【追悼】オリヴィア・ニュートン・ジョンの思い出について

月曜の朝、オリヴィア・ニュートン・ジョンの訃報を知った。少し前に、80年代の夏にアメリカで最もヒットしていた曲は何だったのだろうと、全米シングル・チャートでの順位だけを基準に独自の方法で集計してみたところ、ポリス「見つめていたい」、アイリーン・キャラ「フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング」、プリンス「ビートに抱かれて」、キム・カーンズ「ベティ・デイビスの瞳」、ジョン・クーガー「青春の傷あと」、ビリー・ジョエル「ロックンロールが最高さ」、ポール・マッカートニー「カミング・アップ」、サバイバー「アイ・イブ・ザ・タイガー」、リック・スプリングフィールド「ジェシーズ・ガール」、ヒューマン・リーグ「愛の残り火」、TOTO「ロザーナ」、エディ・グラント「エレクトリック・アベニュー」に次ぐ13位がオリヴィア・ニュートン・ジョン「マジック」であった。この曲がヒットした1980年、個人的には中学生であり、初めて洋楽のレコードを買いはじめたことでもひじょうに印象深い。とはいえ、オリヴィア・ニュートン・ジョンの「マジック」という曲をしっかりと認識していたわけではなく、後から聴いてみて、確かにこれはよくラジオで流れていたような気がする、と感じたのであった。そして、この曲は映画「ザナドゥ」のサウンドトラック・アルバムからのシングル・カットであった。タイトル・トラックの「ザナドゥ」ならば、当時からしっかり認識して聴いていた。アーティスト名はオリヴィア・ニュートン・ジョン&E.L.O.だったはずである。E.L.O.というのはジェフ・リン率いるエレクトリック・ライト・オーケストラの略なのだが、地方の公立男子中学生なので、E.L.O.が「エロ」とも読むことができることで無邪気に喜んでいるようなていたらくであった。

YMOことイエロー・マジック・オーケストラが社会現象的にブームになっていた年でもあり、E.L.O.は同じくグループ名に「オーケストラ」という文言が入り、アルファベット3文字で略されているので、何だかカッコいいのではないだろうか、というような気分になっていた。確かにややテクノポップ的な気分も感じられなくもなく、それそれで気に入っていた。実は当時、「ザナドゥ」のサウンドトラック・アルバムからは「マジック」が全米シングル・チャートでは1位に輝いていたのにもかかわらず、全英シングル・チャートでは最高32位であり、「ザナドゥ」は全英シングル・チャートでは1位で、全米シングル・チャートでは8位だったようである。日本のオリコン週間シングルランキングでは「マジック」が最高43位で、「ザナドゥ」が最高22位となっている。とはいえ、オリヴィア・ニュートン・ジョンの名前を初めて知ったのは、それよりもずっと以前のことであった。というか、いつの間にか知っていたという感じである。それは洋楽を主体的に聴くとか聴かないとか以前のことで、オリヴィア・ニュートン・ジョンの曲をラジオで聴いて、その名前は自然に覚えていたのだった。もしかすると、初めて名前を覚えた海外の女性アーティストだったかもしれない。

70年代に「カントリー・ロード」「ジョリーン」といったカントリータッチの曲を歌っていて、それがわりとヒットしていたようなのだ。オリコン週間シングルランキングの記録を見てみると、「カントリー・ロード」が最高6位、「ジョリーン」が最高11位ということなので、なるほどかなり売れていたことになる。それから少しすると、もう少し洋楽を主体的に聴くようになるのだが、その頃に流行していたのが、ディスコ・ミュージックやビリー・ジョエル「ストレンジャー」などである。ポップ・ミュージック史によると、この頃にパンク・ロックもひじょうに盛り上がっているのだが、残念ながら日本の地方都市に住む小学生にまでは届かず、ゆえにディスコ・ソングにはなんとなくリアルタイムでの記憶があるが、パンク・ロックについては完全に後追いという状態になっている。

ディスコ・ブームを一気に爆発させたのはジョン・トラヴォルタが主演し、ビー・ジーズが音楽を担当した映画「サタデー・ナイト・フィーバー」であり、「土曜の夜はフィーバーしよう」というようなことをよく意味が分からないながら、地方都市の小学生までもがつぶやいているありさまであった。人気絶頂のジョン・トラヴォルタとオリヴィア・ニュートン・ジョンが主演した映画として、「グリース」もひじょうに話題になる。日本では「サタデー・ナイト・フィーバー」が大ヒットしていた1978年の夏に欧米では「グリース」が公開され、映画も音楽も大ヒットするのだが、日本では約半年遅れて正月映画として公開された。それでもやはりヒットして、80年代前半のオールディーズブームのようなものにも影響を及ぼしたのだろうか。

「グリース」を当時、旭川の映画館では見ていないのだが、その映像の一部はテレビでもよく流れていて、アメリカンでオールディーズなポップさは背伸びしたがりのティーンを憧れさせる要素ではち切れんばかりであった。サウンドトラック・アルバムからシングル・カットされたオリヴィア・ニュートン・ジョンとジョン・トラヴォルタのデュエット曲、「愛のデュエット」「想い出のサマー・ナイツ」などもラジオからよく流れていた。この頃、好きな女性タレントは誰かと聞かれると、榊原郁恵ではなくオリヴィア・ニュートン・ジョンと答えるようになった。

シティ・ポップ・リバイバルでも再注目されるシンガー・ソングライターの杏里はニューミュージックブーム全盛の1978年にデビューしたが、最初のシングルである「オリビアを聴きながら」は尾崎亜美によって提供されている。この「オリビア」というのがオリヴィア・ニュートン・ジョンのことであるということは、当時においてはほぼ常識に近かったのではないかと思われるのだが、歌詞に登場する「Making good things better」というフレーズがオリヴィア・ニュートン・ジョンのアルバムタイトルから引用されていることまでは気がついていなかった。また、1978年の春に化粧品のCMで流れていて普通にとても良い曲だと思っていた南沙織「春の予感-I’ve been mellow-」が尾崎亜美の提供曲であったことも後に知るのだが、この「mellow」という概念がオリヴィア・ニュートン・ジョンの「そよ風の誘惑」こと「Have You Never Been Mellow」にも通じるのではないか、と感じたりもした。

「マジック」「ザナドゥ」がヒットした1980年というのはこのまた少し後ということになるのだが、ビリー・ジョエルやポール・マッカートニーのレコードを買うなどしながら、全米ヒット・チャートにも興味を持つようになっていった。最初は「オリコン全国ヒット速報」に載っていた「レコード・ワールド」のチャートを参照していたのだが、そのうち実は一般的に全米ヒット・チャートといわれがちなのは、これではなくてビルボードのチャートなのではないかというような気分になっていき、隔週ではあるが「FM fan」に載っているやつや、「ミュージック・ラボ」なる業界誌の付録だというビルボードのチャートの紙が旭川の平和通買物公園にあったミュージックショップ国原のレジ近くのコルクボードに虫ピンのようなもので留められていたので、それを毎週、取りにいくようになった。そして、土曜の深夜は「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」を聴くのをやめて、ラジオ関東の「全米トップ40」を遠距離受信するようになった。そして、それらにランクインした曲を日曜夜のNHK-FM「リクエストコーナー」(というまったく何のひねりもないタイトルだが、全米シングル・チャートにランクインした曲なら日本未発売のものも関係なくノーカットでオンエアしてしまうという神番組)でエアチェック(ラジオからカセットテープに録音すること)するというルーティンである。

この動きは1981年に入るとさらに本格化していくのだが、「キッス・オン・マイ・リスト」で1位に輝いたダリル・ホール&ジョン・オーツという2人組がかなりお気に入りになり、秋には新曲の「プライベート・アイズ」も大ヒットさせた。全米シングル・チャートでも順当に1位になるのだが、ここで急上昇してきたのがオリヴィア・ニュートン・ジョンの新曲「フィジカル」である。当時のアメリカのワークアウトなヘルシー志向というか、健康的な要素ももちろんあるのだが、内容はひじょうにセクシャルなものであり、当時の男子中学生にとってはやや刺激的でもあった。テレビでも普通に見ることができたミュージック・ビデオもわりとセクシー路線を強調したものなのだが、それでもそれほどいやらしくなっていないのが特徴的でもあった。とはいえ、当時は地方の公立男子中学生なので、もちろん大興奮していたことは言うまでもない。

「フィジカル」は1981年11月14日付の全米シングル・チャートで前週の14位から3位に急上昇すると、その翌週にはダリル・ホール&ジョン・オーツ「プライベート・アイズ」、ローリング・ストーンズ「スタート・ミー・アップ」を抜いて1位に輝き、それからなんと10週にもわたってその座をキープし続けた。当時における歴代最長記録であったデビー・ブーン「恋するデビー」に並び、次の週も1位だと新記録を更新するところだったのだが、1982年1月30日付のチャートでダリル・ホール&ジョン・オーツの今度は「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」に抜かれたのだった。この間にフォリナー「ガール・ライク・ユー」は10週連続2位の記録を打ち立てたのだが、結局、1位にはなれずじまいであった(1985年に「アイ・ウォナ・ノウ」で悲願の1位に輝くのだが)。

「フィジカル」が収録されたオリヴィア・ニュートン・ジョンのアルバムは原題では「Physical」だったのだが、邦題は「虹色の扉」というものであった。洋楽のレコードは国内盤よりも輸入盤を買った方が少しだけ安いしなんとなく異国情緒が感じられたり特有のインクの匂いなどが味わえてとても良い、という定説が仲間うちでは定着しつつあったのだが、高校受験も深刻になりがちな年末近くに、旭川のファッションプラザオクノの地下にあった玉光堂で、クイーン「グレイテスト・ヒッツ」と一緒に買ったような気がする。「虹色の扉」の輸入盤(というか、輸入盤なので「Physical」という方が正確なのだが)にはミニポスターのようなものが付いていて、勉強机の横の壁にそれを貼った。着ている服が肌の色とわりと似ていて、一瞬ドキッとするところなどが良いと思った。「虹色の扉」からは「フィジカル」の次にシングル・カットされた「ムーヴ・オン・ミー」も全米シングル・チャートで最高5位のヒットを記録するのだが、この曲もセクシーでとても良かった。

1982年にリリースされ、全米シングル・チャートで最高3位を記録した「ハート・アタック」は、「O.N.J.グレイテスト・ヒッツVol.2」からの先行シングルであった。当時、ベスト・アルバムに新曲を2曲ぐらい収録して発売するのがわりと流行っていたような記憶がある。「グリース」「ザナドゥ」のサウンドトラックからのヒット曲や「フィジカル」なども収録されていて、これは買うしかないだろうと大いに盛り上がり、札幌の五番街ビルという建物にあった頃のタワーレコード(実は日本での1号店である)で買った記憶がある。この時にはドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」なども一緒に買ったはずである。このアルバムのジャケットは白いニットのようなものを着たオリヴィア・ニュートン・ジョンが横たわっているというものなのだが、見開きにすると全身とまではいかないのだがかなりの部分が写ってはいた。これらのレコードは実家に置いてきてしまったわけだが、その後でCDやデジタルダウンロードで買い直したりしている。作品そのものを聴き直したいという理由はもちろん大きかったとは思うのだが、ポップ・ミュージックが日常生活における一大事であった度合いが大きい、その頃の気分を買い直そうとしていたような気もする(そして、それはそう簡単に買い直せるようなものではなかった)。

昨今、メインストリームのポップ・ミュージックにおける、フューチャー・ノスタルジアなトレンドなどもあり、デュア・リパやマイリー・サイラスといったアーティストたちの楽曲に「フィジカル」の影響を感じたりもする。ポップ・ミュージックのファンを長年やっていたりこじらせたりしているうちに、自分なりのオールタイム・ベストとか、そういうのを好きでよく考えたり勝手に発表してみたりしがちではあるのだが、そこからは忘れられがちではあるものの、ポップ・ミュージックを好きになった当初の原初的な体験においてひじょうに重要な役割を果たしたアーティストなり作品というのが確実にあり、オリヴィア・ニュートン・ジョンは間違いなくそのような存在だったといえる。心よりご冥福をお祈りしたい。