チャカ・カーン「フィール・フォー・ユー」
「フィール・フォー・ユー」はチャカ・カーンの5作目のソロアルバムのタイトル曲であり、全米シングルチャートで最高3位、全英シングルチャートでは1位の大ヒットを記録した。グラミー賞では最優秀女性R&Bボーカルパフォーマンス賞を受賞している。
チャカ・カーンの名前の連呼からはじまるラップはグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴのメリー・メルによるものだが、最初の繰り返しはプロデューサーのアリフ・マーディンがリピートマシンで手をすべらせてしまうというハプニングから生まれたのだが、なかなか良かったのでそのまま採用したのだという。
ポップソングにラップを取り入れるという手法は後にごく当たり前になるのだが、当時としてはとても新しく感じられた。しかも、ラップしているのが「ザ・メッセージ」「ホワイト・ライン」といったオールドスクールヒップホップの名曲で知られるメリー・メルである。
当時の気分を感じさせてくれるシンセサイザーのサウンド、そしてハーモニカを演奏しているのはスティーヴィー・ワンダーである。チャカ・カーンは1973年にファンクバンド、ルーファスのボーカリストとしてキャリアをスタートさせているのだが、最初のヒット曲「テル・ミー・サムシング・グッド」を作詞・作曲したのはスティーヴィー・ワンダーであった。
そして、「フィール・フォー・ユー」はスティーヴィー・ワンダーの1963年のヒット曲「フィンガーティップス」をサンプリングしてもいる。
よく知られているように、この曲はプリンスの1979年のアルバム「愛のペガサス」に収録されていた「恋のフィーリング」のカバーバージョンである。プリンス自身によるバージョンが全米シングルチャートで最高11位を記録した「ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー」と共に1982年リリースののディスコクラシック「フォーゲット・ミー・ノッツ(忘れな草)」で知られるパトリース・ラッシェンに提供するつもりで書かれたのだが、いずれも却下されたのだという。その後、ポインター・シスターズの1982年のアルバム「ソー・エキサイテッド」にカバーバージョンが収録されていた。
チャカ・カーンはルーファスのボーカリストでありながら、ソロアーティストとしても活動するようになり、後にホイットニー・ヒューストンがカバーしたことでもかなり有名になる「アイム・エヴリ・ウーマン」などをリリースしていた。
ルーファスは1983年に解散し、チャカ・カーンはソロアーティストとしての活動に専念していくことになるのだが、最後にリリースしたライブアルバムに収録されたスタジオ録音トラック「エイント・ノーバディ」が全米シングルチャートで最高21位のヒットを記録し、翌年のグラミー賞では最優秀R&Bデュオorグループパフォーマンス賞を受賞する。そして、この年のグラミー賞ではソロアーティストとしてもアルバム「ビバップを歌う女」で最優秀女性R&Bボーカルパフォーマンス賞、収録曲の「ビバップ・メドレー」で最優秀ボーカルアレンジ賞を受賞したりもしている。
つまり、少なくともR&Bのアーティストとしてはかなり絶好調だったわけであり、この年の5月には東京、大阪、名古屋で来日公演も行っている。とはいえ、レーベルからはよりコマーシャルなヒット曲を要求されるという現実もあり、それに応えたのが「フィール・フォー・ユー」だったようである。
そして、1984年といえばプリンスが「パープル・レイン」のアルバムや映画などで一般大衆的に大ブレイクした年であり、ファミリーの一員的な存在でもあったシーラ・E「グラマラス・ライフ」もヒットしていた。そういったタイミングでのチャカ・カーンによるプリンスのカバーということで、まさに当時を象徴するヒット曲だといえる。
ヒップホップはすでにストリートカルチャーとして話題になっていたのだが、まだまだメインストリームにはなりきれていない。日本でも雑誌「宝島」などで取り上げられていたのだが、ラップミュージック、ブレイクダンス、ストリートアートといったカルチャーを総称したものとして紹介されていたような気がする。
「フィール・フォー・ユー」はメリー・メルのラップをフィーチャーしていたことなどによって、そういったトレンドをメインストリームのレベルで先取りしていたといえるわけだが、ミュージックビデオにもそういった感覚はじゅうぶんに反映されている。
チャカ・カーンはこの後にも1986年に大ヒットしたスティーヴ・ウィンウッド「ハイヤー・ラヴ」に参加していたり、ロバート・パーマー「恋におぼれて」でもコラボレートしていたのだが、何らかの理由でボーカルがカットされることになったり、1989年にはクインシー・ジョーンズのアルバム「バック・イン・ブロック」からシングルカットされたブラザーズ・ジョンソン「アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー」のカバーバージョンでレイ・チャールズと一緒に歌ってまたしてもグラミー賞を受賞したりと、ポップミュージック史において華々しい経歴を重ねている。
「フィール・フォー・ユー」がチャカ・カーンのベストパフォーマンスというわけではない、という意見についてはおそらく確かにそうかもしれないのだが、ポップミュージック界のメインストリームにあたえたインパクトという点ではおそらくこれが一番なのではないだろうか。
全米シングルチャートでは1984年11月24日付から3週連続で記録した3位が最高位なのだが、1985年の年間シングルチャートではワム!「ケアレス・ウィスパー」、マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」、ワム!「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」、フォリナー「アイ・ウォナ・ノウ」に次ぐ5位にランクインしている。
1位を阻んだのはワム!「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」、プリンス・アンド・ザ・レヴォリューション「パープル・レイン」、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「アウト・オブ・タッチ」なのだが、4位に落ちた12月15日付のチャートでは前週の11位から8ランクアップしたマドンナ「ライク・ア・ヴァージン」に抜かれている。
1980年代の前半に最も多くの全米NO.1ヒットを記録したのはダリル・ホール&ジョン・オーツなのだが、その最後となった「アウト・オブ・タッチ」と1980年後半以降の全米シングルチャートを席巻するマドンナの最初の全米NO.1ヒット「ライク・ア・ヴァージン」が交差するその場所にこの曲があったというのも、なんだか象徴的でとても良い。