フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」と六本木についての個人的な記憶。
1991年7月10日に発売されたフリッパーズ・ギターのアルバム「ヘッド博士の世界塔」が30周年ということで、それについての文章を短期集中的に書いていたのだが、それも当日をもってついにフィナーレかと思いきや、しぶとくまだ続いているのだった。
というのも、当日はやはり当時、聴いていたゆかりの地で聴きたいというもの。当時、住んでいた京王線柴崎駅から徒歩圏には偶然にも今年の3月、しかも「グルーヴ・チューブ」発売30周年のその日に引越していた。そして、このアルバムはやはり当時、六本木WAVEで買ったと思うのだ。とはいえ、もう20年以上も前に建物ごと無くなっている。せめてその近くにでも行こう、という気分になった。
「ヘッド博士の世界塔」が発売された1991年の夏はとても暑くて、六本木WAVEの裏にあった六本木公園の自動販売機ではこの年の2月に新発売されたカルピスウォーターが大人気で常に売り切れていた記憶がある。今日のようなペットボトルではなく、当時は缶でのみ発売されていた。「ヘッド博士の世界塔」発売30周年にあたるこの日の東京もまたとても暑くて、天気が良かった。当時とまったく同じように、柴崎駅から京王線の電車に乗った。
京王線沿線に住んでいる人達が六本木に行く場合、最も簡単な方法は新宿で都営大江戸線に乗り換えることなのだが、今回は当時をなるべく再現するというコンセプトもあるため、明大前で井の頭線に乗り換えて、バスで六本木まで行くという経路を選択する。都営大江戸線が六本木にまで延びたのは2000年12月12日、六本木WAVEが閉店した翌年のことであった。
明大前で井の頭線に乗り換えて渋谷に行くまでは簡単なのだが、それからスムーズに六本木に行くバスに乗れるだろうかというのがひじょうに心配であった。なぜなら渋谷駅近辺はあれから極度に開発されたことにより、なんだかよく分からないことになっているからである。しかし、東口バスターミナルからわりとすんなりと乗ることができ、西麻布を経由して六本木まで行った。当時、渋谷駅前のバスターミナルから都バスに乗って六本木によく行っていたのだが、終点ではなかったはずである。それでは一体どこ行きだったのかというと、これがさっぱり思い出せない。とりあえず今回乗ったのは、新橋行きであった。
六本木WAVEがかつてあった場所とは六本木通りを挟んで反対側に停車するわけだが、それからまずはかつて誠志堂書店があった場所、というか80年代の待ち合わせのメッカ(といわれていたような気がする)アマンドの向かい側あたりまで歩いてみる。それから乃木坂方面に少し行った辺りの建物の地下に居酒屋の天狗があったはずなのだが、どうもそれが見当たらない。横断歩道を渡り、芋洗坂を下っていく。芋洗坂係長というお笑い芸人が一時期、活躍していて、道重さゆみがあのキレはすごいと絶賛していたような記憶がある。
ここを下って行ったところは、当時ならば六本木WAVEの裏側からそのまま行けたわけなのだが、手羽先をメインとする居酒屋のような店があって、当時、六本木WAVEの正社員の人によく連れてきてもらった。他には先ほど言及した天狗だとか、俳優座のビルのHUBなどが思い出される。あと、そこからさらに少し歩いたところにある家庭料理まつもとは現在もまだ営業されているのだが、ここがもう素晴らしい店で、わりと庶民的な価格で本当においしい料理をたくさん提供している。しかも、確か当時は明け方まで営業していたのではなかっただろうか(現在はどうなのか定かではないのだが、今回はたまたまやっていない時間帯だった)。
この向かい側に当時はおそらく無かったような気がするファミリーマートがあったので、カルピスウォーターを買った。1991年の気分を味わうのならば、やはりこの年の大ヒット商品であるカルピスウォーターを欠かすことはできないだろう。ということはずっと思っていて、駅のホームの自動販売機などで探したりしていたのだが、カルピスソーダはあるもののカルピスウォーターが無い。実は個人的にそれほど好んで買うようなこともなく、もしかすると今はもうそれほど流行ってはいないのだろうか、などとも考えたのだが、このファミリーマートで無事に買えて良かった。
六本木通りまでは戻らず、それよりも1本手前の道路で左折して真っ直ぐ歩くと当時であれば六本木WAVEの裏側に出たような気がする。しかし、いまや六本木WAVEはもちろんその裏側にあった六本木公園や小さな喫茶店もなく、六本木ヒルズに関連する建物のようなものが建っている。メイ牛山のハリウッドビューティーサロンは少し移転して、ハリウッドビューティプラザとして六本木ヒルズ内の立派な建物になっている。
これだけいろいろ変わっているにもかかわらず、六本木駅から六本木WAVEまでの間にあった文房具店のような店は、いまでもまだ健在である。ラピスコピーエキスプレスという名前のようだ。
ここで六本木WAVEがかつてあった場所の住所をiPhoneで検索して調べ、どうやらその跡地は六本木ヒルズの入口にあるメトロハットらしいということを知る。そう言われてみればそんな気もするのだ。
ところで、当時の六本木WAVEの雰囲気を思い出したくてインターネットを検索したりするのだが、実は最近コンパクトかつインスタントにそれを体験できるコンテンツを知った。ボブ・ディランが1985年にリリースしたアルバム「エンパイア・バーレスク」からシングル・カットされた「タイト・コネクション」のミュージックビデオである。これはこの年の4月20日に秘かに来日し、撮影されていたものだというのだが、その一部に少しだけ映っているというよりは、冒頭いきなり夜に浮かぶ六本木WAVEの外観からビデオがはじまる。私が高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめて間もない頃だが、ちなみに4月21日に私は新宿の帝都無線でアフリカ・バンバータの12インチ・シングルを買って、夜には渋谷LIVE INNで行われた小山卓治のライブを見に行っている。
フリッパーズ・ギターの音楽はピチカート・ファイヴやOriginal Loveなどと共に「渋谷系」を代表するものだとされている。フリッパーズ・ギターが活動をしていた1991年までの時点で、「渋谷系」という言葉はおそらく用いられていなかったとしてもだ。「渋谷系」の定義というのは個人的にはいま一つ曖昧なものなのだが、おそらく90年代のある時期に渋谷のHMVのそれ用のコーナーに陳列されていたようなものがそうだったのだろうと解釈している。このHMVというのはイギリスの歴史あるレコード店のチェーンだが、日本に進出するのはひじょうに遅かった。具体的には1990年の秋である。フリッパーズ・ギターが「カメラ・トーク」をリリースした頃にはまだ存在していなかったということになる。
渋谷のセンター街を入り、少し歩いたところにあるONE-OH-NINEというビルの1階の一部と地階にあった。1階にはDJブースのようなものもあったように記憶している。日本人アーティストによるCDは1階の方で販売されていた記憶があり、フリッパーズ・ギターのパネルのようなものがずっと掲示されていたような記憶がある。ある時期からたとえばオリコンのランキングとは異なる、渋谷という街の特性を生かしたような売場づくりにシフトし、それが成功していた印象がある。このビルには現在、ドン・キホーテが入っている。
フリッパーズ・ギターの「カメラ・トーク」がリリースされたのは1990年6月6日だが、その時点で渋谷のわりと大きめのCDショップといえばまだ宇宇田川町の東急ハンズの斜め向かい辺りにあった頃のタワーレコードと、渋谷ロフトの1階にあったWAVEが挙げられる。私が「カメラ・トーク」のCDを発売されてからわりとすぐに買ったのも、渋谷ロフトのWAVEであった。渋谷のタワーレコードは1981年からあったようだが、アメリカ盤の印象が強く、ある時期までは洋楽の国内盤や邦楽のCDも扱っていない、輸入盤専門店であった。そして、売場は当時、ジーンズメイトがあった建物の2階であり、後に3階にまで拡張された。
1983年の11月にオープンした六本木WAVEはひじょうに画期的な店舗だったということができる。まず、ビルの上から下までがレコード売場という店は当時としてはひじょうに珍しいというか、ほとんど存在していなかったのではないだろうか。しかも、ポップでメジャーなヒット作からマイナーでアンダーグラウンドな作品まで、洋楽も邦楽も国内盤も輸入盤も映像ソフトもすべて一緒に幅広く扱っていた。タワーレコードのロゴは現在と同じ黄色と赤を基調としたものだったが、六本木WAVEはグレーと黒、そのポストモダンな感じも時代の気分にマッチしていたように思える。
当時、旭川で高校生だった私は雑誌「宝島」の記事と広告でこの店のオープンを知るのだが、その時期にちょうど修学旅行があり、しかも東京で自由行動の時間が少しだけあったので、これを利用して行ってきたのである。とにかくそのすさまじさに圧倒されたわけだが、その時に買ったレコードといえば、カルチャー・クラブ、ダリル・ホール&ジョン・オーツ、ポリス、ジョン・クーガー・メレンキャンプ、ポール・マッカートニーと、別に旭川のミュージックショップ国原でも買えるレベルのミーハーなものばかりであった。
しかし、先ほども書いたように、当時、六本木WAVEで扱っていたレコードというのはこのようなミーハーなものばかりではなく、ひじょうにマイナーでマニアックなものも多かったのではないかと思われる。当時、六本木という街はそれほどアクセスがしやすくはなく、私も恵比寿で山手線から営団地下鉄日比谷線に乗り換えて行っていた。様々なジャンルのマニアックなレコード店というのはおそらくいろいろな街にあったのではないかと思うのだが、80年代においてある程度マニアックなレコードがたくさん置いてある店といえば六本木WAVEだったわけで、とにかくここまでわざわざ通っていた人達というのは少なくなかった。
また、六本木WAVEのわりとすぐ近くに青山ブックセンターがあり、ここは日曜以外は翌朝の5時ぐらいまで営業していることが特徴であった。雑誌や一般の書籍の他に、洋書やデザイン系の本もひじょうに充実していた。また、当時はニュー・アカデミズムとか新人類とかいって、現代思想がおしゃれでもあったのだが、こういった人文系の本などもしっかり揃えられていたような気がする。当時、アイドルポップスについて音楽評論的に書くなどした「よい子の歌謡曲」という雑誌があったのだが、旭川の書店では売っているのを見たことがなく、通信販売で買っていた。時々、投稿した文章を載せてもらったりもしていたのだが、大学受験のために上京した時、自分が菊池桃子について書いた文章などが載った本が六本木で売られているという事実に興奮を覚えたりもした。ちなみにこの「よい子の歌謡曲」の最後の号ではフリッパーズ・ギターが表紙になっていたのだが、当時、恵比寿に住んでいた友人と真夜中に散歩をし、青山ブックセンターで「よい子の歌謡曲」のこの号を買って、マクドナルドの2階でパラパラと見たりしていた記憶がある。
さて、青山ブックセンターは翌朝5時までも営業していて客がいたのだろうかと思われるかもしれないのだが、これがしっかりいたのである。当時の六本木といえばディスコの街であり、それはものすごい盛り上がりであった。私が大学生の頃などはインカレサークルとかいう、複数の大学をまたがったサークルがたくさんあって、いろいろなディスコが入ったスクエアビルとういう建物を貸し切ってダンスパーティーなどということがよく行われていたようである。大学の食堂や教室にいると、日焼けをして屈託のない笑顔を貼り付けた男子などからその券を売りつけられそうになるのだが、なんとなく嫌な予感しかしなかった私は一度も買うことがなかった。邪な期待などがあり、パーティー券を高等部から進学した派手そうな女子から売りつけられた友人は、気合いを入れて参加したものの、まったく相手にされず悲しい思いをして町田まで帰ってきた、などと話していた。そこではユーロビートなどがよくかかっている、ということであった。
あとは80年代半ばぐらいまでは、これもニュー・アカデミズムとかポストモダンとか現代思想などとイメージが重なったりもするのだが、カフェバーがおしゃれなスポットとしてよく利用されていたようだ。六本木WAVEにも1階に雨の木と書いてレインツリーと読むカフェバーが入っていた。六本木にはマスコミ業界人やクリエイターが多く、そういった人々の出会いの場とされていたような印象もあるが、そのイメージに一般人も乗っかって消費していたという感じなのだろうか。ザ・スタイル・カウンシルやスクリッティ・ポリッティなどの音楽はそういったカフェ・バーのようなところで大人気だと紹介されていたような気がするのだが、実際には行ったことがないので正確には分からない。しかし、全国的にブレイクしたばかりのとんねるずが主演していた深夜のテレビドラマ「トライアングルブルー」に登場する六本木のカフェバーでは、スクリッティ・ポリッティがよくかかっていたような気がする。
六本木WAVEは90年代に入ると次第に普通のCDショップのような感じになっていくのだが、これは1990年にHMVやヴァージン・メガストアが日本に上陸したり、タワーレコードが邦楽やアメリカ以外の洋楽にも本格的に力を入れはじめたことによって、客やバイヤーなどが流出していったことが原因だったかもしれない。また、1988年にやはり六本木で開局したFMステーション、J-WAVEはコンサバティブな会社員などに受けていたような印象があるが、六本木WAVEの客層や売れる商品というのも次第にこれに近づいていったような印象がある。
さて、フリッパーズ・ギターの「カメラ・トーク」「ヘッド博士の世界塔」がリリースされたぐらいの頃までというのは、六本木WAVEがまだまだ流行最先端のCDショップたりえた時代だということができ、小山田圭吾は雑誌のインタヴューだったか対談だったかは忘れたが、六本木WAVEを買い占めたいとかそのような話もしていたような気がする。
私は柴崎のローソンで深夜のアルバイトをしながら大学に通い、給料の大部分をCDと本と雑誌に費やしていた頃にフリッパーズ・ギターの「カメラ・トーク」に出会い、強い衝撃を受けるのだが、周囲にそれを共有できる人達がいたというわけではない。しかし、雑誌などを見るとフリッパーズ・ギターのファンというのはたくさんいて、そこにはおしゃれでキラキラした世界があるとされている。こんなものは一体どこに行けばあるのだろうか、こういう人達にはどうすれな出会うことができるのだろう、少なくとも当時の生活の延長線上にはないはずだと思い、何かを変えてみようとした。その手はじめというのが六本木WAVEで働くことという短絡思考にも程があるわけだが、実際にそこにはフリッパーズ・ギターやその周辺の音楽について、相当な熱量で語り合える人達がわりといたのだった。そして、おしゃれでキラキラした世界に自分自身も飛び込めるかもしれない、というような感覚もあったのだが、実際にそこまでは行ききらなかった。
そういったわけで、フリッパーズ・ギターの音楽といえばなんとなく六本木のイメージが個人的には強いし、六本木WAVEでフリッパーズ・ギターのメンバー、特に小山田圭吾をやたらとよく見かけたということもあった。
それで、「ヘッド博士の世界塔」を発売30周年のその日にどこで聴くかということになると、もちろんここではないかという気分になるわけである。そして、実際にそうした。かつて六本木WAVEがあったはずの六本木ヒルズのメトロハットの近くで、あの夏、自動販売機でいつも売り切れていたカルピスウォーターを飲みながら聴いていた。ちなみに「ヘッド博士の世界塔」は今回、iPhoneで聴いていたのだが、7月11日はiPhoneが日本で初めて発売された記念日にあたるらしい。六本木通りの向う側に、マクドナルドはとっくにもうない。昼休みによくパンを買っていたポンパドウルとカレーを食べに行っていたMOTIは同じビルに入っていて、これは現在も残っている。渋谷行きのバス停留所は青山ブックセンターの前にあった。宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」のポスターが店頭に貼られていて、バスの後部座席からそれを見た女性が、なんだか寒そうというようなことを言っていた。彼女は2階の商品管理か地下2階の事務所で働いていたはずである。青山ブックセンターがあった場所だが、現在は文喫という本に関連してはいるようなのだが、なんだかよく分からないスペースになっている。当時はこの近くに牛丼の吉野家があり、仕事終わりに食事をしているWAVE従業員の姿が見られることもあった。
昼休みにはカプリチョーザやヴィクトリアステーションというステーキの店やサムラートというインドカレー店や四川飯店という中華料理店などに行くこともあったが、いずれももうないのではないかと思われる。あと、六本木食堂というやたらと庶民的な店にも何度か行ったことがある。また、仕事が終わってから防衛庁の方にあるドラム缶ラーメンとやらを食べに行く人達もわりと多かったのだが、私は結局、行かずじまいだった。それからしばらくして、確か2015年ぐらいだったと思うのだが、モーニング娘。’15(当時)の飯窪春菜がブログで紹介している六本木のラーメン店があったので、行ってみるとおそらくそこだった。このご時世に厨房で喫煙しながら調理をするという、ワイルドなスタイルが印象的であった。
六本木WAVEは22時で閉店だったが、それから正社員の人達に飲みに連れて行ってもらったりしているとわりと遅い時刻になっていて、渋谷行きのバスは深夜料金になっていた。記憶が定かではないのだが、確か倍ぐらいの価格だったのではないだろうか。それで、地下鉄を乗り継いで渋谷まで行くこともあったのだが、渋谷まで歩いたりもしていた。体感だと40分ぐらいかかったような記憶があるのだが、Googleマップで調べてみると徒歩約30分ということであった。
それで、とても暑い日ではあったのだが、当時と同じ道を歩いて帰ってみることにした。西麻布にはアイスクリームのホブソンズが当時からずっとある。80年代には行列ができるほどの大ブームが起こったりもしていたらしい。西麻布といえば初めてこの地名を知ったのがとんねるずの「雨の西麻布」なのだが、あれは演歌のパロディーにような曲調と、業界人に人気の最新スポット的な印象もある西麻布という地名とのギャップの妙を狙ったものだったのだろうか。この近くにはひじょうに有名なカフェバー、レッドシューズもあったはずである。また、夜に歩いているとやっているのかいないのかよく分からない、輸入雑貨のようなものを売っているような店がポツンとあったような気がするのだが、もしかすると幻だったかもしれない。
骨董通りと呼ばれるところに入り、歩いて行くのだが、六本木WAVEでは午後から閉店まで働いていた曜日もあり、青山学院大学のキャンパスで講義が終わってからバスで行くことが多かった記憶がある。バス停の近くにはガソリンスタンドや嶋田洋書という書店があったような気がする。現在、渋谷のタワーレコードで復活している伝説のレコード店、パイドパイパーハウスもこの辺りにあったはずで、私はおそらく2、3回しか行ったことがなく、しかもフレディー・ジャクソンやグレン・ジョーンズといった、あまりパイドパイパーハウスっぽくないレコードしか買わなかったような気がする。六本木にはDJご用達といわれていたウィナーズというひじょうに有名なレコード店があり、深夜に行ったことがあるのだが、ダンスミュージックのレコードがたくさん置かれていて、プロっぽいなと感じた。
骨董通りではモデルのような人達が歩いているところなどをよく見かけたな、などと思って歩いていると、やはりブティックのようなところの近くでこの世のものとは思えないほど美しいモデルのような人が何らかの撮影をしていて、ミーハー的にテンションが上がった。青山通りとぶつかる角のところにカフェレストランのような店が当時はあって、ここで原稿用紙に「よい子の歌謡曲」に投稿する原稿を書くなどして、マイルドなライター感覚に浸っていたことが思い出される。原稿用紙にペンで書いていた。青山通りを渋谷方面に向かって歩いて行くと、中学生ぐらいの女子が2人、ブドウ味(のように見える色)のアイスキャンディーを食べながらすれ違って行き、スチャダラパー「サマージャム’95」が頭の中で流れ出した。すぐ近くに蕎麦屋があったので、ざるかせいろか、それが正論といきたい気もしたのだが、家で夕食が用意されているのでそうはしなかった。
多額の現金を持ち歩いていることでマスコミにもよく登場していた社長で知られる城南電機の店もこの辺りにあったな、などと思いながら渋谷駅の方に歩いて行く。かつては小さな書店や森永LOVEの前などを通って、東急東横線の方から入っていく個人的な通学路があったのだが、いまや開発によってその道もとっくにもうない。それで、ごく普通に井の頭線に乗って、明大前で乗り換えていつものように帰ってきた。
フリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」をその間、何度か聴いたのだが、短期間にこんなにも聴いたのはもしかするとリリースされてから30年間ではじめてのことかもしれない。「カメラ・トーク」は好きすぎるし聴きすぎて、これ以上聴いてもただただより馴染んでいくだけのような気もするのだが、「ヘッド博士の世界塔」は実はそれほど深く聴き込んでいなかったのではないかということがいまさらながらに感じられ、聴けば聴くほど良くなっていく。また、今回、30周年にまつわりいろいろな人達との個人的なやり取りや、アニバーサリー的なことなどもあり、それがまた新たな思い出補正につながっていくような気もしているのだ。
それにしても情報量が多く過剰なエネルギーが感じられ、確かにこれは名盤ではないかと思える。そして、こういう付き合いになるアルバムというのもなかなか貴重なものだ。