヴソングの歌詞ばかり書いていた坂井泉水だが、この曲のメロディーを聴いた時になんとなく応援歌っぽいと感じ、「負けないで もう少し 最後まで走り抜けて」というフレーズを含むこの歌詞が書き上げられたという。

日本テレビ系「24時間テレビ『愛は地球を救う』」内のチャリティーマラソンでの出演者たちによる合唱や高校野球など、汎用性の高い応援ソングとしてすっかり定着している。

失格/橘いずみ(1993)

橘いずみの3作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高39位を記録した。

「自分の言いたいことを私は何も言わない」から「四の五の理屈を言ってる私を愛したい」までの間に「何もかもが嫌になるにはまだまだまだ若すぎる」「愛してないのに抱かれ他の人を夢見てる」「好きな人に他に守るものあっても構わない」、チャカ・カーン「Whacha Gonnna Do for Me」や梅田、なんば、心斎橋、元町、西ノ宮といった地名も登場する、とにかくパンチの効きまくった歌詞が実に印象的である。

同じく須藤晃がプロデュースを手がけていたことから、女・尾崎豊などといわれていたこともある。

後にテレビドラマ「この愛に生きて」の主題歌に起用された「永遠にパズル」がトップ10ヒットを記録したりもするのだが、やはりこの曲のインパクトが強烈であり、その強度は今日においてもまったく褪せてはいない。というか、今日においてこそより刺さるのではないか、というような気すらする。

スウィート・ソウル・レヴュー/ピチカート・ファイヴ(1993)

ピチカート・ファイヴの4作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高19位を記録した。

カネボウ化粧品のCMソングで、本来はとても趣味的な音楽でもあるのだが、それが世の中の求めるスウィートやキャッチーと奇跡的に一致していたという夢のような状況があった。

田島貴男がオリジナル・ラヴでの活動に専念するため「卒業」し、野宮真貴が加入したのが1990年で、それ以降は「渋谷系」のポップアイコン的な存在として認知されるように次第になっていく。

いかれたBaby/フィッシュマンズ(1993)

フィッシュマンズの5作目のシングルとしてリリースされたが、オリコン週間シングルランキングなどにはランクインしていない。

レゲエやロックステディなどの要素も取り入れたバンドとして活動していたフィッシュマンズだが、この曲からはコンピュータによる打ち込みを全面的に行うようにもなふぃ、より音響派的な音楽性に変化していった。

「悲しい時に浮かぶのはいつでも君の顔だったよ」と歌いはじめられるこの楽曲には、彼岸からのラヴソングとでもいうべき浮遊感と共に心のとても深いところを揺さぶる強度が感じられもする。

島唄/THE BOOM(1993)

THE BOOMの11作目のシングルでオリコン週間シングルランキングで最高4位、「第35回日本レコード大賞」ではベストソング賞を受賞した。

デビュー当時はビートパンク的な音楽をやるロックバンドとして知られていたが、少しずつ音楽性を広げていき、1992年のアルバム「思春期」には琉球民謡の要素を取り入れた「島唄」を収録した。

その後、沖縄の方言であるウチナーグチで歌ったバージョンをシングルとしてリリースし、それがヒットするとオリジナルバージョンのシングルカットを求める声も高まっていった。

当初その予定はなかったというのだが、あまりにも要望が強いことからシングルカットしたところ、大ヒットを記録するに至った。

宮沢和史が沖縄のひめゆり平和記念資料館を訪れた際に受けた衝撃をベースにした、沖縄戦の犠牲者たちに対する鎮魂歌となっている。

EZ DO DANCE/trf (1993)

trf(後に大文字のTRFに改名)の2作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高15位を記録した。

エイベックスの邦楽アーティスト第1号で、小室哲哉のプロデュースでデビューしたダンス&ボーカルグループで、グループ名はTK RAVE FACTORYの略である。

クラブミュージックを日本のポップミュージック界のメインストリームとして定着させると共に、ダンサーの存在を広く認知させた点においても画期的であった。

そういった意図もあり、この曲の歌詞も「踊る君を見てる」とダンサーにフォーカスしたものになっている。

シーブリーズのCMソングに起用されたこの曲でブレイクするのだが、この後はより大きなヒット曲を連発し、90年代のいわゆる小室ブームを大いに盛り上げるきっかけとなる。