シーラ・E「グラマラス・ライフ」

1984年秋の全米ヒットチャートを眺めていると、そこに載っている楽曲のほとんどをいまでも思い出すことができて、いまだにかなり気に入っているものも少なくはないことに気づかされる。特に好きなものはレコードも買っていたのだが、それ以外でもNHK-FMで日曜の夜に放送されていた「リクエストコーナー」という番組からカセットテープに録音しては繰り返し聴き続けていたので、ほとんど日常のサウンドトラックと呼べるレベルであった。

なぜここのところ1984年にこだわっているのかというと、ただ単純に40周年だからということもあるのだが、それ以外にもいろいろと思うところがある。それはそうとして、シーラ・E「グラマラス・ライフ」は当時かなり気に入っていたのだが、最近は熱心に聴いていなかったような気がする。それで久々に聴いてみて、ミュージックビデオも視聴してみたのだが、やはりかなり好きだということが分かった。

シーラ・Eは女性パーカッショニストであり、いわゆるプリンスファミリーの一員としても知られていた。この年はとにかくプリンスの当たり年であり、それまでも批評家からはかなり高く評価されていたのだが、1982年のアルバム「1999」からシングルカットされた「リトル・レッド・コルベット」が全米シングルチャートで初めて10位以内に入り、いよいよ時代がプリンスに追いついたのかというようなムードにブーストをかけるように主演映画「プリンス/パープル・レイン」とそのサウンドトラック、さらにはシングルカットされた「ビートに抱かれて」「レッツ・ゴー・クレイジー」も全米シングルチャートで連続して1位に輝いた。

さらには1979年のアルバム「愛のペガサス」に収録されていた「恋のフィーリング」のチャカ・カーンによるカバーバージョン「フィール・フォー・ユー」も全米シングルチャートで最高3位、全英シングルチャートでは1位の大ヒットを記録し、プリンスに関するものならば何でも売れるのではないか、というぐらいの勢いがあった。

それで、このシーラ・Eのデビューシングル「グラマラス・ライフ」なのだが、やはりプリンスによる楽曲である。ミュージックビデオにおけるダンスアクションも含め、確かにプリンスらしさがじゅうぶんに感じられるのだが、ポイントはシーラ・Eがとてもカッコいい女性パーカッショニストだという点である。

パーカッショニストのピート・エスコべードを父に持ち、名付け親はラテン音楽界の大御所、ティト・プエンテである。「グラマラス・ライフ」がデビューシングルではあるのだが、ミュージシャンとしては1970年代からすでに活動していて、ジョージ・デューク、ライオネル・リッチー、マーヴィン・ゲイ、ハービー・ハンコック、ダイアナ・ロス、高中正義らと共演したり、父とデュオアルバムをリリースしたりもしていた。

プリンスとも実はわりと長い付き合いであり、ソロアーティストとしてのデビューを後押ししてもいたようである。元々は映画「プリンス/パープル・レイン」にプリンスの恋人役で出演し、プライベートでも恋人だったといわれるアポロニア・コテロを中心とするガールグループ、アポロニア6のために書いた楽曲だったのだが、いろいろあって興味を失ったため、別のアーティストに提供することになったのだという。

後にバングルスに提供し、ヒットを記録する「マニック・マンデー」もこの頃の楽曲のようである。それはそうとして、「グラマラス・ライフ」はやはりアポロニア・コテロをモデルにした楽曲であり、グラマラスな生活を送っている女性のたとえとして「夏でもミンクの長い毛皮のコートを着ている」というような歌詞があるのだが、これは実際にプリンスがアポロニア・コテロについて言っていたジョークに由来しているという。

シーラ・Eはつまり自分以外の女性について書かれた楽曲を歌うことになったわけだが、そのイメージはわりとマッチしてもいた。この曲がヒットした時点において、日本の若者にとって洋楽はすでに聴くだけではなく見るものという認識が広がっているほどには、1981年にアメリカで開局したMTVをきっかけとしたミュージックビデオ(当時はプロモーションビデオと呼ぶ方がポピュラーだったが)文化は浸透していた。

それで、この曲のビデオもわりとすぐに見ることになるわけだが、そのカッコよさに圧倒された。当時、女性アーティストでこのようにパーカッションを華麗に演奏しながら歌うというスタイルを他にはほとんど見かけなかったので、とにかくそれがかなり衝撃的であった。

全米シングルチャートでは1984年10月6日付で最高7位を記録するのだが、その週の1位がプリンス・アンド・ザ・レヴォリューション「レッツ・ゴー・クレイジー」である。他には2位にスティーヴィー・ワンダー「心の愛」、3位にカーズ「ドライヴ」、5位にシンディ・ローパー「闇夜でShe Bop」、8位にマドンナ「ラッキー・スター」、10位にブルース・スプリングスティーン「カヴァー・ミー」などがランクインしている。

翌年の1月に石川秀美が「もっと接近しましょ」というシングルをリリースして、「グラマラス・ライフ」のあの印象的なサックスのフレーズとほとんど同じメロディーで「もっと接近しましょ」と歌っていたので、吹田明日香「ライク・ア・ヴァージン」などと同様の日本語カバーバージョンかと思っていたのだが、黒住憲五が作曲したオリジナル曲だということであった。とはいえ、「グラマラスに抱いて」などという歌詞からもかなり確信犯に近いのではないかというような気はしている。

「グラマラス・ライフ」そのものは80年代特有の物質文化礼賛的な内容のようにも思われがちなのだが、愛がなければ意味がないというようなことも歌われてはいて、けしてそうではないという体裁は整えられている。このあたり、約5ヶ月後にヒットするマドンナ「マテリアル・ガール」ほどには開き直っていない。日本にバブル景気が訪れるのは、そこからまた少し先のことになる。

1970年にはプログレッシブロック的なバンドとして知られていたジェネシスはフィル・コリンズのソロアーティストとしての成功を経て、わりと80年代的な産業ロック的な方向性の楽曲「インヴィジブル・タッチ」で1986年に全米シングルチャートの1位を記録するのだが、男性に対して不思議な魅力を発揮する少女のモチーフは、シーラ・E「グラマラス・ライフ」から得たものだという。

その後、シーラ・Eはプリンスの元を離れたりまた一緒に活動したりもするのだが、その間にはリンゴ・スターのオールスターバンドに参加したり、日本では安室奈美恵のライブで演奏したりもするなど、アーティストとしてずっと活躍し続けている。

プリンスの死後にリリースされたアルバム「オリジナルズ」には、この曲の自身によるデモバージョンが収録されている。