佐野元春「SOMEDAY」

佐野元春の3作目のアルバム「SOMEDAY」は1982年5月21日にリリースされ、オリコン週間アルバムランキングで最高4位を記録した。同じ週の1位はポール・マッカートニー「タッグ・オブ・ウォー」で、とても悔しいと感じたんだ、というようなことを後にNHK-FM「サウンドストリート」で語っていた。とはいえ、佐野元春のそれまでのレコードはまだあまり売れていなかったため、本格的にブレイクを果たした記念すべきアルバムといえることは確実であろう。ライブハウスで人気の新進気鋭のロッカーとしてナチュラルに知名度が上がっていたということもあるのだが、大きな要因となったのは大滝詠一のナイアガラ・トライアングルに抜擢されたことであろう。1981年10月21日に大滝詠一、佐野元春、杉真理のナイアガラ・トライアングルのシングルとしてリリースされた「A面で恋をして」はオリコン週間シングルランキングで最高14位のスマッシュヒットを記録したが、同じ日に発売された佐野元春「ダウンタウン・・ボーイ」はランクインすらしていなかった。佐野元春の代表曲として知られ、アルバムタイトルにもなった「SOMEDAY」のシングルはこれからさらに約4ヶ月前の1981年6月25日に発売されていたのだが、これもオリコン週間シングルランキングにランクインしていない。レコード会社のプロモーションが足りていなかったのかといえばそんなこともなく、「SOMEDAY」のCMスポットを当時、ラジオでわりと耳にした記憶がある。

個人的には1981年の春あたりの時点では名前ぐらいは知っていて、部活も何もやらず授業が終わるとすぐに帰りがちな中学生だったため、その日もNHK-FMの「軽音楽をあなたに」を聴いていた。佐野元春の曲をかけるというのでよく知らないのだがとりあえずカセットテープに録音でもしておこうという気分になり、当時の言葉でいうところのエアチェック(ラジオからカセットテープに録音することをなぜかそう言っていた記憶があるのだが、厳密にその意味で合っているのかは定かではない)をしたわけである。その時にかかったのが1981年2月25日発売のアルバム「Heart Beat」から「ガラスのジェネレーション」「NIGHT LIFE」「君をさがしている(朝が来るまで)」の3曲だったのだが、そのユニークで適度にシティ感覚な歌詞と音楽性が直ちに気に入って、録音したカセットテープを貪るようにして繰り返し聴いていた。家じゅうにある小銭をかきあつめ、やっとLPレコードが帰る金額になったので、カリフォルニアロードというドロップハンドルで変速機能がやたらとついた自転車をとばして旭川の平和通買物公園まで行き、ミュージックショップ国原でやっと買うことができたのだった。この「Heart Beat」のレコードは、文字通り擦り切れるまで聴いたのだが、2008年の真夏に新宿コマ劇場で行われていたモーニング娘。と宝塚のコラボレーション舞台「シンデレラ the ミュージカル」を見にいく前に、西武新宿ぺぺのレコファンにて、中古CDで買いなおした。

「SOMEDAY」のシングルが発売されていることはラジオのCMや「オリコン・ウィークリー」などでも知っていたのだが、そのうちアルバムに収録されるだろうと思い、買っていなかった。当時、おそらくアルバムを買うつもりがそれほどないアーティストの曲で特に気に入ったものはシングルを買っていたのだが、アルバムを買うことが確実なアーティストについては、シングルを買わないことが多かったような気がする。「ダウンタウン・ボーイ」についてもそうだったのだが、「SOMEDAY」のアルバムに収録されたバージョンがシングルとはわりと異なっていたため、これはシングルを買っておけばよかったと思ったりもした。その後、ブレイクする少し前から佐野元春のレコードを買っていたことについて、若干の優越感を覚えていたりもしたのだが、爆笑問題の太田光などは佐野元春がゲストに出演していた回のラジオ放送で、日常に退屈していた中学生の頃にレコード店でデビュー・アルバム「BACK TO THE STREET」と衝撃的に出会ったと言っていた。おそらく当時、このような若者たちはわりと多かったのではないかと推測されるのだが、それもあってナイアガラ・トライアングル以降初のアルバム「SOMEDAY」の大ヒットにつながったのではないかと思われる。

中学生の頃には佐野元春のレコードを買っている友人が周りに誰もいなかったのだが、貸してみるとわりと評判は良かった。それで、高校に入学してみると佐野元春だけではなく、大滝詠一、山下達郎、杉真理といった、いわゆるナイアガラ系の音楽を好んで聴いている人たちがわりと多かった。特に佐野元春は女子にも人気があり、たまたま仲よくなった進学校の女子生徒などは、汽車で通学中にカバンにMOTOHARUと書いているのを知らない中年男性に見られて、「もうモトハルっていう彼がいるの…?」などと言われ、とても気持ち悪かったとロッテリアの2階で話していた。旭川の平和通買物公園にあったロッテリアは地元の高校生にとって、放課後の健全なたまり場のようになっていて、ここでくだらない話をしたり他校の生徒と交流することがあまりにも楽しく、個人的には「ロッテリア・パラダイス」などといういかにも頭の悪そうな曲をつくったりしていた記憶がある。長崎屋のジャンボソフトも忘れてはいけない。

高校の入学祝に買ってもらったパイオニアのプライベートというシステムコンポがようやく自宅に届き、最初に聴いたのは春休みに発売から1年ぐらいすぎてやっと買った大滝詠一「A LONG VACATION」だったのだが、佐野元春「SOMEDAY」もそれぐらいの時期に買ったような気がする。やはり、平和通買物公園のミュージックショップ国原であった。ファッションプラザオクノの地下にあった玉光堂でもよくレコードを買っていたのだが、どちらかというとミュージックショップ国原の方が好きだったような気がする。ミュージックショップ国原のビルは、1階がレコード売場で2階では楽器などを売っていた記憶がある。さらに上の方の階はゲームコーナーになっていて、友人がテレビゲームをやるのを見ていたりした。個人的にもたまには少しだけやったりもしたのだが、できればお金はレコードか本になるべくは使いたかったので、それほどはやらなかった。同じ階に焼そばなどが食べられるスペースがあったような気がする。それよりも地下のラーメン店がとても美味しかった記憶がずっとあったのだが、いま思うとあれが旭川ラーメンの名店として知られ、後に東京駅近くのKITTEにも出店する梅光軒だったのだ。ミュージックショップ国原は2008年に閉店したようで、レコードが売られていた1階は2022年5月現在、ローソンになっているのだが、地階の梅光軒は営業している。

「BACK TO THE STREET」「Heart Beat」のジャケット写真はモノクロだったのだが、「SOMEDAY」ではカラーになっていて、しかも佐野元春の見た目がかなりスタイリッシュになっている。これはちゃんと売れるということが想定されているな、と感じられたりもした。しかも、歌詞カードがひじょうにユニークで、切り離したり折ったり留めたりすると、小さなブックレットが出来上がるようになっていた。もちろんテンションが高めにつくったわけだが、案の定、いつの間にかどこかに行ってしまった。収録されている音楽は「Heart Beat」までと比べると、よりポップで聴きやすくなっているようにも感じられた。この年の3月21日に発売されたアルバム「ナイアガラ・トライアングルVol.2」に収録された佐野元春の曲がさらにポップに感じられたこともあり、ごく自然な流れのようにも思えた。

1曲目に収録され、シングルカットもされた「Sugartime」はそれまでの佐野元春にはなかったタイプのキャッチーな楽曲であり、「そばにそっといるだけで 永遠の恋を感じてる」「いつでもいつも Mad Love」などと純粋なラヴソングのようでもありながら、その輝きがいとも簡単に失われてしまいかねない哀しい予感にも実は感づいているという、なかなかリアルでヴィヴィッドな内容が歌われている。当初はよりプロテストソング的だったというのだが、佐野元春をなんとかブレイクさせたいレーベル側との話し合いにより、結果的にこのような感じになったのだという。杉真理がコーラスで参加していたり、先行シングルとしてリリースされていたバージョンとは微妙に違っていたりもした。オリコン週間シングルランキングで最高77位を記録した「Sugartime」のシングルB面には、ソニーのヘッドフォンステレオ、ウォークマンのCMソングとして制作された「WONDERLAND(WALKMANのテーマ)」が収録されていた。なお、この年の7月に出版された糸井重里「ヘンタイよいこ新聞」の裏表紙にもウォークマンの広告が掲載されていたことが思い出される。な佐野元春は雑誌のインタヴューなどで、当時のマスコミなどでもてはやされがちであった軽薄な30代に対しての違和感を表明したりもしていた。それには80年代前半のコピーライターブーム的な気分も含まれていたような気もするが、佐野元春は学生時代にコピーライター講座的なものに参加したり、デビュー前には広告代理店で勤務していたこともあったはずである。コピーライター講座的なものについては、当時、同じように受けていたという泉麻人のエッセイで取り上げられていた。

A面の2曲目に収録された「Happy Man」で印象的なのは「アスピリン片手のジェットマシーン」というフレーズなのだが、これは後にかせきさいだぁ「冬へと走りだそう」で引用されることになる。この曲はタイトルからしてもうアズテック・カメラ「ウォーク・アウト・トゥ・ウィンター」なのだが、「タバコの臭いのシャツに そっと寄り添う君」は松田聖子「赤いスイートピー」で、さらには佐野元春のトップ10ヒット「Young Bloods」が似ているのではないかといわれていたザ・スタイル・カウンシル「シャウト・トゥ・ザ・トップ」のタイトルが叫ばれたりもするという、すさまじい名曲である。それはそうとして、この「Happy Man」は1982年8月25日にシングル・カットされるのだが、すでにアルバムがかなり売れていたこともあり、それほどヒットはしなかったはずである。夏休みに親戚の家に遊びにいくと、「明星」「平凡」のような芸能雑誌の付録についていた歌本のようなものがあったのでパラパラとめくっていたのだが、近田春夫がヒット曲時評のようなことをやっていて、佐野元春がアルバム「SOMEDAY」から「Happy Man」をシングル・カットしたことについて、ポジティヴな意見を書いていたような気がする。「世界中のインチキ」というフレーズにはJ.D.サリンジャーの小説「ライ麦畑でつかまえて」の主人公、ホールデン・コールフィールドを思わせるところもある。

3曲目の「ダウンタウン・ボーイ」は先にシングルで発売されていたのとは別バージョンで収録されたことには先ほどもふれたのだが、都会のきらびやかさとその影にあるロンリネスのようなものがヴィヴィッドに描写されていてとても良かった。マーヴィン・ゲイの名前を初めて聴いたのは、この曲に歌詞によってだったような気がする。「SOMEDAY」のアルバムが発売される前月にあたる1982年4月に高校を卒業したばかりの松本人志と浜田雅功がNSCこと吉本総合芸能学院に入学し、後にコンビ名をダウンタウンにするのだが、この曲を出囃子に使っていたという。

「二人のバースディ」はシティ・ポップ的ともいえる洗練されていて聴きやすい曲で、しかもバースデイ・ソングにしてラヴソングということで、いろいろ何かと便利でもあった。「麗しのドンナ・アンナ」に続いて、A面の最後にタイトルトラックでもある「SOMEDAY」が収録されている。この頃の佐野元春の楽曲には街を感じさせるものがひじょうに多かったわけだが、この曲もまた「街の唄が聴こえてきて」という歌い出しではじまる。音楽的にはフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドの手法を用い、音を重ねて壁のようにすることによって、臨場感を生み出している。こういったオールディーズ的なポップ感覚を、80年代的なロックサウンドで再現したという点では、ブルース・スプリングスティーン「ハングリー・ハート」に近いところもあるように思える。

若者たちの心に響く楽曲でもあったわけだが、イノセンスの喪失とそこからの再生というテーマが扱われていて、それゆえに大人になってから聴いても、若かりし頃に聴いたのとはまた別のリアリティーをこの曲に感じることができるようになっている。また、「まごころがつかめるその時まで」「信じる心いつまでも」という、一見するとそれほどロック的ではないようにも思えるのだが、確かにとても大切なことが、アップ・トゥ・デイトな表現として実現されていたことも、あの軽薄な時代においては絶妙なバランサーとして機能していたような気もする。

シングルとして最初にリリースされた時にはヒットしなかったものの、その後、佐野元春の代表曲として知られるようになり、ある世代の人びとにとっては特に重要な意味を持っている場合もありそうな気がする。「Somedayを聴いて 君を思い出した」と歌われる真心ブラザーズ「time goes on」などは、その感じをうまく表現しているように思える。

B面のピークはなんといっても4曲目に収録された「ロックンロール・ナイト」なのだが、その前の曲である「ヴァニティ・ファクトリー」では沢田研二がコーラスで参加していて、メジャー感が漂っている。この曲は元々、佐野元春が沢田研二に提供した曲のセルフ・カバーである。B面1曲目に収録された「アイム・イン・ブルー」もまた沢田研二への提供曲であり、これを後に吉川晃司がカバーしている。「ロックンロール・ナイト」はブルース・スプリングスティーンばりにドラマティックな展開が感動的な楽曲なのだが、「瓦礫の中のGolden ring」というフレーズが特に印象的であった。

このアンセミックな楽曲の後、アルバムはアコースティックな「サンチャイルドは僕の友達」で終わるのだが、これがまた程よく爽やかな聴後感をあたえ、またはじめから聴き直してみようとも思わせる。個人的にはこれよりも思い入れの強いアルバムもあるのだが、ポップ・アルバムとしてのクオリティーはやはり桁外れに高いような気がする。この後、シングル「ダウンタウン・ボーイ」のB面であった「スターダスト・キッズ」を新しいアレンジのシングルとしてリリースし、オリコン週間シングルランキングで最高58位を記録、この曲と次のシングル「グッドバイからはじめよう」も収録したベスト・アルバム「No Damage(14のありふれたチャイム達)」が1983年4月21日に発売され、これがオリコン週間アルバムランキングで4週連続1位を記録する。このタイミングで単身渡米することになり、ニューヨークでヒップホップの洗礼を受けた佐野元春は、翌年には問題作となるアルバム「VISITORS」を発表する。当時はファンの間でも賛否両論があり、実際にこれで離れてしまった人たちも少なくなかったようなアルバムなのだが、ラップをいち早く取り入れた点でエポックメイキングだったということで、佐野元春の代表作とされる場合もある。「ミュージック・マガジン」が創刊50周年にあたる2019年に発表した「50年の邦楽アルバム・ベスト100」では、佐野元春のアルバムとしては「VISITORS」だけがランクインしている(ちなみにボアダムズとPhewの間の28位で、「SOMEDAY」は圏外の109位である)。

個人的に「VISITORS」容認派というか、とても気に入っていたタイプではあるのだが、当時の大衆に支持されて、佐野元春というアーティストの存在をメジャーにしたアルバムといえば、間違いなく「SOMEDAY」であろう。